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第4話 名前を呼ぶ日

 観察日記、という課題は、見えたものを日にちと時間とともに残しなさい、というシンプルな指示だった。植物でも、雲でも、人の動きでも、なんでもよい。

 なんでもよい、と言われると、世界は急に広すぎる。広すぎる世界の端に指をかけるには、入口の形を自分で決めなくてはいけない。陽菜は、ノートの一枚目の上に、小さな四角を描いた。四角の中に文字を書く。「濡れた地面の光」。入口は、これにする。

 写真ではなく、スケッチで記録しようと思った。レンズは世界を正確に写すけれど、正確すぎて、こちらの呼吸の乱れが入り込む場所がない。鉛筆は、手の震えをそのまま線にする。震えは、うそではない。


 放課後、校舎裏の入口は、いつも風が回って、小さな渦をつくる。落ち葉は渦の形を少しだけ真似して、すぐに飽きる。陰になっているコンクリートには、昼間の湿りがまだ残っている。そこに落ちた光は薄く、けれど消えない。

 陽菜は、地面に膝をつかない距離でしゃがみ、スケッチブックを縦に持って、鉛筆の先を紙から半歩浮かせる。影の縁に触れずに、影を描く方法を、体に思い出させる。

「それ、雨の匂いの絵だよね」

 声がして、顔を上げた。

 美術館の出口で、庇の下、同じ雨を眺めたあの女子が立っている。近くで見ると、黒目が丸い。髪は肩の少し下で、結び直したばかりの跡が、耳の後ろにやわらかい曲線を残していた。

「……匂いは、描けないよ」

 陽菜が言うと、彼女は鼻先をすん、と鳴らした。

「でも、する」

 それから、陽菜のスケッチブックに手を伸ばしかけ、寸前で止める。触れない。指先が空気をなぞる。

「ここ」

 空中で、小さな輪郭を描く。「ここに、踏まれた跡がある感じ」

 陽菜は驚いた。自分以外の誰かが、見えない“踏まれた跡”を言語の前に指で掴めること。言語の前に共有できること。

「誰かと描いてる?」

 彼女が訊く。

 透を説明する語彙は、まだ持っていない。持っていない語のかわりに、のどが一度、空気を飲む。

「ときどき、教えてくれる人がいるの」

 彼女は頷いた。

「うちにもいるよ、そういうの」

「名前は?」

「まだない」

 名前がないものの気配は、衣服のタグみたいに、首筋をときどきくすぐる。くすぐられたままにすることに、彼女は慣れている顔だった。

「私、美月」

 名乗って、指を胸に寄せる。

「同じクラスだよね。席、遠いけど」

「……陽菜」

 自分の名を、相手の前で言うとき、声は少し硬くなる。名前は、世界に針を刺す行為だ。刺したところに固定点ができる。固定点ができた場所は、逃げると痛む。痛みを持つ場所は、同時に、動ける場所でもある。


 二人は、美術室で放課後を過ごすようになった。

 顧問の先生は、誰かの声を遮るより、窓を開けることのほうが上手いひとで、いつも高い位置から光を入れておいて、他はあまり口を出さない。「片づけて、鍵、閉めてね」だけ言い、たいてい先に帰る。

 美月は油彩の匂いが好きだった。蓋を開けたばかりのチューブから出てくる、まだ空気を知らない色の匂い。乾きかけのキャンバスの上で立ち上がる、亜麻仁油の甘さ。油彩の匂いは、時間を遅くする。遅くなった時間は、反射を少し鈍くして、思い直す余裕をくれる。

 陽菜は、水彩の水が紙を渡る音が好きだった。音、と呼ぶには小さすぎるけれど、筆の毛が水を含んで紙に触れた瞬間、耳の内側で、ごく短い音がする。紙は、水を拒まない。拒まない紙に、水は自分の形を渡す。渡した形が、乾いて残る。

 互いの好きが混ざる時間は、部屋の空気に厚みをつくった。厚みのある空気の中では、透の不在は、薄い紙のように感じられる。紙はたしかにここにあるのに、破っても、音が小さい。

「沈黙って、苦手?」

 油を布で拭き取りながら、美月が言う。

「ううん。ひとりで持つ沈黙は、ちょっと重いけど」

「二人だと?」

「怖くない」

 答えると、自分の声が、紙に水を置いたときの小さな音に似ていた。美月は微笑んで、「うん」とだけ言った。沈黙のとり方を知っている人は、言葉を必要以上に増やさない。増やさない沈黙は、呼吸の邪魔をしない。


 ある日、美月が、パレットナイフの先を布で拭いながら訊いた。

「あなたの“その人”、名前は何て言うの」

 その人。

 陽菜は、躊躇した。

 名前を口に出すと、たいてい、なにかが固まる。固まったものは、動きにくくなる。動きにくくなったものは、落として割りやすい。割れたら、拾い集めるのに時間が要る。

 それでも、言葉は、言われるために待っている。待っている時間が長すぎると、言葉は薄くなってしまう。

「……透」

 ゆっくりと発音した直後、部屋の空気がひとつ、澄んだ。

 美月が目を細めて、笑う。

「いい名前」

 そして、陽菜のスケッチブックの端へ、鉛筆で小さな点を打った。紙を破らないぎりぎりの力で、点。

「ここ、透が座ってた感じ」

 陽菜は、その点の上に、濡らした綿棒をのせた。かすかに滲む。滲みは輪になって、輪は、すぐに薄くなる。薄くなりながら、紙に残る。

 名前は世界に針を刺す、という最初の恐れは、輪の内側に移動した。針が刺さっているのではなく、小さなリングが置かれているだけ。持ち上げれば手に入るし、置いていけば、そこにある。

「透、か」

 美月は、窓の外の雲を見た。

「うちのは、まだ呼べない。名前をつけると、居場所を決めちゃう気がして」

「居場所」

「居場所があるのはいいことだけど、名前のせいで狭くなることもあるから」

 陽菜は頷いた。名前によって、世界が急に平面になる瞬間がある。縫い目が外側から見えるようになる瞬間。

「でも、呼びたいときは、呼んでいいよ」

 美月が言う。

「誰の前で?」

「私の前で」

 胸の奥の、あの丸い石が、すこしだけ動いた。動いた場所に、あたらしい筋肉の芽が触れる感触。体の奥で、見えない準備が始まる。


 下校途中、雨が降り始めた。

 空は灰色の手をひとつ広げて、指の間から水をこぼすみたいに降る。二人は一つの傘に入る。骨が八本。八本の骨の下に、肩が二つ。

 歩幅を合わせる練習をする。左、右。右、左。歩幅の違いは、体の大きさのせいだけではない。性格の速さ、視線の位置、靴底の厚さ、今日の眠気、いま考えていること。たくさんの要素が、半歩の差をつくる。

「約束って好き?」

 美月が訊く。

 好き、と言える種類と、怖い、と言いたくなる種類がある。陽菜は、間を置かずに答えた。

「怖い。守れなかったらどうしようって」

「守れない約束は、交換できるよ」

「交換?」

「べつの約束に。『こうする』が難しければ、『こうしなかったら合図を出す』に変えるとか」

 合図、という言葉に、ベンチの下の錆びたボルトの冷たさがよみがえる。指先の内側に残っている形の記憶。

「約束は鍵じゃない」

 陽菜が言うと、美月は「うん」と頷いた。

「鍵じゃないけど、ポケットの形を覚えさせてくれる」

「それ、いいな」

「どこかで聞いた」

「だれから」

「……私」

 二人で笑う。笑い方の速度が合うと、傘の布の上の雨音も、少しだけ揃う。揃った音が、聞こえやすいメロディになる。

 信号が青に変わり、横断歩道の白い帯の上だけ、雨が明るくなる。白の上の雨は、透明ではなくなる。透明ではない雨の粒は、眼で数えられる。数えられるものは、怖くない。

 校門のそばで傘を閉じ、二人は走らずに歩いた。走らない速度は、考え事のために空けてある。互いの考え事がぶつからないように、半歩ずつずらしながら。


 翌日、美術室の窓辺で、陽菜は初めて、透の名を、自分以外の人の前で呼んだ。

「透」

 顧問の先生はもう帰っていて、部屋には陽菜と美月しかいない。光は高い窓から落ちて、机の上で四角になっていた。

 応答はない。

 応答がないことは、いないことと同じではない。

 名前を空気に置くと、置いた場所の空気が、いっときだけ張る。張った空気は、数秒後、やわらいで、部屋の他の空気と混ざる。混ざったあとの部屋は、混ざる前よりも澄んでいる。

 恐れは、ゼロにならない。ゼロにならないかわりに、恐れのための筋肉が生まれる。新しい筋肉は、最初は細く、すぐ疲れる。けれど、疲れながら育つ。

「次は、空席じゃなくて“座る人”を描こう」

 美月が提案する。

「座る人?」

「椅子に、その人の重さを置く。重さの置き方を描くの」

 重さ。

 陽菜は、紙の白をひとつ、あえて残すことにした。椅子の座面の中央に、小さな楕円の白。そこに、鉛筆で、ごく微かな影を置く。影は、光の裏にあるのではなく、座る重さの裏にできる。

 美月が、隣で油を練る。色と色のあいだに空気が混ざり、練っているうちに、時間が巻き込まれていく。

 陽菜は、水を含ませた筆を、白の縁にだけ当てた。白の縁が、極細の線で濡れる。濡れただけで、色は置かない。置かないのに、白が、白であることを強く主張し始める。

 そこに“座る人”がいる。顔や服や髪が見えるわけではないのに、紙の上の重さが、白を支えている。

「うん」

 美月が、小さく頷いた。

「そこにいる」

「透、が?」

「――いまは、陽菜」

 驚いて、笑ってしまう。笑うと、肩の骨のあいだに空気が入る。

 紙の端に、小さな点を打つ。昨日と同じ力で。点は、輪になる準備をしている。輪は、誰かの名前を、やさしく囲むためのかたち。

 陽菜は、にじむ前の点へ、指で息を吹きかけた。ほんのすこしだけ、滲む。滲みの円の内側で、静かに「透」ともう一度呼ぶ。

 応答は、やはりない。

 でも、その不在を怖がらない体の部位が、確かに増えている。肋骨の横、みぞおちの下、指の第二関節。場所を点で覚えるように、不安の薄い場所が増える。

 窓の外で、風が旗を一度だけ強く鳴らした。音は、空気の弦の振動みたいに、まっすぐ伸びて消えた。

 消えた音は、記録されない。記録されないけれど、二人の耳の中には、同じ長さで残る。

 その長さを共有できたことが、今日のすべてだった。


 片づけの時間。筆を洗い、パレットを拭き、椅子を上げる。

 上げられた椅子の足の先に、わずかな水が残る。水は落ちずに、表面張力で止まる。止まっているあいだにも、重力はかかり続けるのに、落ちない。

 落ちない一瞬は、長い。長い一瞬は、物語の余白に似ている。落ちたあとより、前のほうが、なぜか静かだ。

「明日も、ここ?」

 美月がカーテンの紐をくるくるしながら言う。

「うん」

「じゃあ、明日は“座る人”をもう少し増やそう。空席も、すこし残して」

「空席を残すの?」

「うん。全部の席に座らなくていい。座らない席があると、座った席の重さが確かになるから」

 残すこと。

 塗らないこと。

 呼ばないこと。

 どれも、ゼロではない。やめる、ではなく、置いておく。置いておくことを、今日、学んだ。


 下駄箱の前で外靴に履き替えるとき、陽菜は、靴のかかとの内側に、泥が少しついているのに気づいた。どこかの濡れた地面を踏んだ証拠。泥は、落とせば落ちる。落とさなければ、家の床に少しだけ残る。残っても、拭けばいい。拭いたあと、床は、拭く前よりも光る。

 外は、夕方の白に薄く朱が混ざるころ。風の温度は、朝とちがって、少しだけ人の体温に寄っている。

 傘はいらない。

 陽菜は、ポケットに手を入れた。指先が、縫い目に触れる。縫い目は、服がほどけないように、見えないところで世界をつないでくれる。つながれたまま、動ける。動けるまま、ほどけない。

 歩きながら、心の中でもう一度、名前を呼ぶ。

 透。

 今度は、返事の代わりに、胸の真ん中の丸い石が、静かに温かくなる。

 名前は、世界に針を刺す行為。

 でも、今日の針は、傷をつけなかった。

 刺したところに、小さな輪だけが残る。

 その輪は、いずれ、指に馴染む。「透明でない私」を描くための、目に見えない取っ手のように。

 取っ手があると、扉は、いつでも、静かに開けられる。

 開けるかどうかは、私が決めればいい。

 雨の匂いの残る道を、陽菜は家まで歩いた。

 足元の光は、写真にはならないけれど、今日のページに、薄い線で記録された。

 観察日記の見開きの左に、日付と時刻。右に、短い言葉。

〈名前を呼んだ。部屋が澄んだ〉

 それだけ書いて、ノートを閉じた。

 閉じた紙の重さは、手のひらにちょうどよく、持ちやすい。

 持ちやすいものは、たぶん、長く持てる。

 長く持てるもののそばで、人は少しずつ育つ。

 育つ速度は、いつも静かだ。

 静かさの中で、陽菜は、明日の白を思い描く。

 白は、塗らないことでしか残らない。

 その白の真ん中に、座る人の重さを、少しだけ置く。

 置いた重さと同じぶんだけ、世界の輪郭が、やさしく濃くなる。

 その濃さを、今日の終わりに、胸の中の輪に通しておく。

 落ち着いた輪は、目に見えない支柱として、静かに立つ。

 支柱があると、沈黙は怖くない。

 沈黙が怖くないと、名前は、もっとやさしく呼べる。

 呼ぶたびに、部屋が澄む。

 澄んだ部屋で、陽菜は、明日の私へ向けて、指を一本、そっと伸ばした。

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