第6話 透明でない私
放課後の美術室は、音の骨組みだけが残る場所だ。
机を拭く布の繊維が、わずかに木目に引っかかる擦過音。流し台の蛇口の金属が、前時限の水の名残を指先に戻してくる冷たさ。カーテンの裾が窓の桟をなぞるとき、布の重さが空気の端を引く、かすかな音。
陽菜は、キャンバスに立っていた。制服のブレザーは椅子の背に掛けて、シャツの袖をひと折りする。腕の肌に、絵具の匂いが薄く沈む。
テーマは「残像」。
彼女は、過去の空席を描かない。そこに「座る人」を描く。
ただし、顔の中央には、白を残す。紙で覚えた「塗らないことでしか残らない白」を、布に移す。見る人が、それぞれの“透”を重ねられる余白。
輪郭は決めない。重さだけを置いていく。膝の角度、腰の沈み、椅子の座面に伝わる体温。重さが作る影は、光の裏ではなく、存在の裏。
筆は、硬い毛と柔らかい毛を使い分ける。硬いときは決意を、柔らかいときは躊躇を。
美月は、別の教室で写真の現像をしている。廊下の向こうから、赤色灯の部屋に入る前の、薬品の微かな甘さが届く。写真は時間を閉じる。絵は時間を開く。二人は別々の道具で、同じ静けさを耕している。
顧問が扉をノックした。
「コンクール、案内きたよ」
封筒の口は、丁寧に切られていて、紙の繊維がささくれない。手渡された要項は、どの年度とも変わらない文面で、しかし今年の余白だけが新しい。
陽菜は、連作の計画を立てる。
——「椅子の跡」「雨の匂い」「窓の輪」「点の葬式」「残像」。
タイトルは、過去の記憶の索引になっていく。索引は本文ではないけれど、ページへ指を導くためにある。
制作の合間、陽菜はノートに文章を書く。
“不在は、もっとも強い主題”
かつて、美術館のキャプションで読んだ一文。
彼女はそれを、自分の言葉に置き換える。
“不在は、私を透明にしないための輪郭”
透明に「なる」ことと、透明に「される」ことは違う。透明にされる時、人は速度を奪われる。透明にならずに、透明さを扱うために、輪郭はいる。輪郭は、やわらかくてもいい。やわらかい輪郭は、触れるために残る。
夕方。
現像室から、美月が写真を持ってくる。暗室の赤い光の余韻が、彼女の髪についたまま揺れている。
「見て」
差し出された半切の紙に、雨の日の校庭がある。水たまりに映った、二人分の影。身体はないが、輪郭は確かだ。影は、私たちを“写して”いない。私たちが“触れた”光を、記録している。
「これ、あなたの絵の相棒にして」
美月は言った。
陽菜は頷く。写真の隣に、キャンバスの下隅に、小さな丸い点を描き込む。
「合図ね」
紙の上で何度も打った点は、布の上でも、小さな鐘の仕事を忘れない。目に見えない音で、呼吸を揃える。
「タイトルは?」
「『残像』」
「いいと思う。残っているのに見えないもの、じゃなくて、見えるために残ったもの、って感じ」
「うん。消えるために来て、残るために去る、のその先」
美月は、うれしそうに鼻先をすん、と鳴らした。
「じゃあ、私はラストの薬を抜いてくる。仕上げたら持ってくるね」
「うん。ありがとう」
言いながら、陽菜は、ありがとうの重さを測る。重さは以前より軽く、しかし空気に埋もれない。手に載せて、渡せる重さ。
夜。
家の台所で、母がコップに氷を落とす。氷がガラスの内側で小さな鐘になり、水面に短い円を置く。
「日曜、空いてる?」
母がエプロンを外しながら訊いた。
「うん」
「美術館、行かない?」
誘う声の速度が、昔よりゆっくりだ。相手の返事が入る隙間が、あらかじめ空けてある。
二人で出かける。休日の美術館は、家族連れと、静かな一人客と、宿題に追われる学生で適度に満ちている。
企画展の端に、小ぶりの抽象画がかかっていた。色の層が薄く重なり、向こうの白がところどころ呼吸をしている。母は立ち止まり、作品名を読み上げる。「輪郭の持ち方」
帰り道、喫茶店に入る。
母は、コップの水を一口飲んで、ぽつりと言った。
「お父さんは、君が生まれる前にいなくなったから、私は“不在”の扱いが下手だった」
氷が、スプーンの先で静かに回る。
「不在の形は、ひとによって違うね」
陽菜が言うと、母は笑って、頷いた。笑いの端が、少しだけ照れている。
「でも、君は自分の形を見つけた」
その言葉は、褒め言葉というより、安堵に近かった。安堵の重みは、袋の底にやさしく置かれた果物の重さに似る。
親子の会話は、やっと同じ速度になっている。
速度が合うと、沈黙に段差ができない。段差がない沈黙は、つまずかせない。
翌週から、陽菜は連作のラフをいちどに並べる癖をつけた。
「椅子の跡」では、もう誰の不在も描かない。かつて誰かが座っていたという温度だけを、紙の白に残す。白は、塗らないことでしか残らない。残った白が「在る」ことを、影が保証する。
「雨の匂い」では、色よりも粒を描く。光の粒、音の粒、匂いの粒。粒の一つひとつに、名前をつけない。つけないことで、粒は粒であり続ける。
「窓の輪」では、曇りの輪郭を手の筋肉の記憶で写す。輪は、くっきり描かない。曖昧な輪ほど、指が覚える。
「点の葬式」では、小さな白い紙片に点を打ち、その周囲の空白に均等ではない時間を置く。黙祷は時間ではなく、密度だ。
そして「残像」。
座る人の重さを中心に、顔の中央に白を残す。見る人が、自分の“透”を重ねられるように。
美月は、写真の中で、私たちの影を育てている。現像薬を抜いたあと、水洗の水が写真の表面を滑る音を、陽菜は壁越しに想像する。耳の奥で、その音は、紙が水を受け取る音と重なる。別々の道具で、同じ静けさを耕す——繰り返し、確かめる。
コンクール応募前夜。
アトリエの窓を開けると、夜の湿気が、部屋の角に丸く溜まった空気をいっせいに撫でる。遠くで雷の音。線ではなく、面で鳴る音。
机の上には、祖父のスケッチ。幼い自分の横顔。空席の椅子の輪郭。あの鉛筆の走り書きは、もう暗記している。
〈君の友達は、君を通して見える〉
白い紙片に残した小さな輪を取り出す。
筆先を湿らせ、その輪を、丁寧になぞる。輪の内側に、薄い影を足す。
影は、もう誰かの不在ではない。
自分がそこに「いる」ための礎だ。
礎という漢字の硬さが、輪の柔らかさに吸い込まれて、意味だけが残る。
そのとき、窓ガラスに雨粒が一つ、音もなく落ちた。
陽菜は目を閉じる。
呼ばないのに、胸の奥で「透」という音が、静かに揺れる。
呼ぶ必要のない名前として。
名前は、世界に針を刺す行為だった。けれど、今夜のその音は、何も刺さない。輪が、そこにあるだけ。ある、は、十分だ。
翌日。
応募票の作品タイトル欄に、陽菜は、躊躇なく書いた。
——「透明でない私」
副題に、小さく、「—残る友達—」。
書いた瞬間、紙の白の上に、うすい輪がひとつ増えた気がした。輪は、見えない。だが、手は覚える。
会場の白壁に、連作は静かに掛けられた。
「椅子の跡」は、座った温度の名残を、観る人の足裏に移す。「雨の匂い」は、目で嗅ぐ仕組みを用意している。「窓の輪」は、曇りを思い出す指のための記憶装置。「点の葬式」は、沈黙の密度を数えるための目盛り。
そして「残像」は——
座る人の重さと、顔の中央の白とが、同じ強さで立っていた。
美月の写真は、近くの壁に寄り添い、同じ高さで並ぶ。水たまりの影の二人は、絵の中の白を見ているようにも、会場の誰かを見ているようにも、見えた。
観客の一人が囁く。
「ここ、誰か座ってたみたい」
陽菜は振り向かない。
誰かが同じ余白を見つめたという事実だけで、世界は少しだけ軽くなる。
軽さは、肩に先に届く。肩が軽くなると、背骨の一本ずつに空気が入る。空気の入った背骨は、まっすぐではなく、しなやかに立つ。
顧問が、パンフレットを手に、ぽん、と陽菜の背を軽く叩いた。
「よく残したね」
褒め言葉を受け取るときの体の角度を、私はもう知っている。まっすぐ受け取らず、少しだけ斜めに。斜めに受けると、重さは肩から降り、土踏まずへ整う。整った重さで、前に進める。
展示の端で、美月が目を細めて微笑んだ。
「残像、の“像”、さ。像って、像るって書くの、知ってる?」
「象る?」
「うん。形にする、ってこと。残像は、ただ残った影じゃなくて、残すために像った形」
「像った、か」
口の中で転がすと、舌先の少し手前に、薄い温度が生まれた。
「私たちの影、ちゃんと立ってるね」
「うん。座ってるけど、立ってる」
二人で笑う。笑いは短く、でも、長さ以上の意味を持つ。意味の長さは、時刻では測れない。
会場を出ると、外の光は昼の真ん中にいた。
空は、透明ではない。
薄い雲の層が、光を柔らかく砕いて、街の輪郭に配っている。
配られた光の上を、私たちは歩く。
歩幅は、かつて練習したときより、自然に合う。
「ねえ」
美月が言う。
「『透明でない私』、好き」
「ありがとう」
「透、いま、どこにいると思う?」
陽菜は、ポケットに手を入れ、縫い目を確かめた。
「輪の内側。呼ばなくていい場所」
「うん。呼ばない場所に、いてほしいね」
同意の仕方にも、同じ速度が宿っている。速度が合うと、言葉は先回りしない。
夜、家で、陽菜はスケッチブックを開く。
白いページの端に、小さな輪を描く。
輪は、すぐに消えない。紙の繊維が、今日の湿度を覚えているのか、指でなぞると、ほんの少しだけ、ざらりと返事をする。
輪の中央に、点を打たない。今日は、点のかわりに、短い線を一本。
線は針ではない。
線は、歩幅だ。
歩幅は、私のものだ。
透明でない色で、これからも描いていくために。
輪郭は、やわらかいままでいい。
やわらかい輪郭は、触れることを許す。触れられる輪郭は、壊れにくい。
窓の外で、風が旗をいちどだけ強く鳴らし、遠くの電車が水平に走った。線は、今日と明日をつなぐ音を持っている。
陽菜は、筆を洗い、乾いた布で水気を拭う。
拭き取られた水が布の中にしみ、しみは、見えないところで冷たさを保つ。
その冷たさを思い出しながら、明日の準備をする。
準備は、約束ではない。
鍵でもない。
ただ、そこにある。
そこにあるものが、私を透明にしない。
私は、透明でない私として、立つ。
友情は、消えるために来て、残るために去る。
去ったあとに残ったものの色は、透明ではない。
それを、私は選ぶ。
選ぶたびに、世界の重さは、手のひらにちょうどよく乗る。
その重さを持って、前を向く。
そして、描く。
——透明でない色で。