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第3話 消える輪郭

 新しい駅は、県境の地図の端にピンで留められたみたいに小さかった。

 改札を出ると、切符を呑み込む口がひとつだけ。朝の匂いは、前の町よりも少し乾いていて、線路の鉄と、まだ濡れている土がうすく混ざっている。ベンチの木目が、冬の爪あとをそのまま残していた。

 四月の風は、色が薄い。透明な紙を一枚、空に重ねたみたいに、すべての輪郭を少し遠ざける。陽菜の靴底のゴムが、学校の廊下の床に最初の音を置いたとき、その音だけがよそよそしかった。新しい制服の袖口は、腕の長さにまだ戸惑っていて、手首の骨に布の影ができた。


 自己紹介は、思っていたより短い。

 名前、好きなもの、最近のこと。短いというのは、助けになるはずなのに、声が震えると、短さはむしろ鋭くなる。背筋を伸ばしているつもりなのに、言葉は机の角にぶつかって、角ばった音を立てる。

 何人かが笑った。笑いは悪意じゃない。なのに、温度を読み損ねる。温度を読み損ねた皮膚の上に、汗がひとつぶ乗っただけで、全身の体温がひとまわり低くなる。

 席替え、係の割り当て、ノートの取り方。黒板の字が、前の学校とほとんど同じ形をしているのに、違う。違うのは、字そのものじゃなくて、字の周りの空気なのだと分かるまで、すこし時間がかかる。

 耳を澄ますほど、静けさが増した。

 透、と呼びたい衝動は、喉の手前でまるくなる。呼べば来る、の神話は、うす紙の束だったのかもしれない。新しい教室の空気は、紙の重なりを一枚ずつ指でめくる余裕を与えてくれない。

 窓の外の桜は、花びらの枚数よりも、幹の黒さのほうが濃く、見慣れない。幹の黒は、まるで言葉の裏側に残っている消し跡みたいだった。


 昼休み、校庭の隅に座って、スケッチブックをひらく。

 雲の輪郭は、鉛筆でなぞると硬くなる。硬くしたくないので、鉛筆の先を紙から半歩浮かせて、空をなぞる。紙に触れない線は、誰にも見えない。それでも、手の筋肉には線が残る。残った線に、あとで薄い色を乗せることができる。

 風がページをめくりそうになるので、左手の親指で押さえる。親指の腹に、紙の繊維のささくれが少し刺さる。刺さる感覚は、私がここにいる、の印鑑みたいだった。

「上手」

 女の子の声。

「暗い」

 別の女の子の声。

 二人は、陽菜の背中越しにそれぞれ違う感想を置いていく。上手に対して、ありがとう、と言うタイミングを探している間に、暗い、に対する笑いの形を用意しなければならない。両方に届かない笑みが、頬の皮の上で迷子になる。

 去っていく足音は軽い。軽いから、責めることができない。責める場所がない感覚は、責められているときより、長く残る。


 下校時刻、商店街のスピーカーが防犯放送を流す。

「新入生のみなさん、気をつけて」

 気をつける先が多すぎると、人は、どこにも注意を向けられなくなる。

 どの角で振り返ればいいのか、どの信号でどれくらい走ればいいのか。陽菜は、注意の向け方が分からなくなって、歩幅が半歩ずつずれていく。

 駅へ向かう途中、古い写真館のショーウィンドウに、白いドレスの女の子の写真が飾られている。ドレスの輪郭は、光で溶けていて、境界が見えない。見えない境界は、安心なのか、不安なのか。陽菜は、その判断を保留する。


 家に着くと、台所の時計の音が、前より大きい。

 母は、新しい部署の話を、箇条書きで読み上げるみたいに続けた。

「締切がね、週に二回あるの。数字は上から降ってくるんじゃなくて、横から来る感じ。あと、課長の口癖が『ま、いっか』で、それが実は大事でね……」

 陽菜は、頷く。頷くと、相槌の種類が足りないことに気づく。うん、そうなんだ、そうだね、たいへんだね——の四つだけで、母の一日の密度を受け止められない。

 言葉の隙間に、透の名を探す。

 呼べば来る。

 その古い合図は、ノイズの向こう側に置き去られているような気がした。

 テレビの天気予報の音楽、冷蔵庫のモーター音、湯が沸く音。音が日常の表面を滑っていく。滑っていく音に混ざって、透の気配が見つからない。気配を見つけられないことと、気配がないことは違う。それは分かる。分かるけれど、指先が、どこに触れていいか分からない。

 夕食のスプーンは、口までうまく運べるのに、言葉のスプーンは、うまくすくえない。


 夜、祖父のスケッチを机にひらく。

 空席の輪郭を指でなぞる。

 紙は、触れても音を立てない。音を立てないものを撫でるとき、人は、自分の内部の音に耳を澄ます。心臓の規則性。呼吸の浅さ。まばたきの湿り気。

 輪郭は、目で見えているのに、指先には何も触れない。触れない、と分かることが、かえって輪郭の確かさを増すことがある。

 鉛筆を取って、空席を描き直してみる。祖父の線の上に、自分の線を重ねることへのためらいを、一度だけ通り過ぎる。重ねる。線の濃さが競い合う。勝つ線と、負ける線。勝ち負けのない場所に、どうやって線を置けばいいのか、分からない。透なら、たぶん、ここで「濃さじゃなくて、呼吸の間隔」と言っただろう。

 しかし、その声は来ない。

 来ない声の輪郭は、頭の中でいくらでも作れてしまう。作れてしまうものを追いかけると、紙の白が嘘になる気がした。


 週末、美術館にひとりで行く。

 駅から少し歩く。歩道橋の上で、風が横から抜け、髪の束の重さが片方だけ変わる。美術館の建物は、白い箱にガラスを貼ったような簡単な形で、見た目ほど中身は広くない。

 企画展は「光の記録」。

 写真と絵画が、同じ壁に並ぶ。写真は、時間が正確すぎて、陽菜の呼吸を早くする。絵画は、時間が曖昧すぎて、陽菜の呼吸を遅くする。その合間に立っていると、呼吸の速度が、自分のものではなくなる。

 キャプションに、こう書いてあった。

 ——不在は、もっとも強い主題。

 陽菜は立ち尽くす。胸の真ん中の空白に、名前を与える勇気がまだないと知る。名前を与えたら、空白はただの「空いた場所」になってしまうのではないか。空いた場所は、埋めなければならない気がする。埋められないなら、持ち歩かなければならない気がする。どちらの気もしないままで、立っていた。

 出口のガラスの向こうで、雨が降り出した。

 傘は持っていない。

 庇の下に立って、袖口を指でつまむ。布の端は、雨に弱い。弱いところを先に濡らすと、全体が落ち着く。

 隣に、同じ制服の女子が立つ。

 目が合った。

 会釈。

 名乗らない距離は、安全だった。安全でいるとき、人は少しだけ弱くなる。弱くなった部分に、雨の音がやさしく入り込む。

 数分ののち、雨脚が弱まる。女子は先に出て、階段を降りるとき、踵で水たまりの縁を軽く蹴った。水面に、空の白がほどける。陽菜は、彼女が振り返らないことに安堵し、振り返らない自分に少しだけ失望した。


 帰宅して、鏡の前に椅子を置く。

 空席を描く練習を繰り返す。

 紙の上の白が、紙から浮かんでこない。白は、目の前にあるのに、手の中で重さを持たない。

 影の濃度を決められない。濃くすると、簡単に悲しみになってしまい、薄くすると、簡単に嘘になる。簡単に、が怖い。

 苛立ちの先で、ふと、筆圧を弱める。

 弱めると、線が呼吸する。

 線が呼吸すると、紙の白が、白であることを主張し始める。

 ——白は、塗らないことでしか残らない。

 その事実が、胸のどこかを鳴らす。どこか、としか言えない。心臓でもなく、喉でもなく、肋骨の隙間の、触れない場所。そこが、一瞬だけ、薄く震えた。

 透の声は、返ってこない。

 返ってこない、ということが、夜の静けさの“主題”になろうとする。主題に名前を与える勇気が、まだない。

 窓を開けると、街灯の円が二つ三つ、路面に落ちている。

 その小さな円たちの中へ、蛾が入っては出ていく。蛾の羽は、光の上では重さを持たない。重さを持たないものは、簡単に輪郭を消す。輪郭を消すたびに、また現れる。現れるときのほうが、くっきりして見える。

 ——消える輪郭は、見えるために消える。

 頭に浮かんだ言葉が、誰のものか分からない。

 透かもしれないし、陽菜かもしれないし、通り過ぎた誰かの独り言かもしれない。

 いずれにせよ、今は、確信しないでおく。確信しない余白が、今日を終わらせるための毛布になる。

 電車の遠い音が、夜の端で水平に引かれる。線路の音は、いつだって、昨日と明日を同じ音でつないでくれる。

 ベッドに入る。

 目を閉じる直前、陽菜は、ベンチの下の錆びたボルトを思い出す。指先に、冷たさは戻ってこない。戻ってこないのに、冷たさの形だけが、指の内側に残っている。形だけが残ることが、ときどき救いになる。

 明日の自己紹介は、ない。

 明日の笑いも、たぶん、ない。

 ない、の列の中に、小さなある、を置く練習をする。

 ある、は、紙の白だ。

 塗らないことでしか、残らない。

 塗らないで残した白の上に、いつか、名前を置く。誰のでもない名ではなく、自分の名で。

 そのとき、透の声が遠くても、世界はたぶん、聞こえるようにできている。

 聞こえるようにできている世界の中で、陽菜は眠る。

 眠りは、今日も、紙の白に似ている。

 何も描かれていないわけではないのに、何も描かれていないように見える。

 目を閉じる。

 消える輪郭が、見えるために一度だけ消える、その一瞬の手前で。

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