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透明な魚

 そのガラス張りの水槽の前で、飽きもせずに亜矢子は、じっと、その魚を見つめていた。そこは、都内にある某水族館の館内である。巨大なガラスの向こうに見える、その魚は透明な姿をしていた。骨も、内臓も、眼球も、すべてが透明な身体に包まれて透けているのである。スケルトンフィッシュであった。その大きな魚を、亜矢子はじっと見つめて、そのスイスイと泳いでいく様子を目で追うようにして見ていた。「透明な魚」と、彼女は、口の中で呟いた。まるで、魔法の言葉のようであった。

 彼女は、毎日のように、この水族館を来訪していた。無論、この魚を確かめるためである。今日も魚はここにいる。それで彼女は、何とか心のよりどころを支えていたかのようであった。

 亜矢子は、街を歩いて行く。すると、まるで周りの人間までもが、あの魚のように透明に見えてきた。錯覚であろう。

「透明な時代?」

と、彼女は、自分に訊いた。返事はない。

 翌日、亜矢子は出社した。

 ずらりと並んだデスクの前で、皆が、一斉にコンピューターの画面に向かって仕事をしている。皆が無表情だ。ただ、ひたすらにキーボードのキーを叩き続ける。そのカチャカチャという音だけが部屋に鳴り響く。亜矢子は、そこに、何やら冷たい機械的な印象を受けて、身震いした。

 でも、仕事だ。彼女も同じようにデスクに向かい、仕事を始める。やがて、同僚の加奈子が、彼女にコーヒーを運んできた。亜矢子は、正直、嬉しかった。それで彼女に

「ありがとう」

と、声を掛けた。しかし、彼女は、返事をしないで、さっさと自分の席へ戻っていく。実に事務的である。

 そこで、思わず、亜矢子は、

「透明な魚.................」

と、呟いていた。

 仕事が、ひと段落した。彼女は、部長の印を貰おうと、机に向かって行った。部長も無表情だ。

「あのう、すみません。ハンコ、貰えますか?」

 すると、部長は、無言で彼女の書類を受け取り、印鑑を押すと、黙って返してきた。

「あのう、それで、明日の会議の件なんですが?」

 聞こえないのか、返事がない。

 彼女は仕方なく、そのまま席に戻った。

 亜矢子は、ボンヤリと席で、窓の外を眺めていた。青い空に、あの透明な魚が泳いでいるような気がした。それで、長い間、眺めていると、背後から声がかかった。

「田村さん、仕事して下さい」

「ああ、すみません」

 実に冷たい口調だった。彼女は、また、

「透明な.......................」

と、呟いていた。

 仕事が終わった。皆は、荷物を鞄に入れて、帰宅していく。一斉にである。何か漠然と割り切れないものを感じた。それで、しばらく、彼女は、机に向かってボンヤリと夢想していた。

 そんな亜矢子を、近くの席にいる桜田がジッと見ているのに、彼女は気づかなかった..............。


 翌日、亜矢子は、会社のデスクに向かって、こっそりとノートにしたためていた。あの水族館での出来事以来のすべてを赤裸々に記録していたのだ。これでいい。

 書き留めると、何だかホッとした。すべてを告白したかのような気になったのだ。これを大事に残しておこう。そう思って、亜矢子は、そのノートを机の隅に置いておいた。

 お昼になって、彼女は、社屋の近くのコンビニに御弁当を買いに出かけた。特大のり弁当とお茶を買い、レジに並ぶ。相変わらず、客は無表情で、無機質だ。亜矢子は、ふうと溜息をつき、購入すると、帰社する。午後も、彼女は、ボンヤリと過ごして、何度か冷酷に注意された。

 退社時刻になった。荷物をまとめて帰宅しようとする亜矢子を、近くにいた桜田が急に呼び止めた。

「田村くん、少し、帰りに付き合わないかい?」

 あやこは嬉しくなって、

「まあ、お誘いですの?」

と答えた。すると、桜田は、苦笑して、

「ちょっとね。話してみたくなって」


「人は、皆、孤独だよね?」

 飲み屋のカウンターに座ると、いきなり、桜田が言った。

「いやあね、君が最近、妙にボンヤリとしているから、気になってね。それで、君には悪いが、机のノートを見せて貰ったよ。読んでみて、納得がいった。よく言ったものさ、透明な魚、か.............」

「分かっていただけます?私の気持ち?」

「うん、よく分かるよ、同世代だからね。そんな気にもなるよな」

(ありがとう................)

と、亜矢子は心の中で囁いた。嬉しかった。本当に嬉しかった。始めて、彼女の理解者が現れたのだ。何だか、亜矢子は、肩の荷がストンと降りたような気がしてならないのであった..................。


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