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3/3

キミコイ

 忘れたくても、忘れることのできない記憶が、誰にもひとつくらいはあるだろう。広範囲に甚大な影響を与えた大災害。ボロボロと涙を流した往年の名作映画や、逆転で優勝を掴んだオリンピックのメダリスト、大切な家族との別れだって決して忘れることはできない。胸に押し寄せる衝撃が大きいほど、その記憶はいつまでも頭に残り続けるものだ。


 それでも初めて人を好きになった「ハツコイ」の記憶は、誰しもが経験し、死ぬまで心の中にある大切な想い出に違いない。人々はそれがどれほど貴重で尊いものか知らず、他人に語らないことがほどんどで、中には一生口にされることがないまま、消えて行ってしまう者もいる。これほど惜しいことはない。

 そんなことを考えながらホテルの天井をぼんやりと眺めていた。



 1

 目覚めてから既に一時間以上も経っているのにまったくお腹がへらない。胃の調子が悪いわけではないのだけれど、なんとなく満たされて心地よい感じが全体に付きまとっていた。もしかしてこれは夢の延長?

 それでもずっと、こうしてベッドの上に仰向けになっているのにも飽きてきて、ヘッドボードからリモコンを取り、天井に向かってボタンを押す。ピンク色の照明は、枕の辺りを鮮やかに照らし出し、換気扇の回りだす音が風呂場の方からした。


 汗を吸ったシーツを持ち上げて起き上がると、カーテンの裾からこぼれる陽の光に気がついて、勢いよく窓を開ける。二階からの眺めは、小路を挟んだ向かいに建つマンションの共有部を映し出し、ゴミ収集車の近づく音が不快な響きを持たず耳に飛び込んでくる。グッとモーニング。これほど爽快な朝はいつ振りだろう、唐突にそんなことを思っていた。小学四年の夏休み、まだ日の昇らない早朝に起き出して、宿題の漢字プリントに励んでいた時のこと。午前中は学校のプールで泳ぎ、午後からはクラスメイトと高台の神社で虫取り。夜は家族で江の島のレストランに行くことになっていた。興奮から沸き上がるエネルギーが、朝早くに起きて宿題を済ませる原動力になっていた。そしてそんな時は、きまって集中がよく続く。静まった空気、涼しい風、わずかなセミの音。全てが思い通りに進んでいた。


 そんな幼い頃の思い出のように、今朝の気分はすごぶる上々だった。スリッパを脱いで浴室に入り、熱いお湯を頭からかぶって入念に身体を洗う。ボディーソープの泡立ちはシャボン玉ができるほど滑らかに肌を伝い、流してもツルツルとした感触は残ったままだった。浴槽にお湯を溜めようかと迷ったが、朝はなによりもテンポが大事。時間を要するから今日はやめにした。


 ドライヤーで髪を乾かしている間。取り留めなく今日の予定を頭に浮かべる。まず外に出て、どこへ行こう。取りあえずいつもと反対のホームに上がって、下り電車に飛び乗ろう。適当な駅で降りて、海を目指して歩きだせば、自然と道沿いに民家のような建物が現れて、重い扉を押して中へ入ると、青いエプロンを着けた腰の曲がった店主が、盆の上に温かなオムライスを目の前に突き出してくる……


 ようやく口の中が唾液で満たされ始めた時、備え付けの冷蔵庫に水しか入っていないことを確認して、外に出なければならないと思い立つ。靴下を穿き、椅子に掛けたままのジャンパーに袖を通して、机の上を確認する。


 ない。鍵がない。

 すぐさまポケットを確認し、ソファの上、洗面所、ベッドシーツを剥いで下まで隈なく探すがない。ないのである。



 2

 何度も部屋を駆けまわったせいか、流しきった汗は再び首すじに玉を浮かべ、途方にくれてベッドに腰掛ける。このまま一日中部屋にいることしかできないのかと、気晴らしにリモコンを取ってテレビに向ける。画面いっぱいに人と人とが入り混じり、スピーカーからキンキンと女の声が放たれる。とても見れたもんじゃない。リモコンを切ってベッドに放り投げ、自分もそのまま仰向けに寝転がる。


 平凡な一日が始まろうとしていた。このままウトウトとまどろめば、眠りの渦に巻き込まれて、時間を忘れて眠り続けるだろう。気が付けば西日が部屋に差し込み、窓の外で沈みかけた陽が遠くに明るんで、帰路につく小学生のランドセルを温かく染め上げる。どこからか夕飯のカレーが鼻に忍び、教育番組のオープニングが聞こえると、電線に停まったカラスが一斉に飛び立って、笑いながらスナック菓子を頬張っている。


 いやいや、こんなんじゃダメだ。目を開けて勢いよく起き上がる。このまま部屋に居ても何も始まらない。行動を起こさないと、ズルズルと時間だけが過ぎてしまう。


 とにかく下へ降りてみよう。フロントに頼めば、何とか今日一日だけでも外に出してくれるかもしれない。鍵のことはまた明日考えればいいのだ。


 靴を履いて廊下へ。鍵を閉めていないから、中に入られてもいいよう貴重品だけ持ち出した。静まり返った廊下をベージュのカーペットを踏んで突き当りのエレヴェータへ、ボタンを押すとすぐに開いた。①を押す。ガタガタと建て付けの悪いドアのような音を出して静かに扉が閉まった。


 大きく葉を垂らした観葉植物を横切り、フロントの前を早足で出口まで急ぐと、案の定後ろから呼び止められた。

「ちょっと」

「はい」


 薄暗いカウンターは、首から上をブラインドで隠しているため、女性スタッフの手許しか見えない。声の感じは四十代くらいか。スナックで働く人特有の、少しかすれ気味の調子である。

「カギ、もらってないよ」

「そうですよね」

 仕方なく台に近づいて事情を説明すると、

「はあ?」

 怒ったようにも、呆れたようにも取れる声だ。

「なくしたって、それじゃあどうするんだよ」

「今日中に見つからなかったら、弁償します」

「弁償って、簡単に言うけどねえ。うちのカギはそんじゅうそこらの店じゃ取り扱ってないんだよ。外国のどっかから取り寄せてもらっているヤツだからね。作るのに一か月もかかるんだから」

「はぁ……じゃあスペアキーとかは」

「もちろんないわよ。そんなもの作るお金がどこにある?」

 顔が隠されているからだろうか、客と応対するとは思えない態度と調子でまくし立ててくる。苛立ちが顔に出ないよう生唾を飲みながら、悪いのは鍵をなくした自分だと言い聞かせて、思い切り息をはいた。

「それじゃあボクはどうすればいいんですか?」

「決まってるでしょ。血眼になって探しなさい」

「だから、探しても見つからないんですよ」

「そんなわけないでしょう、入る時に使ったんだから。頭が悪いのかしら」


 癇に障ることばかり言う。このままこのどうしようもない人間と付き合っていても埒が明かないから、取りあえず外に出させてくれと、語気を強めながら懇願するように頭を下げ続けると、向こうもようやく冷静になったのか、

「それじゃあ、大事なものを置いていきなさい」

 とキッパリ言った。

「お金じゃダメですか」

「逃げると困るからね」

 ボディバッグに手を回して中を見る。三色ボールペンとバインダーノート、トランプが一組に棒付きキャンディとアニメのキャラクターシール。使いどころのない白いシュシュが丸まって入っていた。どれもなくなってもさして困らないものばかりで、ぶちまけるように台の上に並べてみても、女性スタッフの手は伸びなかった。


「わかった。スマホを出しなさい」

「ちょっと待ってください。まだ何かあるかもしれないので」

 慌ててジャンパーのポケットに手を突っ込み、小銭や三日前のレシートを引っ張り出すと、ふいに頭の隅にアレの存在が浮かんできた。アレならもしかすると、もしかするかもしれないと、ためらいながらもその名前を口に出していた。

「はあ?」

「ソレを置いていくので、どうか今日だけは見逃してください」



 3

 外へ出ると、なんてことのない、いつもの街並みが広がっているのに、知らない町へ来たような新鮮味と感動が胸を打つのはどうしてなのだろう。連なったマンションの影から顔を出す陽の光が、目の前を遮るようにジリジリと白く浮き出るのは、新しい蜃気楼か何か?駅までの道のりは電柱が伸びているだけの平凡な住宅地で、交差点を渡った先に商店が密集する栄えたエリアに入る。飲食店やスナックは軒並み戸を閉めて、客や従業員の姿もいっさい見当たらない。見えるものは街路樹に散乱したストロング缶と、その向こうで足早に駅へ急ぐコート姿のサラリーマンのみ。夜に映える町ほど、朝は無惨な光景が広がっていて目を背けたくなる。時おり吹き荒れる風がジャンパーの裾をパタパタと煽った。


 朝食を食べようと思って、目当ての喫茶店の前まで来てみると、思いがけず臨時休業の札が架かっていて肩を落とした。久しぶりにフレンチトーストが食べたかったのに。もちもちフワフワの食感を口の中で思い出しながら、仕方なくコンビニでいつものおにぎり(おかか)とハムレタスサンドウィッチ、食後の麦茶をカウンターに持っていくと、トイレに行っているとばかり思っていた店員が、二分経ってもなかなか姿を見せない。店内は他に客がいず、密閉されたように音が遮断されて静かだ。夜勤の店員が控室で眠っているのだろうと、無人支払いで会計を済ませ、そのままイートインスペースで早々と買ったものを胃に入れた。


 そう言えば歩いている間も、今日はやけに人の出が少ないと感じた。休日でもないのに、働きに出る人どころか、主婦や学生の姿も少ないように思える。緊急事態宣言のことがまだ記憶に新しいから、さほど珍しくもないと思っていたけれど、それでも風の音や小鳥のさえずりがハッキリ聞き取れることを思うと、何となくだが、町が小さくなっているような心細さを感じた。


 食べ終えて店から出る時になっても、店員は控室から出てこなかった。

 パスモで改札を通り、下りのホームへ上がった。並ぶ人はまばらにいて、ベンチに座った老夫婦が親密に喋っている。奥の方ではサラリーマンが三人、スマホを眺めながら立っていた。


 電光版を見るに、遅延もしていなさそうだから、電車は時刻通りくるだろうと、人のいない端に並んで、所在なげに視線を反対側、上りホームに置いていると、右端から一つ手前の列に、焦げ茶色の中折れ帽を被った老人が、黄色い線の内側ギリギリに突っ立っていた。


 秋葉先生だ!と自然と呟いていた。小学校三年生の時、元の担任が育児休業に入ったことから、半年間仮の担任をしてくれた初老の教師。つぶれた鼻と落ちくぼんだ瞼が、まさにあの当時のままだ。向こうはこちらに気づいていないようだから、声を出して手を振ってみようとも思ったが、今から十年以上の、しかもたった半年間だけの関係なのだから、声をかけても困惑するだけだろうと、そのまま静かに見守っていた。


 よく見ると、秋葉先生は右手に紐を持っていて、その細い線がさっきから右へ左へ動いている。目を凝らすと、ハーネスをつけられた真っ白なウサギが、ぴょんぴょんと先生の周りを跳ねている。犬や猫のように、ウサギも散歩させるものなのだろうか。ホームのブロックギリギリを飛び跳ねるウサギに、先生は見向きもせず直立している、何だか呆けた老人のようだ。放心したままの先生が、なぜウサギなど連れまわして散歩しているのだろうかと、不思議に思いながら、その異様な光景を目で追っていると、いつアナウンスが鳴らされたのか、気がつくとホームに電車が流れ込んでいた。



 4

 空いていた隅の席に腰を落ち着かせ、ぼんやりと案内表を見る。各駅停車に乗ったから、窓の外はゆっくりと風景を刻んでいる。行き先など無論決めていない。このままダラダラと海の見える終点まだ揺られるか、はたまた大きなターミナル駅で乗り換えて、遠くを目指すのもいい。今日中に帰ってこれるのなら、どんな場所だっていいのだ。


 いろいろ考えているうちに駅に停まった。郊外にある普通の高架駅だ。ドアから何人かの人が降り、乗った。ドアが閉まる。レールの軋みがじょじょに風を切る音に変わっていく。


 黒い壁を映していた車窓はそのまま山の中へ入り、トンネルの暗がりは向かいの窓に自分の姿を映す。チョコンと肩をすぼめて座る自分に、あれ、こんな顔だったっけ、と不思議に見つめている。髪型は普段通りだが、目の大きさや鼻の高さ、薄く伸びた眉にぷっくりとした唇は、若者に人気のドラマ俳優のように、凛々しく映っていた。


 両手を頬に持っていき、優しくこするように上下に触ると、冷たい指の動きが認められ、ああ、やっぱり自分なんだと窓を見つめながら思わず口にする。風呂上がり、思いがけず髪型が決まったり、友人の撮った写真がいい角度の時など、こんな風に心の中で喜んだりするのだが、今日のはそんなのとはわけが違う。目の前に映る自分は自分ではないのだ。けれど鋭くきらめく眼孔に惚れ惚れとしていると、本来の自分の表情が思い出せなくなって、また、均整の取れた自分の顔に慣れてきてなのか、全てがどうでもよくなってきた。今日のオレの顔面は絶好調だと思えば、それだけで何もかもが前向きになれた。


 トンネルから出ると、窓から一斉に光が射しこんだ。白飛びのような目の散る感覚に、ぎゅっと眉間に皺を寄せて耐えていると、どうしたわけかそのままスッと意識が飛んで、頭の上からターミナル駅を告げるアナウンスの音で起き上がり、急いで電車を出た。ホームは幾つもの路線が止まることもあって込み合っている。階段を上る列がしばらく続き、ようやく人の少なくなった頃、全てを思い出したかのようにハッと我に返った。


 眠っていたこともそうだけれど、どうして電車を降りてしまったのだろうと後悔した。まだ終点まで長いから、ゆっくり車内で考えようと思っていたのに。けれど、もう一度各駅を待つのも時間の無駄だし。仕方なくラッシュの過ぎた階段を上がる。こんなことも旅の付き物だ。さまざまな路線が入っているから、ゆっくり考えても目的地まですぐ行けるだろうと、ポジティブに努めていると、前方から大急ぎで階段を降りてくる人影が目に入った。


 そう慌てることもないのにと、そのまま横を向いていると、思いがけずその人の持っていたスクールバックが肩に当たり、思わず足を止める。「すみません」と女の声。厄介だなと思いながらも首を上げる。

「あれ」

「こんなところで何してるの?」

 制服の肩に茶色の髪をなびかせて、高校一年の頃クラスメイトだった上羽八重がそこに立ていた。



 5

「早引きしてきちゃったあ」

 八重に誘われて、上りの列車に乗ってしまった。逆戻りだ。それでも久しぶりの再会ということもあって、話をしてみたいという気持ちの方が勝っていた。


「お父さんが仕事で大怪我したから、今すぐ病院に行かなきゃって嘘ついたの」

 ちょっぴり恥ずかしそうに笑みをこぼす八重の姿が、四年前、初めてクラスで会った時の初々しい印象とマッチする。いつも笑みを絶やさないところが、この子のいいところだ。


「オーディションを受けに行くの。アイドルのね」

 電車が停車すると、ホームの屋根から光が透けているのが見えた。


「行くかどうか、今日まで迷ってたんだけど、でもせっかくのチャンスなんだからやってみようと思って。今までモデルとか、地下アイドルの面接には行ったことがあるけど、今度のは大きい事務所のメジャーデビューがかかってるやつだから、ダメもとでもいい経験になるかなって」


 八重はバックから一枚のパンフレットを取り出してみせる。〈新人発掘オーディション‼未来のアイドルはキミだ!〉太文字の下に、テレビでよく見るアーティストと芸人が、審査員として写っている。素人だけでなく、事務所に所属しているモデルや俳優、インフルエンサーなども選考の対象のようだ。


「やっぱり、わたしなんかには無理だよね。歌やダンスだって部活でチョコっとやってたくらいだし、小さい時からアイドルを目指してた子たちなんかにかないっこないもの」


 電車は先ほどのトンネルに入り、辺りは張り詰めたような冷たい空気に変わる。ふと隣へ顔を向けると、二号車に乗っているのはボクと八重だけだと気づく。

「わたし、アイドルになれると思う」

 それはやってみなけりゃわからない。

「いざ受けるって思ったら、なんだか怖くなってきた」


 足の内側に寄せたバックを指先で摘まみ、車窓に落ち着かない視線を投げる八重は、日本人形のような固まった表情で小さく息を吐いていた。入学試験の時、マフラーに着いた雪片を軽やかに払った時の、透き通るような哀しい美しさがボクの胸を突いた。

「これが最後だと思って、がんばってみるよ」


 二つ目の駅で通過待ちに遭い、十分の間ボクらは車内に残された。ボクは先ほどホームで見た秋葉先生と、ハーネスをつけられた白うさぎのことを八重に話した。高校の頃、身近な事について話したことはあったが、小学校の出来事を話すほど、親密な関係ではなかったから、今こうして二人きりで昔話に花を咲かせることができて、懐かしさに心が穏やかなだった。首を少しだけ反らせて大きく笑う八重は、あの頃と全く変わっていなかった。


「わたし、小学生の時飼育員だったんだよ。昼休みに餌やりと掃除の当番があってね、みんな食べてるところを見ていたいから餌やりをやりたがるの。でも小屋をキレイにしないとウサギさんも嫌でしょう?放課後残って掃除するのはいつもわたしの役」

 誰も手伝ってくれなかったのか。

 アナウンスとともにドアが閉まると、車内に伸びていた光は切断された。

「ううん。たしか、ひとりだけ手伝ってくれたの。同じクラスの子なんだけど、なんだか不思議なこでね。クラスではまったく喋らないのに、ふたりきりになると突然おしゃべりになるの。好きなアーティストのこととか、観ているアニメのセリフだとか、とにかくいろんなことを話して、その時は時間が過ぎるのが早く感じたな」


 電車はボクの最寄駅を過ぎて、心持ち速度が上がったように感じられた。このままターミナル駅を超え、川を渡ればガラッと雰囲気は変わってくる。それまでつぶれたような屋根が木立の間に続いていた街並みは、一瞬で高層ビルやタワマンの並ぶ都心に変わり、電車が停まるたびに車窓から駅直結のショッピングモールが、アイドルのライブ会場のように人々を中へ吸い込んでいく。陽の光はさえぎられ、変わりにおびただしい量の照明が、乗客を包む。


 ボクは目をつむった。そして夢なら早く覚めてしまえと願った。瞼の裏側は暗闇が震え、かすかに光の粒子がうごめくのを感じた。



 6

 上羽八重の出席番号は三番で、ボクのちょうど左ななめ前の席だった。

 彼女は入学初日から活発だった。自己紹介の時、アナウンサーのような発声で出身中学と部活、好きな音楽や休日の過ごし方を述べ、最後に笑顔で一発ギャグを披露した。内容は覚えていないけれど、差し込んだ光が彼女の髪を白く縁どって、その姿がクラスメイトの中で一際輝いて見えた。


 八重はすぐにクラスの中心になった。一学期の学級委員を勤め、担任からも信頼されていた。クラスの男子は、ボク含め八重が後ろへ振り向くと、ドギマギと意味もなくうろたえて目のやり場に困った。彼女の華奢な肩を覆い尽くすように流れた赤髪は、日によってその輝きが違って見えるほど、不思議な光沢を放っていた。


 夏休みの終わった二学期の初め、担任に壇上へ呼ばれた八重は、大手芸能事務所の主催したアイドルオーディションで、見事メンバーに選ばれたことを報告した。もともとダンスや歌には自信があり、中学時代にモデルの経験もあったから、卒業後は何かしら芸能の仕事に就くだろう誰もが予想していたが、まさかこんなに早いタイミングで世に知れ渡るとはと、その突然の出来事はクラスをどよめかせた。八重はメジャーデビューする十月から本格的に忙しくなり、学校に来れない日も多くなると言って、純粋な涙をこぼしていたが、最後は彼女らしく日本一のアイドルを目指すと高らかに宣言し、上手く場をまとめた。感動に包まれたボクらは喜びと祝福の拍手で彼女を送った。


 帰ってからボクは八重にメッセージを送った。売れたら焼き肉を奢ってくれよという地味で素っ気ない応援だった。八重はありがとうと打って、夢が叶うよう精一杯頑張るからとすぐに返事が来た。最後に好きなアニメのスタンプで、〈全力投球〉と高校球児のキャラクターがボールを投げるアニメーションが送られてきた。ボクは彼女らしいその無邪気なスタンプに、憧れが遠い存在になっていく時の、複雑な喪失感みたいなものを胸に抱えて呆けていた。その日はよく眠れなかった。


 十月にメジャーデビューした八重のグループは、SNSを通じて瞬く間に若者の心を掴み、スマホを開けば見ない日はないほどに浸透していった。有名な音楽番組に出演し、大河女優とコラボしたCMソングが全国に流れると、その人気は老若男女全世代にまで及び、まさに時の人となった。デビューが秋ということもあって紅白出場は見送られたが、それでもネット掲示板で議論が起きるほど、知名度は申し分なかった。ボクは八重がテレビに出る度に、クラスメイトに報告しメッセージを送って彼女を応援した。マイクを握り、颯爽とステージを彩る八重の姿は、クラスで見せる大人びた印象と異なって、生き生きとした少女のようだった。ボクはテレビの前に居座り、時には心静かに感動を噛みしめ、時には胸が熱くなるような感嘆をもらして彼女の勇姿を見守った。ネットで彼女に対して好意的な意見やコメントが流れると、親でもないのになぜだが誇らしく清々しい気分になった。


 年明けの三学期、担任から八重が亡くなったことを知らされた。自殺だった。正式な報告は午後から出されると言って、担任は声を震わせていた。


 それまで不穏な影を一切見せずに、テレビにも学校にも姿を現していたから、その突然の出来事はボク含めクラスメイトを悄然とさせた。二日後に行われた通夜でも、クラスメイトの大半は、内にこもっていた精気が抜け出たみたいに、顔を白くさせて焼香を上げていた。そして彼女のいなくなったクラスは、皆夢から覚めてしまったかのように、味気なく退屈なものに変わって、普段通りの学校生活がまたはじめられた。



 7

 鉄橋を渡ってビル街を縫うように走った電車は、県をまたいだ辺りから乗客が少なくなって、終点で降りる頃には、ボクと八重だけが車内にいるような気がした。


 これからどうするのだろう?改札までの階段を下っていると、八重は唐突に真ん中で歩を止めた。

「着いてきてよ。付き添いだって言ったら、中に入らせてくれるかもしれないし」

 八重は無理やりボクの腕を取ると、そのまま改札を出て大通りを歩いた。町を覆うように伸びたビルから、かすかに太陽の明るみが感じられた。


 中央広場を抜けて飲食店の連なる小路に出ると、八重はボクの手を離した。人が増えてきたこともそうだけれど、真昼に男女が手をつないで歩いているのはちょっと変だし、ましてや片方は今からアイドルのオーディションを受けに行くのだ。ボクはのろのろと歩く八重の後ろに張り付いて、見慣れない都会の風景を眺めた。テラス席のもうけられたカフェにはサングラスの女性客が大半で、台湾ミルクティーを売るキッチンカーには女子高生が群がっていた。


 小さな橋を渡って右へ向くとオフィス街の並ぶ通りに出て、八重のオーディション会場はその中でも一際大きなビルだった。見上げるようにしてガラスに覆われた外装を眺めると、八重は不安からか、再びボクの手を握った。

「やっぱり、辞めようかな」


 普段からは想像もできない八重の弱音は、ボクを一瞬戸惑わせた。入口まで来て引き返すアイドルがどこにいる。けれど八重の不安そうな表情は、ボクの中で何か重なるものがあって、上手く説得することは難しかった。

 いいの?せっかくアイドルになれるチャンスなのに。

「……」

 もう一回聞くね。いいの?ここで辞めて。


 その時、硬い大理石の柱を睨んでいた八重は、スッと首を持ち上げボクの顔を見た。キレイな二重が上目遣いのようになって黒い球体を動かしている。目を逸らしてはいけないと思っても、逆に吸い込まれていきそうな八重の切ない瞳は、形よくせり上がった鼻筋を辿って湿った唇に行き当たると、最後はぼんやりとした肌色の輝きになって浮かんでいた。


 彼女の背後に高層ホテルの群れが見える。ビジネスホテルからアーバンホテル、レンガ調の老舗のものもある。中でも看板のネオンがきらめく白壁は、ボクの泊まる色あせた一室を思い浮かばせた。


「やめる」

 一時は豪雨のように頭上を差していた太陽は、高速道路に隠れてから白雲に包まれ、再び姿を現したかと思うと、もう既に一帯は赤みがかり、月の存在がハッキリと認められた。



 8

 あれほど見つからなかった部屋カギが、帰りの電車に揺られて体勢を崩しかけた拍子に、ひょいと投げ出されるようにジャンパーンのポケットから落ちた時、ボクは長年の悪夢から覚めた時のように目を丸くして、湧き上がる安堵に腰回りが火照ってくるのを感じた。


 それは車窓から舞い込む穏やかな夕陽を見て、自然と感じたものかもしれなかったが、ボクは今日一日を振り返ってこれほど驚いた出来事はなかったなと、黒々と林立するビル街の遠く、茜色の光を透かしている太陽を懐かしそうに眺めていた。


 高架駅のホームに人の姿はなく、降りる客もボクだけだった。階段を下りて改札を抜け、まばらな通行人にも慣れた繁華街をホテルの方へ進んでいくと、ビルとビルの間、人ひとりがギリギリ通れる間から、一匹のウサギが勢いよく飛び出し、駅の方へ走り去っていった。


 それは間違いなく、今朝秋葉先生の連れていた白うさぎだった。首輪はつけていなかったけれど、直立した耳や大きな目、フワフワの白い毛に覆われた姿は、一度見れば決して忘れない特徴をそろえていた。ボクはウサギの走っていった歩道を振り向きながら、そういえば秋葉先生は飼育委員の先生ではなかったかと記憶を辿っていた。詳しくは覚えていないけれど、下校チャイムの鳴り響く飼育委員の用具入れの前で、青い作業着を着た秋葉先生が、ボクたちを叱っていたような記憶がある。白髪の混じった秋葉先生の左頭上から真っ赤な太陽が差し込み、校庭に長い影を映した時、「かげおくり!」とどこからともなく声がして、振り返ると逆光でもよくわかる笑顔がそこにあった。


「あの時か」と小さく口の端に出していた。


 フロントへ帰ると外は真っ暗だった。入口に置かれた白い間接照明が窓ガラスに光って、寂しげなボクの肩をぼんやりと浮かばせた。駅を降りてから暮れるまでが速く感じられた。

「宿泊ですか?」

「いや、あの。カギが見つかったんで、一応報告に」


 受付の女性は朝と変わっていた。「ああ、そうですか」と単調で素っ気ない返答をしただけで、手元の事務作業に取り掛かっていた。


 エレヴェータに乗っている間、ボクは不思議と今日一日の疲れが、全くと言っていいほど身体に現れていないことに驚いていた。確かに、一日中移動していただけで、これと言った観光もしなかった。せっかくの休暇が無駄に終わると考えると、少しだけ憂鬱や後悔が胸を差すが、それでも何か、心の底で縦横無尽に駆け回る達成感は、美しい景色にも勝る今日の戦利品だった。


 黒いキーホルダーのついたカギを右に回し、ノブを捻って中へ入ると、しみついた匂いが鼻に抜ける。それだけでなにか、心が落ち着くようなくつろぎを感じられた。

「おかえり」

 ベッドに倒れ込むようにして、ボクは目をつむって静かにほほえんだ。

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