遅い昼ごはん
夕方のスーパー。ボクの左ポケットの携帯がけたたましく鳴り響くと、ボストンバックを抱えた主婦の疎ましげな視線が、クーラーから押し出される冷気のように鋭くささる。瞬間、申し訳なさが胸いっぱいに広がって、けれどここまで並んだのだから、今さら電話を取るためだけに列をそれるわけにはいかないと、右腕の買い物かごをグッと肩に寄せ上げ、器用に左ポケットに手を滑り込ませると、ボクは携帯を耳に近づけた。
「やっぱり、バイトが入っちゃったから今週の日曜にしてくれない?八月は北海道に帰るから、来月の末になっちゃうし、それよりかはいいでしょう?」
「そうだね。キミがそれでいいならそうしようか」
「じゃあそれでお願いね。ワタシこれから部活があるから夜まで電話出れないから」
「わかった。また後で連絡するよ」
目の前でバーコードを読み終わった女店員の不愛想な顔をチラと眺め、「レジ袋一枚お願いします」と不気味な笑みをつくって軽く会釈すると、店員はボクに聞こえないくらいの小さなため息を漏らし、素早い手つきでカゴの商品を袋に詰めはじめる。ボクは切った携帯をポケットに入れなおし、財布を取り出して平静を装うが、いたたまれない気恥ずかしさはすぐさま底のほうから上がってきて、ボウっと全身から汗がにじんでくる。周囲に赤面を悟られないようにと、入れ終えたレジ袋を勢いよく掴むと、領収書も貰わずそそくさと出口へ駆け出した。
外は灼熱。七月とは思えない重苦しい空気だった。太陽はもう傾きかけていて、水色の空いっぱいにレモネードを垂らしたような日差しが、市民プールから帰ってきたばかりの、小学生の一群を積んだ市民バスを照らしこめる。去り際に重い塊のような排気ガスをごうごうと吐き出して、汗の浮かぶボクの首筋に不快な涼しさをもたらすと、ああ、今年もこの季節が来たのだなと、つぐつぐそう感じたままアスファルトを踏んでいった。
レジ袋を揺らしながらボクは初夏の熱気のまつわる肌を存分に陽に晒し、家へと向かっていた。浮き上がる汗が大きなしずくとなって、次第に服の裾をぐっしょりと濡らしたが、それでもスーパーを出た時に感じたあのこっぱずかしさはすっかり消えていて、ボクは足を前へ前へと進めて、息をハアハア吐いた。ようやくだ、ようやく彼女に会えるのだと、そう思っただけで高揚した気持ちは抜けず、汗にまみれた顔から不自然に笑みがこぼれた。ボクは言い知れぬエネルギーがほてった身体全体をゆっくりと旋回して、心地の良いそよ風に吹かれているような、うっとりとした気分に、目の前が横断歩道にもかかわらず、安からかな気持ちで目をつむると、一面闇の世界に自分だけの空想を思い描く。
ボクと彼女が出会ったのは半年前、彼女がSNSのメッセージ機能を使って、唐突にボクに話しかけてくれたことから始まった。当時高校三年生だったボクは、推薦で都内の大学へ進学が決まり、学校で暇を持て余していた。ボクの通っていた高校は県内でも中の上の、いわゆる自称進学校というやつだったから、クラスメイトの大半が国公立志望のガリ勉で、授業中も予備校の課題に励む「一般組」がほとんどだった。そのため文化祭を終えた時点で推薦合格の決まったボクは、学校中が入試を控えてピリピリと張り詰めた空気をかもしている中、ひとり不燃焼な、向かいどころのない熱意を抱え、半ば傍若無人に授業を抜け出しては、トイレの個室にこもってスマホゲームに熱中するしかなかったのだ。
その頃ボクのやっていたゲームは、過去数年と人気を博してきたビデオゲームを手軽にスマホでできるようにしたモバイル版のもので、一人称視点のプレイヤーである自分が、目の前に現れる敵、相手プレイヤーを銃で次々と倒していくといった、古典的な戦闘ゲームだった。まだ小学生だった頃の僕は、そのゲームのモバイル版が近年発表されるという噂を聞いた時、心臓がバきゅんと胸から飛び出るほど驚いて心躍ったものだった。ボクは三人兄弟の末っ子で、家のゲーム機は三つ上の兄が半ば独占的に使用していたから、ボクは幼少期から自分のやりたいゲームがどうしてもできなかった。そのため喫茶店や理容室に置いてある月刊誌の、新着ゲームの紹介ページを飽きるほど眺めては、まだ遠いクリスマスや誕生日プレゼントの候補を頭に浮かべ、自転車を新しくするか、ちまたで流行のゲームにするかと真剣に悩んだものだった。
そのゲームアプリがリリースされたのが、ちょうどボクの推薦合格が決まった次の週だったこともあり、ボクは高校生活が残り数か月しか残されていないにもかかわらず、日々飽きずにそのゲームにのめり込んでいったのだ。始めは興味本位の、退屈しのぎでやるはずだったものが、回数を重ねるうちに敵を倒すことが快感となり、気づけば時間も忘れるほど、画面にくぎ付けになっていることもしばしばだった。現実世界と見間違うほど精緻につくられた二次元のフィールドに、防衛陣営と攻撃陣営に分かれて行われる戦闘は、まるで自分が実際に戦っているかのように、激しい臨場感と興奮をボクにもたらした。ボクは前方から次々と現れる敵プレイヤーに銃の標準を合わせ、親指の射撃ボタンを押して胴体を撃ち抜いていく。鋭い銃声が耳を震わせ、はじけ飛んだ弾薬の火花が血しぶきとともに中心を染め上げると、ボクの指は次第に汗を浮かべ、上気した身体は緊張の糸に張り巡らされカチコチに、けれど妙に爽快な気分がいつまでも漂っているのだった。普段の生活では絶対に得ることのできない戦闘の気迫は、次第に暴力でしか得られない激しい快感の渦へと、ボクをいざなっていくのだった。
しかし、このボクの八年越しに燃え盛ったゲームへの情熱も、昨年をゆうに超える高気圧がもたらす寒波のごとく、突如として全身に吹きすさんだ風のように、十二月に入るとめっきり冷めてしまったのだ。期末テストが終わり、あと一週間で冬休みに入ろうという薄曇りの午前、ボクのゲームに対する炎はすっかり燃え尽きて、なにをするにも面倒くさく、億劫な気分がつきまとって、机に倒れ込むようにして授業を潰すことしかできなくなっていたのだ。教室では最後の追い込みに励むクラスメイトの必死にペンを走らせるカタカタという小音と、後ろで手を組みながら眠たげに教室を見回る学年主任の、シューズがフローリングに当たってぺたぺたと蛙が飛び跳ねたような間歇的な響きが、空一面をおおう厚ぼったい雲を通して、ボクの膨れ上がったように感じる脳の節々に、不快な音色となってこだまし続けていた。退屈さを波のように訪れる眠気で押し殺そうとも、目の前に広がる机の幾筋も伸びた木目と、モミの木をいぶしたような香ばしい北風の匂いが鼻を抜けて、意識はより鮮明にハッキリと冴え渡って、いよいよ寝付くことなどできなくなるのだった。
もしボクに友達のような、世間一般で言う自分と親しい間柄の存在を持っていれば、こんな場合後ろから堂々と近づいて、「よお」と小突き合って他愛なく時間を過ごせられるのだろうけれど、入学初日から他人と隔たりを作り、三年間もクラスメイトとの接触を避けてきたボクにとって、そう易々と心を開ける存在というもは、家族以外誰もいなかったのだ。
SNSをやり始めたのも、そうした孤独をなんとか紛らわせようとして、興味本位に入れてみたのがきっかけだった。ボクが夢中になっていたゲームアプリは、個人プレイと複数プレイのふたつのモードがあり、複雑でより戦略的な操作を求められる複数プレイは、最低でもチームを組める条件が二人となっていたため、現実に友達のいないボクはSNSを通じて、チームに入ってくれそうなプレイヤーを探していた。そして出会ったのが、ボクよりひとつ歳下の、宮城県仙台市に住む彼女だったというわけだ。
玄関の扉を勢いよく開けたその足で廊下へ進み、トイレの向かいにある堅固に閉ざされた寝室のノブを回すと、鍵の手を行った先、目の前に現れた父親の、無表情で眠たげな表情がすぐに目に入った。
「遅かったな」
「あっついね今日は。こんな日にエアコンをつけないなんてどうかしてるよ」
座布団の上で胡坐をかく父親の脇、うず高く積まれた新聞紙の束からリモコンを受け取ると、二十七度の冷房をすぐに入れた。
「氷、買えたか?」
「前の店になかったから橋の向こうまで行ったよ。ほら新しくできた小泉さんところ」
「それはご苦労」
ビニール袋の中身を床に広げ、一キロの氷と麦茶、それに薬味であるラッキョウと刻みネギのパックを見つめていた父は、リモコンを握ったまますぐにテレビの方へ視線を戻す。
「お腹、空いたか?もうやっちゃうけど」
「うん」
「じゃあそのバックから麺、取り出しちゃってよ。この番組が終わったらすぐ行くから」
「わかった」
ポケットに入った小銭を出そうかと迷ったが、再び大河ドラマに集中し始めた父を見て、ボクはリュックからそう麺の袋を取り出すと、買ってきたものとまとめてリビングへ持っていった。
鍋に入れた水が沸騰するのを待つ間、ボクは彼女のことを考えていた。初めてのデート、彼女はどんな服装でボクの前に現れるのだろうか。彼女の顔は写真でしか見たことがないけれど、柔らかそうな前髪がパらりとかかった瞳は透き通るように黒く、やや膨らんだ頬から顎にかけての緩やかな線は、その下で小さく浮かぶ花びらのような唇をより際立たせている。そんな愛嬌溢れる彼女の顔から想像できる服装は、自ずとボクの期待を最高潮に押し上げた。あの可憐で優しい眼を持つ彼女ならば、きっと夏らしい短いチェックスカートに、少し大きめのTシャツの袖を折って、リボンのついたハンドバックにウサギのホルダーを沢山入れてくるだろう。いつか話していた、学校の友達の間で流行っているウサギのマスコットホルダー、彼女はそれをとても気に入っているのだから。
沸騰したタイミングで麺のシールを剥がし、三束を順に入れていく。ボクが二束で父が一束だ。熱湯に浸かったそう麺は白い湯気に包まれ行方がわからなくなるほど水中でうごめく。菜箸でゆっくりとかき混ぜ、浮かび上がる灰汁をお玉で取っていると、いつのまにか台所に来ていた父が換気扇のスイッチを押し、調理台に重い木箱を置いた。
「冷やさなくてよかったかなあ」
「氷を入れれば大丈夫でしょ。そのために買ってきたんだから」
クッション材の中から重い瓶を持ち上げ、興味深げに「本格だし」と書かれたラベルを見ていた父は、再び沸騰した音に気がつくと「このくらいでいいだろう」と言って火を消し、麺をざるにあげた。
「つゆ、これくらい入れてもいい?」
「うん。そうだな。少し入れて味見して、濃そうだったら水を足そう」
「でも、氷が解けたら薄まるよ」
「じゃあ多めに入れておこう。薬味と山葵もこっちにくれ」
ゆっくりと麺をほぐす父の指を眺め、ボクは父が台所に立つ姿など、ここ最近見たことがなかったなとその時思った。ボクがまだ生まれたばかりの頃は、よく家で料理したものだと、父は思いだすかのように語りかけたことがあったが、今目の前で麺の水を切っている姿は、およそ料理をしていた人の手つきとは思えない、ひどくぎこちなく、見ていてもどかしくなるようなものだったから、ボクは横からざるを奪うようにして取ると、三回素早く水洗いして皿に盛りつけた。
リビングの食卓机の真ん中に皿を置き、「洗い物が少ない方がいいから」と割り箸を二本持ってきた父は、高級麺つゆの瓶をその脇に置いて手を合わせた。
「いただきます」
「いただきます」
そう麺は水を吸ってやや柔らかくなっていたけれど、父が会社の同僚から貰って来たという、デパートでも中々買うことのできない高級麺つゆは、かつお節の奥からほのかにゴマの風味がして、噛めば噛むほどその出汁がそう麺のさっぱりした味わいにちょうど良くマッチして、気がつけば皿に盛った麺は半分に減っていた。
「前にテレビで紹介してから一気に売れて、今はもう何か月と待たないと取り寄せができないんだって」
「何か月って……そう麺は夏しか食べないのに」
「そうでもないぞ。地域によって秋や冬になっても食べるところだってあるし、つゆは調味料としても使えるから、意外と便利なんだ」
一束分平らげた父は箸をおくと、テレビをつけて順番にチャンネルを替えていった。平日の夕方はどのテレビ局もニュース番組ばかりで、一周見終えた父はそのまま録画リストに移り、それも終わるとBS、CSと、まるで初めてテレビを手にしたような具合にじっくりと、けれど顔を上げればいつもの、殺風景で退屈な表情で画面に視線を向けているだけで、眠たげな眼は一向に変わらなかった。
母親が家を去ってから、父がリビングにくることが増えていた。それまでリビングに面したボクと母の部屋から逃れるように、父は玄関から近い自分の部屋に閉じこもって、夜遅く帰宅しても決してリビングに出てくることはなかった。それはボクがまだ小さい頃、母と諍いが起きてからずっと続いていたことであり、何も知らない当時のボクは、なぜ仕事のない休日まで、父が部屋から出てこないのかと不思議に思い、何度も母にそのことを尋ねたが、母は冷たい表情で、いつもの味気ない言葉しか返してくれなかった。
「知らないわよそんなこと。何か変な事でもしてるんじゃないの」
中学校に上がってから、試験勉強のため夜中近くまで起きていることが多くなると、時おりドアの向こうから、真剣な口調で会話をする両親の声が聞こえてくるようになった。それはようやく社会に対して関心を示す年齢になったボクには刺激的で、一種の興味を注がれる夫婦のリアルな会話だったけれど、それでも声を荒げず淡々とした口調で話す両親の、その今にも押しつぶされそうな抑揚のない冷たいトーンは、夫婦の関係があまり上手く行っていないことをボクに悟らせるには充分だった。
ボクは母に、父の寝室には絶対に入ってはいけないと常に言い聞かせられていた。そのせいもあって、ボクは毎日トイレに行くと言っては、その正面にしっかりと扉を閉ざしている父の寝室が、何かとてつもない財宝を秘めた隠れ家のようなものに感じられて、部屋の中について取り留めない空想に耽ったものだった。
ある日、母が急用で叔母の家に行かなければならなくなったことがあった。ボクはベッドに寝転がり、携帯をいじりながら母の帰りを待っていた。家を出る前、食事代として五千円を渡されていたから、ボクはその晩なにを食べようかと、ワクワクした気持ちを抑えきれず、シーツにくるまったままゴロゴロと時間を過ごしていた。
ベランダに薄く西日が差し始めてきた頃、トイレを済ませて洗面所で手を洗っていたボクは、不意に斜め向かいにある、閉ざされた扉のことが頭に浮かんで、何となく心に黒い渦を抱えているような気分になった。幼少期から絶対に入ってはいけないと言われた父の寝室、帰宅するといつも闇の中に吸い込まれていくように、厚い扉の内側へ入っていく父の、あの決して陽を差さない陰った表情が、その時ボクの脳裏に鮮明に浮かび上がってきて、ボクはいけないとわかっていながらも、右腕がひとりでに真鍮のレバーにかかり、それを回していたのだ。
扉を開けると、初めて体内に吸い込む整髪料の甘い香りと、タバコの喉にまとわりつく苦い空気が顔一面に押し寄せて、ボクは足を踏み出した時、リビングへ引き返そうかとためらうほど大きなめまいがしたことを覚えている。そのまま鍵の手のようになったクローゼットを曲がり、スーツやジャケットが大量にかかったハンガーラックと大きな本棚に挟まれたわずかなスペースを進んで、少し広くなった部屋の突き当たりに、閉ざされたカーテンの隅、柱に寄りかかるようにして布団とシーツが丁寧に畳まれたスーペースで立ち止まった。
足の短い卓袱台と、横のカゴには沢山のお菓子とカップ麺、小棚には溢れるようにCDと書類を挟んだファイルがこちらをのぞいている。床にそのまま足を突く液晶テレビは、リサイクルショップで買ったのか、リビングにあるものより型が古く、縁に埃がこんもり溜まっている。壁に架かったカレンダーには〇や×、何やら暗号めいた文字がマジックで塗りつぶされ、その下に重そうなゴルフカバンがヘッドをもたげてタンスに寄りかかっている。
まずボクが食いついたものは、卓袱台の横にある大量のお菓子だった。スナック菓子の入ったカゴには、一日では到底食べきれない量のポテトチップスが満載されていて、その横に整列しているチョコ菓子の箱は、口の開いて食べかけているものがいくつもあった。ボクは夢中でお菓子を手に取って食べ始めた。いつも母が買ってくるおやつや、お小遣いで買ったものよりも、それらは格段に美味しかった。卓袱台の上に置いてある飲みかけのコーヒーですら、普段よりも苦みを感じずにごくごくと限りなく飲めるような気がした。
お腹の満たされたボクが次にしたことと言えば、その横で威厳を示している重厚な本棚を漁ることだった。もとよりボクはあまり読書が好きなほうではなく、また本屋や近所の図書館へ行くような穏やかな性格ではなかったから、はじめその本棚を見上げた時、その見事な木彫りの造りに驚いて、ただガラスの外側からしげしげと眺めていただけだった。けれど、数十分ぼんやりと光の反射を眺めていると、次第にその中にある色とりどりの背表紙がくっきりと、その太文字の題名に込められたメッセージを含んでボクにうったえかけてきたのだ。ボクはガラスケースを引くと、目の前で輝きを放っている本を何冊と抜いては、その表紙に描かれた様々な装画やデザイン、挿絵などを床に開いて、とりとめない空想にふけって時間を過ごした。本棚に収められた書籍はどれも小説ばかりで、それは中に絵のない退屈なものだったけれど、下段の方に行くと観光ガイドや野鳥の本、それにボクの読んだことのないマンガの数々(つげ義春や横山光輝など)何やら奇妙な構造で描かれたデザインの入門書らしきものまでが現れて、ボクは飽きずにパラパラとページをめくり続けた。そうしていると、父は色々な本を読んでいるということがわかって、それまで幼少期から抱き続けてきた父の、そのわからなかった実情が、わずかながら浮かんでくるような気がして、ボクは父の一度読んだであろう書籍を繰っては、その中に眠っていた臭気、身を潜めて寝室に閉じ籠っていた父と繋がっているような気持ちになり、身体の底がじんわりと火照ってくるような恥ずかしさを感じた。
あらかたの書籍をひっくり返し、最後の観光書を棚に戻していると、下段のもうひとつ下に取っ手の付いた引き出しがあることがわかった。それは床に置かれたキャンプ用品と紛れて手が届きにくい位置にあり、ボクは膝をついて腕を滑り込ませ取っ手を引くと、手探りでその中にあるものを引っ張るようにして持ち上げた。
手に握られたものは二つあって、ひとつは厚い表紙の張られたノート、もうひとつは何やらいびつな形をした細長い置き物だった。ボクはノートを床に置くと、もう片方の手でそのいびつな置き物を仔細に眺めた。それはピンク色の、ゴムの素材でできた柔らかいもので、持ちやすくされた太い柄の部分と、先っぽが内側に少しだけ曲がった棒状の部分とにわかれていた。こんなもの、父は何のために買ったのだろうか。一見すると、子供のおもちゃにも見えなくないその置き物を、ボクは持ち手を変えて色々な角度から眺めたり、鼻に近づけて匂いを嗅いだりして用途を探ってみたが、やはりオブジェはオブジェでしかなく、退屈を感じたボクはそれを布団に放り投げ、床に置いたままだったノートを開いた。
中を覗いた瞬間、ボクは顔じゅうが燃えるように熱くなるのを感じて、すぐさまページを閉じた。そしてたちまち、身体中の血がサアっと引いていくような恐怖、焦燥感に表紙から顔をそらして生唾を飲んだ。罫線を無視するように伸びた鉛筆の細い線、それが垂直に伸びきらず、山のように盛り上がって再び流れていくその経過。細い首筋から肩のなだらかな線が、その下で豊かに膨れている女の乳房を克明に映し出していた。
玄関のインターホンがけたたましくリビングに鳴り響いていた。ボクは縮ませた身体を勢いよく起こし部屋から飛び出していた。父が帰ってきたのだ。寝室を出たその足でインターホンを覗き、郵便局の配達員だとわかるとホッとしてスイッチを切り、玄関へ向かった。
母親宛の郵便物を食卓机に置き、自室へ戻ろうと振り向きかけた時、机に置かれた一冊のノートの存在を思い出して再び息を飲んだ。驚いて寝室から持ち出してしまった父のノート。黒く汚れた表紙は机の上に溶け込んで、家計簿のように見える。ボクはノートに手を伸ばし、今度はゆっくりと、目に焼き付けるようにそこに描かれている女性の身体を眺めた。何ページにもわたって描かれた女性のデッサンは、ひとつひとつが微妙に角度や表情、影のつけ方が違っていて、けれど確かにひとりの女性を描いたことがはっきりとわかる特徴をその瞳に含ませていた。
ボクはページをめくりながら、ゆっくりとなにかが芽生えていくのを感じていた。それは常日頃、ボクを大切に扱ってくれる母の存在が大きく膨れ上がって、すぐにでも破裂してしまいそうな危険をはらんだものだった。ボクは泣きたいくらい悲しい気持ちになってノートを閉じた。すると母に対して申し訳ないという気持ちが、次第に父に対する怒り、言いようのない激しい嫌悪となってボクの身体を震わせた。ボクはまだ目の裏に女性のヌードがハッキリと映るなか、勢いよくノートを机に叩きつけると、力いっぱいそれを破り裂いた。背表紙から外れた紙はバラバラになり、粉々になった女性の脚や腕が床に落ちた。
「やっぱり、高いやつは違うなあ」
ハッと目を覚ますように顔を上げると、麺つゆの瓶を優しく撫でる父の顔がすぐ前にあった。
「今までいろんなところでそう麺食べてきたけど、このつゆほど濃厚な味わいは他にはなかったなあ」
「うん」
「何年か前に滋賀県に行った時のこと、覚えてるかあ」
「うん」
「昼時に彦根城の近くの喫茶店に入っただろう?」
「そうだっけ」
「ああ、確かそうだったはずだよ」
「そっか」
「うん。それでオマエがエビフライ定食、母さんが天丼、オレが鉄火丼を食べたんだ」
「庭に大きい鯉がいたところでしょ?」
「ああそうだそうだ。玄関にキレイな手水鉢があって、アメンボがいたのも覚えてるか?」
「なんとなくね」
父は懐かしそうにほほ笑んでいた。昔のことなんか思い出して、何かがそんなにおもしろいのだろうかと、つい口に出してしまいたくなる気持ちを何とか抑えて、ボクは最後のそう麺をすすった。
「昼飯が済んだ後、店の庭を囲うように竹の筒が伸びていてさ、そこで流しそう麺をしただろう?あの時に出された麺つゆがさあ、ものすっごく美味しくて。あれを超えるものはもうこの世にないだろうって、そう思ったんだ」
「そうだっけ」
「なんだよ、忘れたのかあ?こーーんなに長い竹がずっと続いていて、オマエも一緒に並んでたじゃないか」
父は腕を大きく広げて笑っていたけれど、ボクはその姿を直視することができなかった。小三の夏休みに家族で行った彦根城。その昼食で食べたエビフライもそう麺も、今もしっかりと舌の感触を思い出すことができるほど、鮮明に夏の想い出として頭に刻まれているのだけれど、ボクはなぜだかその記憶を掘り返してみる気分になれなくて、麺の切れはしがわずかに残っている大皿をただ眺めていることしかできなかった。
父を目の前にして話したいことは山ほどあったけれど、いざ向かい合ってみると、なかなか思ったことを口にすることは難しく、ボクはしばらくそうしてテレビを見続ける父の前で黙って大皿に視線を注ぎつづけていた。クーラーの心地よい送風が、熱くもないのに湧き出た汗をさらって上へと押し上げていった。
「あのさ」
「なんだあ」
「うん……」
「なんだよ」
「デートって、どんなことをすればいいと思う?」
その時、ボクと父の視線が初めて合った。さっきまで笑みを浮かべていた父の顔は西日を受けて白く浮かび上がり、日焼けした顔に一瞬だけ歓喜の波が浮かんだように見えた。
「難しい質問だな」
「そうかなあ」
「これが正解、ってものが存在しないからね。ただ相手を喜ばせることをする。それだけさ」
「喜ばせること?」
「そうだ」
「例えば?」
「うーん」
父は腕を組んでしばらく唸っていたが、ボクの方へ顔を向きなおすと、照れ臭そうに笑って
「昔のことだから忘れちゃったよ」
白い歯をのぞかせた父が、ボクの心臓の奥をキュッと摘まんでなかなか放そうとしなかった。ボクは沈んだ表情を見られないように、うつむいたまま席を立つと、「ごちそうさま」と言って父のお椀を皿に載せて流しへと運んだ。