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第5話 さよなら、透

 夜の体温は、昼の体温とちがう。

 布団の中で、陽菜は額の皮膚がうすく光るのを感じていた。額の下で、熱は丸くなり、丸いままゆっくりと大きさを変える。喉の奥が乾いて、呼吸の出口が一瞬ずつ狭くなる。狭くなるたび、耳の裏で、なにかが空気を撫でた。

 期末前の夜。机には、開きかけのワークと、閉じかけのノート。ページの白さは、昼間には頼もしかったのに、熱を持った目には、少し冷たすぎた。

 枕の綿は、熱を吸い、吸った熱のかたちを覚える。覚えたあいだだけ、眠りの深さは浅くなる。浅い眠りと深い眠りが交互に来て、境目のところで、夢は始まった。


 夢のなかの公園は、かつての町の公園だった。

 滑り台の下の空気が、現実より少し低い温度で保たれている。金属の柱は雨の雫を抱えていて、ひとつ落ちるたび、雫の重さぶんだけ空気が軽くなる。雨の匂いが濃い。濃さは、湿度の数字では測れない。記憶の密度で決まる。

 透がいた。

 以前と同じ距離、同じ透明。

 いる、としか言いようのない存在の輪郭は、目ではなく、皮膚と耳で受け取る。耳の奥が軽く詰まる。雨の前の気圧のように。

「いなくならないで」

 陽菜は、ためらいなく言った。熱の中では、言葉はまっすぐ出ていく。

「いなくなることは、いないことと違う」

 すぐに返ってくる。透の声は、水の表面に落ちた針のように、静かに半径を広げる。

 意味を掴もうとして、掴みそうになって、指がすべっていく。

「いなくなる、は、今ここから離れること」

 透は続けた。

「いない、は、あなたの中に残らないこと」

 陽菜は、滑り台の下の砂を指で押した。押した跡が、すぐに湿り気で丸まっていく。

「あなたは、もう自分の影を信じられる。私は、その影が生まれるまでの、濡れた地面だった」

 濡れた地面。

 言葉が胸に入ってくるとき、熱は少しだけ形を変える。丸かったものの縁が、卵の殻みたいに薄くなる。

「影は、光があるからできる?」

「うん。光があるから、そして、あなたが立っているから」

「立ってる?」

「座っていても。横になっていても。あなたの重さが、世界に触れているから」

 世界に触れている。触れているのは、皮膚だけではない。名前の端、笑いの端、沈黙の端。

 陽菜はうなずいた。うなずくたび、額の汗が生え際へゆっくりと流れる。流れたあとに残る冷たさが、ひとつずつ、現実の小石のように重くなった。


 夢は、思い出の編集を進めた。

 祖父のスケッチ。空席の輪郭。紙が触れられても音を立てないこと。

 母の忙しさ。台所の時計。コップを重ねる音がいつもより高く鳴る夜。

 転校。小さな駅。新しい制服。笑いの温度を読み損ねた昼。

 生まれつきの不器用さ。角にぶつかって欠けてしまう言葉。

 そのすべての間を、透という細い糸が通っていた。糸は、結び目をつくらず、ただ通る。通ったあとに、世界は少しだけ強くなる。

「私は、壁じゃなかった」

 透が言う。

「孤独から守る壁じゃなくて、孤独の輪郭を、安全な形で学ぶための“仮の友達”」

「仮」

「仮は、嘘じゃない。仮は、稽古。稽古で覚えた筋肉は、本番でも使える」

 陽菜は、滑り台の下の匂いを吸い込んだ。濡れた鉄と、砂と、泥。鼻の奥が少し痛む。痛みは、起きてからも残る種類の痛みだと分かる。

「仮、があるから、私、いま、平気だったのかな」

「うん。仮があったから、あなたは、あなたの影を怖がらない練習ができた」

 練習。

 練習だったのだ。雨の日の合図。ベンチの下の錆びたボルト。指先の冷たさ。

 それらの一つずつが、今日のこの夢へ、細い道をつなげていた。


 夢の終盤、透はベンチのボルトに触れない。

 あの冷たさを共有する儀式は、ここでは行われなかった。代わりに、透は、陽菜の手をとった。

 驚くほど、あたたかい。

 見えない手の温度は、見える手よりもやわらかく伝わる。温度は、皮膚の外側から内側へ、内側からさらに内側へと進み、心臓の手前で、ひとつ、うすく輪を描いた。

「名前を残していくよ」

 透が言う。

「呼べば思い出すために」

 陽菜は、泣いて頷いた。頷いた拍子に、涙は唇の端に触れ、味を置いた。塩と、体温の味。

「ありがとう」

 その言葉は、世界に向けて、初めて正確に投げられた気がした。これまでのありがとうは、礼儀や、場の温度を整えるための薄い膜だった。今のありがとうは、重さを持って、相手に届く途中でいったん落ち、落ちた地面で跳ね、もう一度、届いた。

 透は、目に見えない線で、画面の縁を示した。

「ここから外へ」

 画面外。

 夢のカメラの見ていない場所に、透は陽菜を導く。見えない場所でも、歩くことはできる。歩幅は、現実と変わらない。

 滑り台の下の風が、一瞬だけ弱くなった。弱くなった風の向こうで、朝の気配がし始めていた。


 目が覚めると、枕が濡れていた。

 額の汗、頬の涙、髪の水分。混ざり合った湿り気は、もう夢のものではない。

 窓の外には朝の光。朝の光は、夜の熱を薄く剥がす力を持っている。雨は上がり、空気は軽い。軽さは、肩の筋肉に先に届き、次に背骨に届き、最後にまぶたを持ち上げた。

 熱は、少し下がっていた。体温計の数字は静かで、静けさの中にほんの少し光っている。

 台所から、湯の沸く音。母の足音は、仕事の日より半歩ゆっくり。

 学校に行く支度の手は、いつもより確かだった。袖を通す。ボタンを留める。髪を結ぶ。結び目は、きつくもゆるくもない。必要なだけ締める。必要なだけ、残す。

 鏡の前で、息を整えた。鏡は、いつも通り、こちらの体温に無関心だ。無関心なものの前に立つとき、人は自分の温度を確かめられる。


 美術室へ。

 美月は、いつもの席でパレットを整えていた。絵の具は蓋を開けたばかりで、色に空気が混じる前の匂いがする。

「昨日、夢で別れた」

 陽菜が言うと、美月は、パレットナイフを止めた。

「誰と」

「透と」

 数秒の間。

「お葬式、する?」

 真顔で訊かれて、陽菜は笑い泣きのなかで首を振った。笑いと泣きが同じ高さにあるとき、声はうまく出ない。

「ありがとうを言ったから、平気」

「うん」

 二人は、机の上に小さな白い紙片を置いた。名刺より小さい、手帳の端を切り取ったような、白。

 中央に、点を打つ。

 鉛筆の先で、紙を破らないぎりぎりの力。

 打たれた点は、まるで小さな鐘のように、目に見えない音を鳴らした。

 一分間だけ、筆を持たずに座る。

 黙祷の代わりに。

 時刻のわからない時間が、部屋を通り過ぎる。風はないのに、カーテンがわずかに動いた気がした。空気は、誰もいない椅子の背を撫でた。

 一分の終わりは、合図しないでも、同じ場所に来た。

「ありがとう」

 誰もいない空席に向けて、美月が小さく言い、陽菜は頷いた。頷きが、胸の中の丸い石に触れる。石は、冷たいままで、でも、重さの端が滑らかになっている。


 授業後、陽菜は初めて「自画像」を描いた。

 正面ではなく、斜め後ろからの視線。

 正面をさけたのは、逃げではない。いまの自分を、いまの自分の目で見ると、目が仕事をしすぎる。仕事をしすぎる目は、光を拾い過ぎる。拾い過ぎた光は、影の柔らかさを奪う。

 斜め後ろからなら、光は私を選ばず、私に触れる。触れる光の量が、自然に決まる。

 髪の束の重さ。一本一本の線が、首筋に落ちる。髪は軽いのに、束になると、肩の斜面を変える。

 耳たぶの小ささ。耳たぶという言葉の柔らかさが、紙に移る。鉛筆の腹で、輪郭をほぐす。

 肩の斜面。布の厚み。縫い目。縫い目の上で光が途切れ、影が生まれる。生まれた影に、薄い水を置く。

 紙の白は、もう怖くない。

 白は、塗らないことでしか残らない。

 陰は塗るもので、光は残すもの。

 残した光と、塗った陰が、同じ強さで立ち上がる場所を探す。探す作業は、計算に似ている。正解がひとつではない計算。

 描き終えたとき、陽菜は、紙の下に自分の名前を小さく書いた。

 名前を書くのは、世界に針を刺す行為。

 今度は、透ではなく、自分の名で。

 刺した場所は痛まない。痛まない代わりに、そこに、薄い輪が残る。輪は、指で触れられない。触れられないのに、確かに持てる。


 帰宅すると、母が珍しく早く帰っていた。

 テーブルには、コンビニではない夕飯。湯気が、天井の明るさに溶ける。味噌汁の匂いは、家の匂いとすぐに混ざる。

「仕事、慣れてきた」

 母が言い、言いかけてやめた。言葉の角が、台所の光で丸く見える。

「……あんた、強くなったね」

 陽菜は、否定しなかった。否定しないことが、肯定ではないことも知っている。それでも、肯定に近い沈黙は、悪くない。

「友達ができた」

 それだけ言うと、母は驚いて、笑った。驚きと笑いが同時に顔に出ると、目尻の皺が少しだけ増える。

「名前は?」

「美月」

「いい名前」

 母は、鍋の火を弱め、味をみた。ちいさく頷く。食卓の上に、いつもより多い数の皿。多い皿は、会話の皿でもある。

 透の名は、語らない。語らないままで、心のなかの輪に、もう一度「ありがとう」を置く。輪は音を立てない。音を立てない感謝は、長く残る。


 夜。

 陽菜は、窓に指で輪を描いた。

 ガラスは冷たい。指の温度で、輪は曇り、息で、すこし濃くなる。

 今度は、消えないように、紙に写し取る。

 新しいスケッチブックの端に、ガラス越しの輪の位置を合わせ、鉛筆で、ほとんど見えないほどの力でなぞる。鉛筆の芯が紙を撫でる音は、耳の内側でしか聞こえない。

 輪の内側に、薄く影を置く。

 影は重さの裏。

 重さの裏には、必ず何かがいる。

「さよなら」

 声に出す。

 窓の向こうの夜は、返事を持っていない。返事のない場所に言葉を置くと、言葉は輪になって、自分に戻る。戻った言葉は、前よりも小さく、前よりも重い。

「ありがとう」

 もう一度。

 輪の真ん中に、点を打つ。

 点は、小さな鐘。鐘は、音を鳴らすだけが仕事ではない。沈黙を支える形でもある。

 紙を閉じる。

 閉じた紙の重さは、手のひらにとってちょうどいい。ちょうどいい重さは、落としにくい。落としにくいものは、持ち運びやすい。

 ベッドに横になり、天井を見上げる。

 今日は、熱の丸さが小さい。小さくなった丸の縁は、朝の予感で薄くなる。

 目を閉じると、滑り台の下のにおいが、もう遠くにあった。遠くにあるものは、簡単に呼べない。簡単に呼べないもののほうが、長く残る。

 透。

 心の中で、一度だけ呼ぶ。

 応答はない。

 ないことに、痛みはついてこない。

 代わりに、静けさが来る。

 静けさの上に、今日の輪をそっと置く。

 輪は、明日の指に馴染むために、夜のあいだ、形を休める。

 休むもののそばで、人は眠る。

 眠りは、紙の白に似ている。

 描かれる前の白。

 描き始める前に、そこにあるだけで支えてくれる白。

 陽菜は、その白の真ん中に、やっと「私」を置く準備ができた。

 準備は、約束ではない。

 鍵でもない。

 ただ、そこにある。

 そこにあるものが、明日をひらく。

 ひらかれた明日の端で、陽菜は、もう一度だけ、輪の形を指に覚えさせた。

 指は、おだやかに動く。

 さよならの手は、振らない。

 輪をつくるだけ。

 輪の中に、残るものと、去るものが、同じ温度で並ぶ。

 その並びを見届けることが、今夜のすべてだった。

 そして、やさしい睡りへ。

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