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第1話 透明な友達

 白い空は、窓ガラスにうすい粉のように貼りついて、擦っても落ちないチョークみたいだった。

 陽菜は席のいちばん端、廊下側の壁に体を寄せて、窓の端を指でなぞる。指先に伝わるのは、冷たさと、うすく結露した水の感触。水に触れると、心臓の脈が半歩遅れて、静かになる。心臓が静かになると、教室の音がはっきりする。椅子のレールが床を擦る音。シャープペンの芯が折れる乾いた音。前の席の男の子が、消しゴムを何度も角から使っている音。

 担任は黒板に「係決め」と書いて、丸で囲んだ。丸のなかに小さく「じぶんの言葉で」と書き足しながら、こちらを見た。陽菜の視線は、黒板の下の白いチョークの粉へと落ちる。たしかに、言葉は持っている。喉の奥にも、舌の裏にも。けれど、口まで運ぶ途中で、角にぶつかって欠けていってしまう。こういうとき、机の上に置いた両手を、指一本分ひろげるのが陽菜の癖だ。五本の指のあいだに、目に見えない風が通り抜けると、言えなかった言葉たちが、風に巻かれてどこかに行ってくれる気がする。

「はい、じゃあ図書係は?」

 陽菜は、手を出す筋肉に命令を送る。肘が少しだけ浮きかけて、やめた。斜め前の子が先に手を挙げて、すべてはスムーズに決まっていく。スムーズ、という言葉は、陽菜を少しだけ疲れさせる。すべりやすい床の上で、陽菜だけは、靴底に小砂を抱えている。


 昼休み、陽菜は窓際に置いた観葉植物の葉を一本、そっと指で押した。葉脈の硬さが、指に返ってくる感触がすきだ。生きてる、という感じが、押し返してくる。

 そのとき、耳のすぐ近くで、小さいけれどやわらかな圧が、ふっとかかった。

「葉っぱはね、押すと戻るようにできてる。あなたの気持ちも」

「……透」

 名前を呼ぶと、陽菜の頬の内側がほんの少し熱くなる。そこにいるのに、いない。いないのに、いる。透は、目をこらしても見えない。声は、音というより、空気の密度の変化で伝わってくる。雨の前の気圧のように、耳の奥がかすかに詰まる。

「今日も、ちょっとだけ失敗した」

「失敗って、何」

「手を、挙げられなかった」

「それは失敗じゃない。ただ、今は手を挙げなかっただけ」

 透の言葉は、丸い石のようで、角がない。手のひらに載せると、ひんやりするのに重たさを感じない。

「図書係、似合いそうなのに」

「似合いそう、って言葉は、鏡みたいだね。映る人がいないと、ただの板」

「うん」

 返事をして、自分の声が、空気に溶けていったのを感じる。透と話すとき、陽菜はあんまり口を動かさない。動かさなくても、伝わる。透は、彼女の言葉の影を受け取って、意味を返してくれる。


 放課後、雨が来た。校門を出たとき、最初の粒は透明で、空気だけが濡れたように見えた。次の粒は、地面に、しずかな暗い音を置いた。すぐに大きくなって、音は一つ一つが聞き分けられなくなる。

 公園の滑り台の下は、子ども用の秘密みたいに気配が軽い。陽菜はそこに膝を抱えて座って、ランドセルのベルトを外側の穴にひとつずらす。肩が、ふっと軽くなる。

「雨が上がったら、空は少しだけ軽くなる?」

 問いのかたちで独り言を言うと、すぐ近くで、透が答える。

「軽くなるのは、空じゃなくて、あなたの肩だよ」

 陽菜は、滑り台の鉄の柱を指で叩いた。小さな金属音が、内部を走って、地面に落ちる。

「そっか」

「緩めるのは、上手だね」

「ベルト?」

「気持ち」

 濡れた土の匂いが、鼻の奥の深い場所に届く。いい匂い、と言っていいのかどうか、まだ分からない。でも、安心はする。雨の音は、たくさんあるものを同じリズムにしてしまう。足音も、車の音も、鳥の羽音も、少しずつ雨に似ていく。似ていくあいだは、世界と喧嘩しなくていい。

「宿題、やらないと」

「帰ったら、やろう」

「うん。夕飯、なんだろう」

「ハヤシライスの匂いがする」

 透が言うので、陽菜は笑った。鼻をくん、と鳴らし、匂いなんて分かるの、と聞く。

「分からない。でも、あなたが分かってる」

 雨は、滑り台の天井を叩き、天井は、音を少しやわらかくして返す。陽菜は濡れない場所の縁に小指を差し出して、外の水に触れた。冷たさが皮膚を通って、骨の芯までまっすぐ走る。こうして、今ここにいる、と感じる。


 家に入ると、たしかにハヤシライスの香りが、廊下の角で溜まっていた。狭いダイニングは湯気で白く、壁のカレンダーには小さな赤い丸印がいくつか付いている。母はエプロンの紐をきつく結んだまま、鍋の蓋を押さえていた。

「おかえり」

「ただいま」

「手、洗った?」

「今から」

 手を洗って、タオルが湿っている感じを掌に移し、席に着く。スプーンは金属で、ハヤシは茶色で、皿は白い。言葉にしなくても分かることを、一つ一つ、脳の手前に置いてから食べるのが、陽菜の食事の仕方だ。

 母は、あまり食べない。スプーンを持ったまま、視線が皿の縁とカレンダーの間を往復する。

「今度の人事で、もしかしたら」

 母が言ったので、陽菜はスプーンを止めた。

「もしかしたら?」

「異動になるかも。春休み前」

 言われる前から、身体のどこかは分かっている。雨の匂いと同じように、言葉の匂いもある。異動、という四文字の匂いは、紙と板目の匂いが混ざった感じで、少し尖っている。

「引っ越し?」

「うん。ごめんね」

「ううん」

 謝られると、陽菜はいつも困る。たぶん母は、謝るしか言い方を知らない。謝るかわりの抱きしめ方も、知らない。陽菜は、スプーンを皿に置いて、背筋を伸ばした。伸ばすと、肩の痛みが少し遠くなる。

「食べ終わったら、宿題して、絵を描く」

「うん」

 母は、台所の水道にコップを重ねた。重ねる音が、小さな鐘みたいに鳴った。


 宿題の算数は、線を引くと答えが出た。線は、引く前はただの可能性で、引いたあとだけ意味になる。引いたから、その線を二度と引き直せないのが好きだ。答えが間違っていても、線は線。そこにいた時間の形が残る。

 宿題が終わると、祖父の残したデッサン帳を机に置いた。茶色の紙の端が少し欠けて、くるぶしみたいな形の破れがある。紙は、長く誰かの指に触れられていると、やわらかくなる。

 鉛筆で椅子を描く。背もたれの曲線に、指が、鉛筆の腹を使いたがる。木の椅子の影は四角く落ちるけれど、よく見れば、影の端は毛のようにほつれている。そこが好きだ。完璧な直線は、嘘っぽい。

「誰の席?」

 透が尋ねる。

「いつかの私の席」

「いつか、っていつ」

「まだ知らない時刻」

「知らない時刻は、たいてい正確」

 意味が、分かるようで分からない。けれど、分からないまま、静かに頷ける。透の言葉は、ときどき、未来のどこかに結び目をつくる。あとでそこに来たとき、ほどけるように意味が分かる。

 ページの端に、祖父の薄い鉛筆の跡があった。椅子の足を描いた線の上に、別の線が重なっている。誰かが、ここに座っていたことを、紙は覚えている。祖父は絵のなかで会話をしていたのかもしれない。紙と椅子と影とで。陽菜は、祖父の指の長さを想像する。長い指で、薄い影を撫でるみたいに描いていたのだろう。

 ページを閉じて、枕元に置く。紙の匂いは、枕の布とよく混ざる。混ざった匂いは、眠りを重くしない。


 次の日から、小さな出来事が、小さな音で積もり始めた。

 発表の順番を代わってほしいと頼んだら、「今日は無理」と笑顔で言われた。笑顔は、断りの刃をやわらかい布で包むために使われる。布はやさしいけれど、刃は刃のまま。

 給食の配膳で、牛乳を配るスピードが遅くて、「気が利かない」と言われた。言った子は、悪気がない顔をしていた。悪気がない、は、傷薬みたいに言われるけれど、傷薬は傷の上にしか塗れない。

 黒板の隅に、小さな鳥をチョークで描いたら、掃除の時間、誰かが何も言わずに消した。消し方が丁寧だったから、形はきれいに失われた。丁寧に失われるほうが、粗雑に壊れるより、胸がきゅっとなる。

「翼はね」

 透が囁く。

「逃げるためだけじゃなく、降りていくためにもある」

「降りていく?」

「着地、ってこと」

「私は、どこに降りればいいのかな」

「濡れてない地面。あるいは、濡れているのに冷たくない場所」

 陽菜は、黒板消しの粉が舞う光の中で、小さく頷いた。濡れているのに冷たくない場所は、たぶん、人の声のすぐ外側にある。そこには、耳だけを差し出せばいい。体は差し出さなくていい。


 日曜の午後、窓の向こうで、空の白が少しだけ薄くなった。雲の切れ目のどこに切れ目があるのか、目では分からないのに、部屋の空気が軽くなったことで分かる。

 陽菜は机の上を片づけた。コップに水を用意して、紙を新しいものに変える。水彩絵の具の箱は、角がすこし割れて、蓋が斜めに閉まる。斜めのまま、問題なく使える。

 透を描こう、と思った。透は、見えない。見えないものを描くには、どうすればいいのか。輪郭のないものに、輪郭を与えずに、存在を渡すやり方。

 紙に、清水を引く。平たい筆で、水だけを、四隅にひろげていく。水が紙に入っていくとき、紙は、濡れていることを誇らしげにはしない。静かに受け取るだけ。受け取ることができる紙は、強い。

 乾く前に、薄い灰色を、椅子の座面のあたりにだけ落とす。絵の具は、水をみつけて、そこにひろがる。ひろがる境目は、毛のようにほつれて、見えない呼吸を描く。

 背もたれの棒の影を、うんと薄く、指先で擦る。指は、消しゴムの代わりにならない。むしろ、紙の上に指の脂を残してしまう。それでも、指で触れた部分は、絵の具が少し鈍くひろがって、偶然を作る。偶然の形は、意図の形より、ずっと正直だ。

 窓からの光が、机の上に四角く落ちる。その四角の端に、くすんだ色を置く。そこだけ色を濃くすると、誰かがそこに座っていた気配が、紙の上に生まれる。気配は、目で見る前に、皮膚で読む。

「透」

 と呼んでみる。

「ここに、いる?」

 返事は、すぐにはない。返事がすぐにないことは、いなくなった証拠にはならない。いないことと、いなくなることは、ちがう。陽菜は、そのちがいを、まだはっきりは言葉にできない。

 紙の中央に、濡れの濃い輪が残る。水がゆっくり引いていくにつれて、輪郭がすこしずつ乾いて、あぶり出しの文字みたいに浮かび上がる。

 題名を、紙の下に小さく書く。

「椅子の跡」

 跡、という言葉は少し悲しい。でも、やさしい。まだ温度が残っている感じがするから。温度が残っているうちは、跡はただの過去ではない。


 夕方、母はソファで眠ってしまった。テレビは付いているのに、音は出ていない。動くだけの映像は、金魚鉢の水みたいに、部屋の空気を濡らす。

 陽菜は、窓の前に立った。窓ガラスに、自分が映る。輪郭は、外の光で縁どられて、顔はすこし薄い。薄い顔は、怖くない。怖くないのは、そこに、自分の目が確かにあるから。

 指で、ガラスの上に、輪を描く。指先の熱で、輪はすこし曇り、じきに消える。消える、というのは、無くなることではない。見えなくなること。見えなくなっても、指先には、輪を描いたときの筋肉の記憶が残る。

「透」

 陽菜は、ガラスに向かって言う。ガラスは、言葉を受け取らず、ただ映す。映すことしかできないものに、言葉を投げるのは、少しだけ勇気がいる。

「明日の私を、教えて」

 言った瞬間、部屋の空気が、一度だけうすく鳴った。返事かもしれないし、返事でないかもしれない。どちらでもいい。言えたことが、明日の半分だった。残りの半分は、明日、言うこと。

 窓の外の白い空は、夜の手前で、粉を払い落とされたように透明になった。空は軽くはならない。軽くなるのは、きっと陽菜の肩。肩が軽くなると、背中の骨の一本一本に、空気が入ってくる。空気が入った背中は、少しだけ、まっすぐになる。

 ベッドに横になると、まぶたの裏に、水のひろがる音が残った。水は、いつも通り、紙の繊維の間に入って、そこにしかできない地図をつくる。明日になったら、その地図の続きを、また描く。透がそこにいなくても、いるみたいに。いるみたいに描けたら、そのとき、透の名前は、輪郭を持たないまま、意味だけで残る。


 眠りに落ちる手前で、陽菜は思う。

 係を決めるときに挙げられなかった手は、明日、紙の上で挙げればいい。手を挙げるのは、教室の中だけの動作じゃない。紙の上で、色を置くことも、手を挙げることだ。

 窓ガラスに、さっき描いた輪はもう見えない。見えないけれど、指先のあたたかい記憶は、眠りの底で、丸い石になって沈む。沈んだ石は、朝、目を開けたとき、足の裏で触れる小石みたいに、歩きだすきっかけになる。

 明日の空が白でも、灰でも、青でも、陽菜の肩の重さは、一度ずつ量り直すことができる。量り直すたびに、軽くなる。軽くなるたびに、透の声に近づくわけではない。けれど、その必要が、少しずつ薄くなる。必要が薄くなるのは、さみしいことではない。残るものが、別の形を得るから。

 遠くで、電車の音がした。規則的な音は、線路の上でしか鳴らない。線路は、昨日も今日も明日も同じ場所にあるのに、乗る人はいつも違う。陽菜は、その当たり前に救われる。違う人が乗る。同じ線路。今日の自分と、明日の自分。違う人。同じ窓。

 目を閉じる。

 ふっと、耳の内側で、雨の前の気圧が、やさしく寄せた。返事に似た静けさが、枕の綿に吸い込まれていく。

 陽菜は眠る。眠りは、紙の白に似ている。何も描かれていないのに、たくさんの線が、薄く準備されている。

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