婚約破棄されたので、実家の工房で永遠に書けるペンを作ったら王子様に求婚されました
「あなたとの婚約は解消します。理由はお分かりですね?」
クロード・ダ・モンターニュ侯爵は、まるで芝居がかった仕草で私を見下ろした。
(ああ、やっぱりこうなったか)
私、リーネ・フォン・アルトシュタインは内心で深くため息をついた。表面上は驚きと悲しみを浮かべるべきなのだろうが、正直なところ、そんな演技をする気力すら湧いてこない。
王宮の庭園には薔薇の香りが漂い、午後の陽光が噴水の水面をきらきらと輝かせている。こんな美しい場所で告げられる婚約破棄。なんとも皮肉な取り合わせだ。
「理由、ですか」
私は静かに彼の手元に視線を落とした。
そこには、私が三年前の婚約記念に贈った万年筆はない。代わりに握られているのは、金と宝石で過剰に装飾されたボールペン。悪趣味な輝きを放つそれは、明らかに私の工房の品ではなかった。
(セリーナ・バロン・ヴェルデ。やはりあの女か)
「セリーナは純粋で、健気で、そして何より——貴族令嬢らしい」
クロードは恍惚とした表情で語り始めた。その瞳には、私という婚約者への関心は微塵も残っていない。
「それに比べて君はどうだ? 工房に入り浸り、インクで指を汚し、まるで商人のような真似ばかり。侯爵夫人としての自覚がないのだよ」
(商人のような真似、ね)
私は小さく息を吐いた。我がアルトシュタイン家は代々王家御用達の筆記具工房を営む家系だ。その技術と品質は王国随一と称され、各国の王族からも注文が絶えない。
それを「商人の真似事」と蔑むこの男は、自分が何を言っているのか分かっているのだろうか。
「そのボールペン」
私は彼の手元を指さした。
「インクが三日で固まりますよ」
「は?」
クロードが眉をひそめる。
「見たところ、ペン先の金属加工が雑ですね。おそらく安価な合金を使用しています。装飾に予算を割きすぎたのでしょう。インクとの相性を考慮していない設計です」
私は淡々と説明を続けた。これは嫌味ではない。ただの事実だ。
「三日後、書けなくなったペンを振り回すクロード様のお姿が目に浮かびます」
「なっ……無礼な! これはセリーナが心を込めて選んでくれた品だぞ!」
「ええ、存じております」
私は完璧な笑顔を浮かべた。
(心を込めて選んだ粗悪品。お似合いですね、お二人とも)
「では、婚約解消の件、謹んでお受けいたします」
深々と一礼し、踵を返す。背後でクロードが何か喚いているが、もう聞く必要はない。
薔薇の香りが鼻をくすぐる。不思議と心は軽かった。
三年間、この婚約のために我慢してきたことが走馬灯のように蘇る。社交界での退屈な会話。彼の実家への贈り物選び。「もっと令嬢らしくしろ」という小言の数々。
そのすべてから、ようやく解放される。
(さて、お父様になんと報告しようかしら)
私は空を見上げた。雲一つない青空が、まるで私の未来を祝福しているかのようだった。
◇
アルトシュタイン工房は、王都の職人街の一角にある。
重厚な木の扉を開けると、インクと木材の混じった懐かしい香りが私を包み込んだ。この匂いを嗅ぐと、いつも心が落ち着く。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
古参職人のマルタが、作業の手を止めて微笑んだ。白髪交じりの髪を後ろで束ね、エプロンにはインクの染みがいくつも付いている。
「ただいま、マルタ」
「……何かありましたか?」
鋭い。この人にはいつも見透かされる。
「婚約を解消してきました」
「まあ」
マルタは驚いた様子もなく、むしろ安堵したように息を吐いた。
「ようやくですか。あの侯爵様では、お嬢様の価値が分かるはずもありませんでしたからね」
「マルタったら」
「本当のことですよ。お嬢様の作るペンは魂が宿っているのです。それを理解できない方に、お嬢様を渡すわけにはいきません」
私は苦笑した。マルタは昔から私に甘い。幼い頃から工房に入り浸り、見様見真似でペンを作り始めた私を、誰よりも応援してくれた人だ。
「お父様は?」
「奥の作業場に。新しいインクの調合をされていますよ」
私は頷き、工房の奥へと進んだ。
◇
作業場では、父——エルンスト・フォン・アルトシュタインが黙々とインクを調合していた。
温厚で寡黙な父は、私が入ってきても顔を上げない。ただ、その手は一瞬だけ止まった。
「お父様」
「……聞いた」
短い言葉。それだけで、父は全てを理解しているのだと分かった。
「婚約は解消されました。ご迷惑をおかけして——」
「ようやく帰ってきたか」
父は初めて顔を上げた。その瞳は穏やかで、どこか嬉しそうにも見えた。
「工房を継ぐ気はあるか」
「……よろしいのですか?」
「お前の腕は、俺よりも上だ。昔からそうだった」
私は目を見開いた。父がそんなことを言うなんて、初めてだった。
「リーネ。良い筆記具は、使う者の人生に寄り添う」
父は再びインクに視線を戻した。
「お前のペンには、その力がある。俺にはそれが分かる」
胸の奥が熱くなった。泣きそうになるのを堪え、私は深く頭を下げた。
「精進します」
「ああ。——それと、新しい弟子が入った。明日から指導を頼む」
「弟子、ですか?」
「変わった奴でな。腕は悪くないが、愛想がない」
父は小さく笑った。
「お前と気が合うかもしれん」
(愛想がない人と気が合う、というのは褒め言葉なのかしら)
私は首を傾げながら、明日への期待を胸に工房を後にした。
◇
翌朝、私は日の出とともに工房へ向かった。
新しい弟子がどんな人物か気になっていたのだ。父が「変わった奴」と評するからには、相当な個性の持ち主に違いない。
作業場に入ると、すでに誰かが先客としていた。
(早いわね)
窓際の作業台に向かう背中は、広くて逞しい。粗末な作業着を纏い、黒髪を無造作に後ろで束ねている。首筋に汗が滲んでいるところを見ると、かなり前から作業を始めていたのだろう。
「おはようございます」
私が声をかけると、男は振り返った。
深い紺碧の瞳が私を捉える。端正な顔立ちだが、無精髭が生えていて、どこか野性的な印象を与えた。年は私より少し上だろうか。
「……誰だ」
低い声。愛想の欠片もない。
(なるほど。確かに愛想がないわね)
「リーネ・フォン・アルトシュタインです。この工房の——」
「ああ、指導役か」
男は興味なさそうに視線を戻した。
「俺はレイド。よろしく」
(レイド? 姓は名乗らないのね)
平民の職人には姓を持たない者も多い。おそらくそういうことだろう。
「レイドさん、今何を?」
「ボールペンのペン先を削っている」
私は彼の手元を覗き込んだ。確かに、ボールペンのペン先を調整する作業だ。しかし——
「その角度では、インクの流れが悪くなりますよ」
「……何?」
レイドが眉をひそめる。
「ペン先の角度は45度が基本ですが、インクの粘度によって微調整が必要です。今お使いのインクは粘度が高めですから、もう3度ほど角度を緩めた方がいいですね」
私は彼の手からペン先を受け取り、素早く調整を加えた。
「こう。これで試し書きをしてみてください」
レイドは無言で紙にペンを走らせた。滑らかな線が描かれる。彼の目が微かに見開かれた。
「……悪くない」
(それだけ?)
私は内心で肩をすくめた。まあいい。職人は腕で語るものだ。
「レイドさんはどちらで修行を?」
「各地を転々としていた」
「ご出身は?」
「覚えていない」
(嘘ね)
彼の手は、労働者にしては白すぎる。爪も整えられているし、姿勢も良い。そして何より、その紺碧の瞳の色は——
(まあ、詮索するのは野暮というものかしら)
私は追及をやめ、自分の作業台に向かった。
◇
数日が経った。
レイドは確かに変わった男だった。
朝は誰よりも早く来て、夜は誰よりも遅くまで残る。無口で、他の職人たちとも必要最低限の会話しかしない。しかし、その腕前は確かだった。
特に、細かい作業への集中力は目を見張るものがある。
「レイドさん、お茶をどうぞ」
私が差し出したカップを、彼は無言で受け取った。
「……毎日持ってくるな」
「職人は水分補給が大切ですから」
「お前は——」
彼が何か言いかけた時、私の作業台に置いてあった試作品が目に入ったらしい。
「それは?」
「ああ、これですか。新しいボールペンの試作品です」
レイドは許可も得ずにペンを手に取った。普通なら失礼な行為だが、職人の世界ではよくあることだ。良い物を見たら、触って確かめたくなるのは本能のようなものだから。
彼はペン先を光にかざし、重さを確かめ、そして試し書きをした。
一行、二行、三行——
「…………」
レイドの手が止まった。紺碧の瞳が大きく見開かれている。
「この書き心地……」
彼は信じられないものを見るような目で私を見た。
「お前、何者だ」
「ただの工房の娘ですが?」
「嘘をつくな」
レイドは真剣な表情で詰め寄ってきた。その迫力に、思わず一歩後ずさる。
「このペン先の加工精度、インクの流れを計算し尽くした設計、そして——この握った時の重心バランス。これを作れる職人が『ただの工房の娘』なわけがない」
(……この人、分かるのね)
私は少し驚いていた。このボールペンには、私の技術の粋を詰め込んでいる。しかしそれは、玄人でなければ気づかない細部への拘りだ。
「お詳しいんですね」
「答えになっていない」
「では質問を変えましょう。レイドさんこそ、何者なのですか?」
沈黙が流れた。
レイドは私を見つめ、私も彼を見つめ返す。互いに探り合うような視線が交錯した。
「……俺は、ただの職人見習いだ」
「奇遇ですね。私もただの工房の娘です」
私たちは同時に小さく笑った。
おかしな共犯関係が、そこに生まれた気がした。
◇
「お嬢様、あの方のこと、お気づきですか?」
夕方、マルタが私に耳打ちした。
「レイドさんのこと?」
「ええ。あの瞳の色、そして立ち居振る舞い……どこかで見覚えがあるのです」
私は曖昧に微笑んだ。
「さあ。私にはただの熱心な職人に見えますが」
(嘘よ。おそらく私も、マルタと同じことを考えている)
あの深い紺碧の瞳。王家の血筋にしか現れないと言われる、特別な色。
そして彼の物腰には、どこか高貴な者特有の気配がある。隠そうとしているが、完全には消しきれていない。
(第二王子レイド・ヴァン・エルディア殿下——と考えるのが自然よね)
しかし、それを暴く気はなかった。彼が身分を隠しているなら、きっと理由があるのだろう。
「マルタ、彼のことは放っておきましょう」
「……かしこまりました、お嬢様」
マルタは何か言いたげだったが、それ以上追及してこなかった。
私は窓の外を見た。夕焼けに染まる空の下、まだ工房に残って作業を続けるレイドの背中が見える。
(どうして王子様が、こんな所で職人見習いを?)
その謎は、やがて解けることになる。
けれど今は、ただ——
「悪くない、か」
私は彼の口癖を真似て呟き、自分の試作品を見つめた。
明日は、もっと良いものを作ろう。
そう思える相手に出会えたことが、少しだけ嬉しかった。
◇
その知らせが届いたのは、婚約解消からちょうど三日後のことだった。
「お嬢様、大変です!」
マルタが血相を変えて工房に飛び込んできた。
「どうしたの?」
「モンターニュ侯爵家が——契約書を台無しにして、大損害を被ったそうです!」
私の手が一瞬止まった。
(三日。予想通りね)
「原因は?」
「インク漏れだそうです。重要な契約書にサインをしている最中に、ペンのインクが一気に溢れ出して……書類が全て使い物にならなくなったとか」
「まあ、大変」
私は表情を変えずに言った。内心では小さく頷いている。
(あのボールペン、やはりペン先の加工が粗悪だったのね。インクが固まる前に、内圧で漏れ出したのでしょう)
「それだけではありません。クロード様は『リーネに呪われた』と騒いでいるそうで……」
「は?」
思わず素の声が出た。
「婚約解消の時に何か言われたでしょう? 『三日でインクが固まる』と。それを呪いだと——」
「ただの品質評価なのに」
私はため息をついた。あの人は本当に、物事の本質が見えていない。
「呪いなどあるわけないでしょう。単純に、粗悪品を使ったから当然の結果になっただけです」
「ええ、私もそう思います。ですが、社交界ではお嬢様の悪い噂が……」
「放っておきなさい」
私は作業に戻った。
「真実はいずれ明らかになります。それより、私には作りたいものがあるの」
◇
「何を作っている」
いつの間にか、レイドが隣に立っていた。
「新型のボールペンです」
「また新しいものを?」
「ええ。今度は——永遠にインクが固まらないペンを」
レイドが眉を上げた。
「不可能だろう」
「普通はそうですね」
私はペン先の設計図を広げた。複雑な機構が描かれている。
「でも、不可能を可能にするのが職人の仕事でしょう?」
レイドは無言で設計図を覗き込んだ。その目が、徐々に真剣味を帯びていく。
「……このインク循環機構、理論上は成立する」
「でしょう? ペン先に微細な溝を刻んで、常にインクが流れ続ける仕組みです。止まらないから固まらない」
「だが、この加工精度を実現するのは——」
「至難の業。分かっています」
私は新しいペン先を手に取った。これから数十時間に及ぶ、地道な作業が始まる。
「手伝おうか」
レイドの言葉に、私は目を丸くした。
「いいんですか? ご自分の作業もあるでしょう」
「これは見てみたい」
彼は椅子を引き寄せ、私の隣に座った。近い。インクの匂いに混じって、彼の体温を感じる距離。
「……悪くない設計だ」
「その言葉、レイドさんの最大級の賛辞だって知ってますよ」
レイドが一瞬固まった。
「誰に聞いた」
「マルタに」
「……あのおばさん、余計なことを」
彼は気まずそうに視線を逸らした。その仕草が、普段の無愛想な態度とは違って、どこか可愛らしく見えた。
(この人、本当は不器用なだけなのね)
私は小さく笑い、作業に集中した。
◇
数週間が過ぎた。
私とレイドは、毎日のように新型ボールペンの開発に取り組んだ。失敗作の山が積み上がっていく。
「また失敗だ」
レイドがペンを置き、天井を仰いだ。
「インクの粘度を変えてみましょうか」
「何度目だ、それ」
「二十三回目ですね」
「数えているのか」
「職人は記録を取るものですから」
私は新しいインクを調合しながら答えた。
この数週間で、レイドの態度は少しずつ変わっていた。相変わらず無愛想だが、私といる時だけ、ほんの少し表情が柔らかくなる。
そして彼は、私の失敗作を一つも捨てさせなかった。
「このペン、どうするんですか?」
失敗作を回収しようとした時、レイドに止められたのだ。
「捨てるな」
「でも、失敗作ですよ」
「お前が作ったものだ。失敗だろうと価値がある」
(…………)
私は言葉を失った。
今まで、私の作品を——失敗作まで含めて——大切にしてくれた人がいただろうか。クロードは私の贈り物に興味すら示さなかった。社交界の人々は、私の仕事を蔑んでいた。
なのに、この人は——
「どうした。顔が赤いぞ」
「何でもありません」
私は慌てて顔を背けた。
(落ち着きなさい、リーネ。この人はただの職人仲間よ)
そう自分に言い聞かせながら、私は新しいインクの調合を始めた。
心臓が、やけにうるさかった。
◇
「ねえ、聞いた? ヴェルデ男爵家の話」
マルタが夕食時に切り出した。
「何かあったんですか?」
「あの家が経営している筆記具店、詐欺を働いていたらしいのです。粗悪品を高値で売りつけていたとか」
私の手が止まった。
「セリーナ嬢の実家ですね」
「ええ。王都の調査官が動いているそうで、このままでは没落は免れないでしょう」
(因果応報、というやつかしら)
私は紅茶を一口飲んだ。
「クロード様はどうなさっているのですか?」
「それが、まだセリーナ嬢を庇っているそうで……『リーネの陰謀だ』と」
「私の?」
「ええ。婚約解消の腹いせに、ヴェルデ家を陥れたのだと」
私は深くため息をついた。もう呆れる気力もない。
「証拠もないのにそんなことを言って、クロード様は墓穴を掘っていることに気づかないのかしら」
「おそらく、気づかないでしょうね」
マルタは肩をすくめた。
「それより、お嬢様」
「何?」
「レイドさんとの仲、随分良さそうですね」
「なっ——」
「今日も一日中、お二人で作業していらしたでしょう? とてもお似合いですよ」
「マルタ!」
私の抗議を無視して、マルタはにこにこと笑っている。
「良い筆記具は、書く者の心を映す鏡ですよ。お嬢様の作るペンが最近どんどん良くなっているのは、きっと——」
「もう、その話はやめてください!」
私は顔を真っ赤にして席を立った。
マルタの笑い声が、背中に追いかけてくる。
(心を映す鏡、か)
確かに、最近のペンは調子が良い。インクの乗りも、書き心地も、以前より格段に向上している。
それが誰かのおかげだとは、認めたくないけれど——
窓の外を見ると、月明かりの下で今日もレイドが作業を続けていた。
「……まったく」
私は小さく呟き、二杯目の紅茶を淹れに戻った。
二人分。
◇
開発を始めて三ヶ月が経った夜のことだった。
「——できた」
私の声は、自分でも震えているのが分かった。
手の中のボールペンは、何の変哲もないように見える。しかし、その内部には数十回の試行錯誤を経て完成した、革新的な機構が組み込まれている。
「レイドさん」
私は隣で作業していた彼を呼んだ。この数ヶ月、彼は毎日私の傍にいた。夜遅くまで一緒に作業し、失敗しては励まし合い、また挑戦を続けた。
「どうした」
「試してみて」
ペンを差し出す。レイドは無言でそれを受け取り、紙に走らせた。
滑らかな線が描かれる。まるで水の上を滑るように、インクが流れていく。
一行、二行、三行——
十行、二十行——
レイドは書き続けた。時間が経っても、インクは途切れない。詰まらない。固まらない。
「…………」
彼の手が止まった。紺碧の瞳が、静かに私を見つめる。
「リーネ」
名前を呼ばれた。彼が私の名を呼ぶのは、これが初めてだった。
「お前は、とんでもないものを作った」
「悪くない、ではないのですか?」
「悪くない、なんて言葉では足りない」
レイドは立ち上がり、ペンを大切そうに握りしめた。
「これは革命だ。筆記具の歴史を変える発明だ」
私の胸が熱くなった。この三ヶ月、何度も諦めかけた。もう無理だと思った夜もあった。
でも、彼がいたから続けられた。
「レイドさんのおかげです」
「俺は何もしていない」
「いいえ。あなたがいなければ、私は途中で諦めていました」
「…………」
レイドは黙って窓の外を見た。月明かりが彼の横顔を照らしている。
「リーネ。俺は——」
その時、工房の扉が開いた。
「お嬢様、大変です!」
マルタが駆け込んでくる。その顔は蒼白だった。
「何事?」
「王宮から使者が……レイドさんを探しているそうです」
私はレイドを見た。彼の表情が、一瞬で険しくなる。
「……そうか。見つかったか」
「レイドさん?」
彼は深くため息をついた。そして、私に向き直る。
「リーネ。話しておかなければならないことがある」
「何を——」
「俺の本当の名は、レイド・ヴァン・エルディア」
私は息を呑んだ。予想していたはずなのに、改めて告げられると、心臓が跳ね上がる。
「この国の第二王子だ」
◇
「なぜ身分を隠していたのですか」
使者を追い返した後、私は静かに尋ねた。レイドは——いや、王子殿下は苦い表情を浮かべている。
「王宮が嫌いだった」
「嫌い?」
「俺は幼い頃から、王位継承争いに巻き込まれてきた。兄は俺を敵視し、貴族たちは自分の利益のために俺に近づいてくる。誰も俺自身を見ていなかった」
彼は窓の外を見つめた。
「だから逃げ出した。どこか、俺の身分など関係ない場所を探して、各地を転々とした」
「それで、この工房に?」
「ああ。ここで初めて、純粋に『腕』だけで評価された。お前に——リーネに出会って」
レイドの視線が私を捉える。その瞳には、今まで見たことのない感情が宿っていた。
「お前のペンは、嘘をつかない。見栄も、打算も、何もない。ただ使う者のことだけを考えて作られている。——俺は、そういう誠実さに飢えていたんだと思う」
私は何も言えなかった。胸が苦しい。
「王宮に戻らなければならないのですか」
「……ああ。父上——国王陛下が、俺に会いたいと」
「そうですか」
私は努めて冷静に答えた。分かっていた。いつかこうなることは。王子様と職人の娘が、いつまでも一緒にいられるわけがない。
「リーネ」
レイドが私の手を取った。大きくて、温かい手だ。インクと木の香りが微かに残っている。職人の手だ。
「待っていてくれないか」
「え?」
「必ず戻ってくる。そして——」
彼は言葉を切った。まるで、何かを決意するように。
「いや、今は言わない。戻ってきた時に、ちゃんと伝える」
「レイドさん——」
「それと、これを」
彼は懐から何かを取り出した。私の試作品だった。一番最初に作った、失敗作のボールペン。
「ずっと持っていてくれたんですか?」
「ああ。お前が作った最初のペンだ。——これが俺のお守りだ」
レイドは微かに笑った。無愛想な彼が見せた、初めての柔らかな笑顔だった。
「待っていろ、リーネ。俺は必ず——」
彼は踵を返し、夜の闇に消えていった。
残されたのは、月明かりと、完成したばかりの「永遠のペン」と、私だけ。
「……待っていますよ」
誰もいない工房で、私は静かに呟いた。
指先には、まだ彼の温もりが残っている。
◇
三ヶ月後——王家主催の筆記具品評会の日が来た。
レイドが去ってから、私は休むことなく働き続けた。新型ボールペンの量産体制を整え、品質を安定させ、そして品評会への出品準備を進めた。
待っているだけでは駄目だ。
私は私の道を歩む。その先で、また彼に会えることを信じて。
「お嬢様、準備はよろしいですか?」
マルタが緊張した面持ちで尋ねた。
「ええ。行きましょう」
◇
王城の大広間には、王国中の名だたる職人たちが集まっていた。
煌びやかなシャンデリアの下、貴族たちがざわめく中を、私は静かに歩いた。
「見ろ、あれがアルトシュタイン工房の……」
「婚約破棄された令嬢だろう? よくここに来られたものだ」
「いや、彼女の腕は確からしい。父親の代から王家御用達だぞ」
ひそひそ声が耳に入る。私は気にせず、前を向いて歩いた。
(クロードの噂を信じている人もいるようね)
かつての婚約者は、今や社交界の笑いものだった。セリーナの実家の詐欺に加担していたことが発覚し、侯爵家の信用は地に落ちている。それでも彼は「リーネのせいだ」と喚き続けているらしいが、もう誰も相手にしていない。
「リーネ様」
不意に声をかけられた。振り返ると、そこにはクロードがいた。かつての華やかさは消え、げっそりと痩せた顔は鬼気迫るものがある。
「よくも俺をこんな目に……!」
「クロード様」
私は静かに彼を見据えた。
「私は何もしていません。あなたは自分の選択で、今の状況を招いたのです」
「黙れ! お前が呪いを——」
「粗悪品を使えば壊れる。品質を見抜けなければ損をする。それだけのことです」
私はクロードに背を向けた。
「あなたには、良い物を見る目がなかった。——それが全てです」
彼が何か喚いているが、もう振り返らなかった。
◇
審査の時間が来た。
私は自作のボールペンを審査員たちに差し出した。王国最高の職人たち、そして王家の人間が並んでいる。
「これは……」
審査員の一人がペンを試し、目を見開いた。
「インクが途切れない。いくら書いても——」
「永久循環機構と名付けました。ペン先に刻んだ微細な溝により、常にインクが流れ続ける設計です」
「信じられん。これほどの加工精度は見たことがない」
審査員たちが興奮気味に話し合う。その様子を見ながら、私は静かに結果を待った。
「リーネ・フォン・アルトシュタイン殿の作品、『永遠のペン』——最優秀賞とする!」
大広間にどよめきが起こった。貴族たちが拍手を送る。私は深々と一礼した。
この瞬間を、レイドに見せたかった。
◇
授賞式が始まった。
私は壇上に立ち、国王陛下からの賞状を受け取るために進み出た。
その時——
「お待ちください」
凛とした声が、大広間に響いた。
私は息を呑んだ。その声には、聞き覚えがあった。
人々が道を開ける。現れたのは——
漆黒の髪と紺碧の瞳。正装に身を包んだ彼は、工房にいた頃とは別人のように凛々しい。しかしその目だけは、あの時と変わらず真っ直ぐに私を見つめていた。
「レイド様……?」
「レイド王子殿下だと!?」
広間がざわめく。しかしレイドは周囲の視線など気にせず、真っ直ぐに私の前まで歩いてきた。
そして——
跪いた。
「レイドさん、何を——」
「リーネ」
彼は懐から一枚の書類を取り出した。それは——
「結婚届だ」
「っ……」
「俺の人生に、君の作った一本のペンで署名してほしい」
大広間が静まり返った。貴族たちが息を呑む気配がする。
「俺は三ヶ月、お前のことばかり考えていた。お前がいないと眠れなかった。お前の作ったペンを握りしめて、やっと落ち着けた」
レイドの声が、微かに震えている。無愛想で不器用な彼の、精一杯の言葉だと分かった。
「俺はお前が必要だ。お前の作るペンが好きだ。お前の——全てが」
私は涙を堪えながら、微笑んだ。
「それ、悪くない、ではないのですか?」
「今日くらいは許せ」
私は自作のボールペン——「永遠のペン」を取り出し、レイドに差し出した。
「インクが切れるまで、お付き合いしましょうか」
レイドが目を見開く。そして、小さく笑った。
「それは——永遠に、ということか」
「ええ。このペンは、永遠にインクが切れない設計ですから」
私は署名欄にペンを走らせた。滑らかにインクが流れ、私の名前が記される。
続いてレイドが、同じペンで署名を入れた。
大広間に拍手が響き渡る。私はレイドの手を取り、共に立ち上がった。
「……悪くない」
「ふふ、やっぱりそれですか」
「悪い癖だな」
「いいえ。私、その言葉が好きですよ」
レイドが少しだけ顔を赤らめた。その仕草が、無愛想な外見とは裏腹に可愛らしくて、私は思わず笑ってしまった。
◇
数年後——
アルトシュタイン工房は、王国一の筆記具工房として名を馳せていた。「永遠のペン」は国内外で高い評価を受け、各国の王族からも注文が絶えない。
「リーネ、新作は完成したか」
工房に入ってきたレイドが、作業台を覗き込む。すっかり職人の顔に戻った彼は、今でも私の一番の理解者であり、共同開発者だ。
「もう少しです。——あなた、紅茶を入れてきてくださる?」
「分かった」
レイドが台所に向かう。私は新作のペン先を調整しながら、窓の外を見た。
平和な日常。愛する仕事と、愛する人。かつて「商人じみた令嬢」と蔑まれた私が手に入れた、ささやかな幸せ。
「——お前のペンは、相変わらず悪くない」
紅茶を持ってきたレイドが、完成品を眺めながら言った。
「その言葉、一生聞き続けることになりますね」
「ああ。俺たちのインクは、永遠に切れないからな」
私たちは顔を見合わせて笑った。
工房には、インクと木の香りが満ちている。私の一番好きな香り。
——そして、これからも永遠に続く、私たちの物語の香り。




