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第2話 雨の日の約束

 転勤の内示は、母の口からではなく、冷蔵庫の横に貼られた付箋から先に知った。

 四角い黄色い紙に、丸い字で〈総務二→資材三 四月〉と書かれている。矢印は左から右へ、季節の流れと同じ向きに伸びていた。付箋の角が少しめくれて、そこだけ空気の層が厚い。

「春休みの前に、引っ越すことになると思う」

 帰りの買い物袋を台に置きながら、母はやっと言った。玉ねぎの網袋から、甘い匂いがこぼれる。

「遠いの?」

「電車で二つ。県は変わる」

 二つ、という小さな数の中に、知らない駅の数えきれない景色が折りたたまれていることを、陽菜は知っている。網袋の編み目に指を入れると、玉ねぎの丸さが、指の腹に押し返してきた。押し返してくるものに触れると、まだ大丈夫だと思える。

 母は謝らない。謝らないかわりに、豆腐のパックのフィルムをきっちり剥がして、指先で水を切った。水を切る音は、言い訳の代わりに台所に滲んだ。


 最後の図工は、卒業アルバム用の「自己紹介イラスト」。

 担任は黒板に〈じぶんの色で〉と書いた。白い粉が空中にほどけ、窓の光の中でしばらく漂う。

 陽菜は、背景に、雨上がりのアスファルトを選んだ。黒と灰の間に広がる、濡れた面の光。光は、粒になって、遠くの信号の赤や歩行者の靴の白を拾う。その拾いかたが好きだった。明るさは必ずしも空から来ない。地面からだって来る。

 平筆で水を引き、紙を先に濡らす。ぬるり、と音のない音が指に伝わって、心拍が半拍遅れる。

 絵の具は少しだけ。黒に藍を落として、にぶい青をつくる。濡れの上にのせると、色は勝手に広がる。勝手に広がることが、今日は許される。

「もっと明るいほうが、アルバムが華やかになるよ」

 担任が背中越しに言った。イスの脚が床を擦る音と同じトーンで、明るく、あっさり。

 陽菜は筆を止め、空の部分に青を置こうとした。それから、手を引っ込めた。

 代わりに、水。

 水だけを、やわらかく広げる。紙が飲み込むのを待つ。紙は賢いから、必要なぶんだけ受け取って、必要でないぶんは、表面に残す。

 耳の奥で、密度が変わる。

「濡れた路面の青は、空の借りもの」

 透の声が、雨の前触れみたいに落ちてくる。

「借りものでも、たぶん私の色」

「借りる色が選べるなら、それはもうちょっとあなたのもの」

 担任は何も言わずに離れていった。離れていくときの気配は、近づくときの気配よりやわらかい。やわらかいものに守られると、紙の白も少し強くなる。

 美月が、ふ、っと鼻先で笑った。隣の列の二つ前。

「濡れてるの、うまい」

「濡れてるの、うまいって、へん」

「褒めてる」

 美月は、声の端を濡らさない話し方をする。紙を濡らすのが上手い人は、言葉は乾かしておく。そういう気がした。


 放課後、公園のベンチに座る。背もたれの鉄は、冬の名残りを指に渡してくる。

「転校しても」

 と言いかけて、言い直す。

「中学生になっても、いっしょにいて」

 透は、すぐには答えない。遅いのではなく、深さを選んでいる。

「約束は、鍵じゃない」

「鍵じゃない?」

「開けたり閉めたりするための形じゃない。ただ、そこにある」

 ただ、そこにある。

 陽菜は、ベンチの下に覗く。支柱の根元に、錆びたボルトがひとつ。雨で赤茶色に膨らんで、表面が花みたいに割れている。

「じゃあ、合図にしよう」

 ボルトにそっと触れる。冷たい。冷たいものは、手の熱と交わるのをためらわない。

「雨の日は、必ず思い出す。そういう合図」

 陽菜の指の先に、目に見えない針が生まれて、世界に小さな穴を開ける。そこから、思い出すべきときにだけ雨が落ちてくる。

 透も、ボルトに触れた気配を置いた。見えないけれど、金属の冷たさが、指の内側で増える。

「合図は、ここに」

「うん」

 錆の粉が、爪の間に薄く乗った。舌で触れてもしょっぱくないだろうなと思う。味は、知らないままにしておくほうが、きれいなこともある。


 家は、段ボールで生まれ変わろうとしていた。

 段ボールには、字。〈食器〉〈本〉〈衣類〉〈こまごま〉。こまごま、という字は便利で、やさしい。入れるときに迷った物たちを、まとめて守ってくれる。

 祖父の画材箱は、押し入れの奥から出てきた。金具の開閉に、長い年月の音が混ざる。

 底に、小さなスケッチが挟まっていた。

 眠っている幼い陽菜の横顔。薄い線で描かれた耳と、呼吸の位置を示すように置かれた影。ベッドの脇には、空席の椅子の輪郭だけがある。

 裏に、鉛筆で走り書き。

〈君の友達は、君を通して見える〉

 祖父の字は、急ぐときも、止まるところが綺麗だ。

 透が、耳の奥で少しだけ笑う。

「見えてるのかな、私」

「見えたことがある人がいた、ということ」

 母が覗き込んで、「お父さんは、よく分からない人だった」と言い、蓋をそっと閉じた。

 “お父さん”という言葉の手触りを、陽菜はまだ知らない。知っているのは、閉じる音だけ。箱が閉じる音は、音としては小さいのに、部屋の空気の密度を変える。

 スケッチは、ランドセルの奥に隠した。隠す、という動作は、自分に向けての保留の合図だ。あとでちゃんと見る、という約束を、自分の手に預けておく。


 学校の空気は、別れの言葉を覚えていない人たちの気配でいっぱいだった。

 いつも通り、掃除当番。いつも通り、算数のプリント。遠足の写真を配る先生の声は少しだけ高く、笑い声はすぐに消える。

 美月だけが、近くに来る。

「それ、雨の匂いがするね」

 美月が陽菜のスケッチブックに目を落としながら言った。

「匂いは描けないよ」

 陽菜が返すと、美月は、鼻先をすん、と鳴らした。

「でも、する」

 匂いは、記憶の形に似ている。人によって濃度が違う。濃度が違うものを、そのままにしておける人は、少ない。美月は、少ないほうの人だと思う。


 引っ越し前夜、雨が本気を出した。

 段ボールの山が、夜の光を吸って、茶色い崖みたいに見える。部屋の隅に置いたスタンドライトは、山肌の一部だけを明るくし、残りを影に渡す。

「新しい町でも、私を見てて」

 陽菜は、布団の上に座って言った。布団の皺の一本一本が、見えない川の流れの地図みたいだ。

「見るよ」

 透の答えは、雨の音に溶けて、重さを持たない。

「でも、全部は見ない」

「どうして」

「全部見たら、あなたが見る場所がなくなる」

 陽菜は、こみ上げる笑いと泣きの間で、うなずいた。

「ズルい」

「ズルい合図は、役に立つ」

 窓に近づき、人差し指で、小さな輪を描く。曇りが指に追いついてきて、輪はすぐに曇りで満たされる。その上から、雨粒が落ちてきて、輪の中に当たって、形が崩れた。崩れるのは、消えるとは違う。輪のあった場所の温度だけは残る。

「転ぶのは、前にいるからだよ」

 透が、ふっと置くように言う。

「後ろにいると、転ばない」

「転びたくない」

「転ばないように歩くと、歩く場所が狭くなる」

 言葉の端がやわらかいと、残酷なことも、骨まで届かない。骨まで届かない残酷さは、筋肉にだけ残って、明日の動き方を少し変える。


 布団に潜る。雨の音が、屋根からベランダ、ベランダから排水口、排水口から下の庭へと、順番に落ちていく。音は、順番を知っている。順番を知っている音は、眠りを崩さない。

 瞼が重くなる直前、陽菜は、ボルトの冷たさを思い出す。合図が体の内側にあるかぎり、雨が降らない日だって、思い出すことはできる。降らない日にも、湿度はある。湿度は、透明だ。

 夢の中で、透が傘を差さずに立っていた。

 濡れ方が、美しい。

 髪が額に貼りつくのではなく、一本一本が身体の線に沿って、すうっと滑る。透は、濡れることを怖がっていない。濡れるという現象に対して、身体がやわらかく広がっている。

「風邪ひくよ」

 夢の中で言ってみる。

「ひかないよ」

「どうして」

「ここは、あなたの体温で温かい場所だから」

 夢の中の声は、現実より簡単に届く。届くから、嘘みたいに正直だ。

 透は、傘のない手で、空気を撫でた。撫でられた空気が、猫みたいに喉を鳴らす。

「約束は鍵じゃないって、ほんとう?」

「ほんとう」

「じゃあ、どうして持ってると安心するの」

「鍵じゃないけど、ポケットの形を覚えさせてくれる」

「ポケット?」

「何かを入れる前に、そこに入るものの形を練習できる場所」

 理解は、後から追いかけてくる。今は、言葉の温度だけをもらっておく。

 透はすこし笑って、空を見た。空は夢でも重たく、雨は夢でも濡れる。濡れるから、目が覚めても、皮膚に湿り気が残る。

「またね」

「またね」

 別れの挨拶は、夢では軽い。軽いから、起きたときに、重くなる。重さは、胸の真ん中で、丸い石に変わって落ち着く。触れば冷たいけれど、なくては困る冷たさ。


 朝、雨は上がっていた。

 窓ガラスの輪は消え、代わりに細かい筋が残っている。筋は、風の方向の記録みたいに、斜めへ斜めへと流れている。

 段ボールには、昨夜のうちに新しい字が増えた。〈未定〉。

 未定の箱は、空気が軽い。開けても閉めても、何も正しくなくならないから。

 駅までの道で、陽菜はポケットに右手を入れた。ポケットの布の内側の縫い目が、指に触れる。縫い目は、表から見えないのに、服をまとめている。見えないものの仕事は、たいてい、表の形を左右する。

 学校の門の手前で、美月が待っていた。

「今日、帰りに、公園寄れる?」

「うん」

「合図を教えてほしい」

 合図。

 陽菜は、頷いた。ボルトの場所。錆びの花。冷たさ。

 そして、その横に、もうひとつ。窓ガラスに描く輪。

 輪は、すぐに消える。消えるけれど、指の筋肉は覚える。覚えた動きを共有することは、秘密を半分にすること。秘密が半分になると、残りの半分は、少しだけ透明度を増す。

 教室で、担任は黒板に〈引っ越しの準備〉と書いた。

 陽菜は、机の中の消しゴムを出して、角を一つ使った。角は減る。角が減ると、消しゴムは丸くなる。丸くなると、紙の上でやさしく転がる。

 やさしく転がるほうが、字は綺麗に消えない。綺麗に消えない字は、紙の上に薄い跡を残す。跡は、悪いものではない。

 午後、図工室に寄ると、昨日のイラストが乾いていた。濡れた路面の青は、乾いても青のままではなく、紙の繊維の色と混ざって、少しだけ灰に寄っていた。借りものの色は、返すとき、借りたときよりやさしくなる。

 陽菜は、そのやさしさを、指先でなぞった。なぞると、指が静かになる。指が静かになると、心臓が半歩遅れる。半歩遅れると、声が、喉の奥まで来る。

 来るけれど、今日は出さない。

 声は、雨の日のために取っておく。

 約束は鍵じゃないから、開けなくていい。

 ただ、そこにある。

 そこにあると知っているだけで、ポケットの形が、少しずつ自分の手に馴染む。

 手に馴染んだ形で、いつか何かを持つ。その何かが、雨の日にしか見えないものだったとしても。


 帰り道、公園に寄った。

 ボルトは昨日と同じ場所にいて、昨日より少しだけ赤かった。

 陽菜と美月は、並んでしゃがむ。触れると、冷たさは共有される。共有された冷たさは、二人分。増えたのではなく、分けた。

「合図、覚えた」

 美月が言う。

「忘れないよ」

「忘れても、雨が思い出させる」

「うん」

 空は、夕方の手前で、粉が払われたみたいに明るい。

 滑り台の階段を、誰かが登る音。金属は、踏まれるのが好きだ。踏まれた音が、体の中で小さく響く。

 陽菜は、ランドセルのベルトを外側の穴にひとつずらした。肩が軽くなる。

 軽くなった肩で、明日、段ボールに〈たいせつ〉と書く。

 たいせつ、という字は、箱の中身のことではなく、持ち方のことを書いている。持ちかたを間違えなければ、中身はだいたい無事に着く。

 無事に着く、という予感だけで、今日は眠れる。

 眠る前に、窓に輪を描く。

 輪は、やがて消える。

 でも、指先は、輪のために必要な筋肉の、ちいさな記憶を残す。

 その記憶が、明日の陽菜の、目に見えない支柱になる。

 支柱は、たいてい、見えないほうが強い。

 雨の日の約束は、見えない支柱の上に立っている。

 倒れないように立つのではなく、風が吹くたび、少し揺れながら、立っている。

 揺れるたびに、輪は新しく描き直される。

 描き直されるたびに、指は上手になる。

 上手になるたびに、透の声は、少し遠くても、ちゃんと届く。

 届くことより、届くと知っていることのほうが、いつか、陽菜を助ける。

 そのことを、今はまだ、言葉にしてしまわないでおく。

 言葉にしない余白が、胸の真ん中に丸い石として沈み、夜の水底で、静かに光る。

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