ワスレナグサ
1
彼の生まれ育った勅使河原市というところは、岐阜県の南側に位置するさして大きくもない町だった。美濃市と関市に挟まれるかたちで細長く所在した土地の、その大半が畑地と山林で、鉢守山を水源とした木曽川が町の東から西にかけて流れていた。北にそびえる低山の連なりは「勅使河原アルプス」と称されて登山家に広く知られていた。と言っても、町自体はそれほど有名というわけではなく、人口も岐阜県で六番目の小都市で、全国的に見てもこれといって有名な場所はなかったから、市民は騒々しい観光客の干渉を受けずに、清澄な自然に囲まれて穏やかに、楽しく暮らしていた。唯一自慢になりそうなものといえば、市の縦横を流れる新羽川で、アルプスの北側から降り注ぐようにして、本流の木曽川へと合流するのだが、その川岸に植えられた何千本もの吉野桜が、春になると一斉に花を咲かせ、満開の頃になるとそれはもう圧巻で、市外からも多くの観光客が訪れて、その時ばかりは賑やかな盛り上がりを見せていた。
彼はそんな自然豊かな場所で奔放に、すくすくと育った。自衛隊の基地のある勅使河原台地の下に生まれ、この十六年間、なに不自由なく暮らしてきた。勅使河原で採れる食べ物はみな新鮮で美味しく、空気はどこまでも透きとおって、周りの人々は優しかった。彼は自分が周りの環境に恵まれていると、つくづくそう感じていた。地震や大雨など、大きな災害が起きると、隣近所の住民が一体となり、老若男女構わず誰もが手を取り合って助け合って、花見や夏祭りの頃には、普段の落ち着いた真面目な雰囲気からは到底想像もつかないほど、町全体が活気づき、華やかな彩を見せていた。そんなほほえましい町の姿が、彼のまだ物心の付かない時分から自然と清流の如く根幹に流れて、現在の頑丈で立派な身体を成したと言っても、なんら大げさなことではなかった。
だから、彼が地元を離れ、都会の大学へ進学すると言った時、彼の家族だけはでなく、友人、知人、親戚、近所の住民までもが驚いて、しばらくその話題で持ちきりだった。
特に中学校から五年間同じクラスで、一番親しくしてきた友人のひとりは、彼からその話を聞かせられた時、元から大きい眼をいっそう見開いて、愕然としていた。
「上京するって、そりゃあまたドえらいこと考えたなあ」
「実は二年の進路調査の時からちょっと考えていたんだ。大垣の大学も、みんながいて楽しそうやけど、オレはやっぱり都会へ出てみたい。行ってどんな場所なのか感じてみたいんや」
「就職はどうするんよ。あっちの会社に勤めるなんてことになったら、俺らとは当分会えないぜ」
「なあにそう悲観するなって。大学は四年もあるんや、その間におまえらと会うことだってできるだろう。オレはただ都会の生活ってものを体験してみたいだけなんや。東京は俺たちの見たこともないようなもんで溢れている。人も文化も食べ物も、あらゆるものが最先端。驚くぞー、そんな場所で四年も生活したら、今のオレの小さい世界はどうなるのか。それが知りたくてあっち行くんだ」
彼が本格的に自分の進路について考えだしたのは中学三年の春。全国に蔓延した新型コロナウィルスの影響で学校が休校になった頃、ふと思いついた突発的なものだった。それ以前の彼は普通の、他のクラスメイトらと変わらない将来を漠然と描いていた。地元の高校、大学に進学し、町の企業に就職して、時期がきたら結婚、マイホーム、そして子供……彼は生まれ育った町で暮らしていくことに、少しも不審や不満を抱いていなかった。むしろ人一倍地元に愛着を持っていて、この地を離れるなど想像すらしていなかった。
けれどコロナが広がり、全国に緊急事態宣言がなされ、不要不急の外出を禁じられた時、彼の気持ちは大きく傾いていた。連日放送されるパンデミックの、その驚異的な広がりと危険性を伝えるテレビの声は、家にいる彼の耳にいつまで残り続けて、家族の話題もそれで持ちきりだった。それは普段から近所付き合いが深いぶん、身内の誰かが感染したとなると、噂が風のように広がって、後ろ指を指されるようになると、誰もが想像ができたから、彼もその辺りには敏感にならざるを得なかった。自分だけが感染するのならまだいい、しかし市役所に勤める父親や、工場勤務の兄にまで移すとなると……そう思うだけで彼はぞっとして手を洗いに洗面所へ走るのだった。日に日に増す感染者の数と、ひっ迫する現場の状態を伝えるアナウンサーの深刻な表情は、彼の目に焼き付いて放れなかった。いつしか彼は自分の部屋から出れなくなっていた。決して家族に迷惑をかけてはならないと強く思った。彼は家族と会話することを極端に避け、どんな場合でもマスクを外さず、一日のほとんどをベッドの上で過ごすようになった。そうしていると、全てが閉ざされ、感情が内へ内へと沈んで、何もしていないのに疲れを覚えるようなった。
けれどそんな生活が長く続くはずはなく、二週間後、彼は身体の不調を母親に訴え、病院で検査をすることになった。ついに自分もコロナになったのだと彼は身構えたが、結果は陰性、身体に悪いところはどこも見当たらなかった。彼はホッと胸を撫でおろしたが、底に潜み続ける不安と居心地の悪さには、もう耐えることは難しかった。
自粛期間中ほとんど部屋からでなかったせいか、彼は一種の神経衰弱に陥っていたのだ。
そのため何をするにも億劫になり、些細なことでイライラすることが増え、常に空虚な、負の感情が付きまとって消えなくなっていた。こんな生活がいつまで続くのだろかという、見えない不安がぼんやりと頭の中にあって、それが部屋の中にいる限り膨らむばかりだった。ひとり考える時間だけが増え、その度に彼は疲れた自然を窓の外に広がる現実、目には見えないが着実に変化しつつある世の中へ向けるのだった。早く外へ出たい。クラスのみんなに会いたいと、そんなことばかり頭に浮かんできて、次第に彼は、このままこの部屋から出られなくなってしまうのではないか、この町で一生を終えるのではないかという、漠然とした心細さに行き当たった。その時はじめて、彼は身体に電気が走ったようにベッドから飛び上がると、何の脈絡もなく「東京へ行こう」と思い立っていたのだ。
彼の頭に浮かんだのは、未だかつて見たこともない都会の風景―地上にも地下にも電車が走り、高層ビルが何棟も連なるオフィス街には、最新の技術を駆使したテーマパークや流行の食べ物、田舎には存在しないトレンドの雑貨がいくつも並ぶ、大都市東京の街並みだったのだ。
高校二年生に上がった時、担任に上京したい旨を伝えると、まだ二十代の色白の担任は、驚いた顔でしばらく固まって、なかなか口を開こうとしなかった。そんなに珍しいことなのかと、不思議な面持ちでしばらく立っていると、担任はごめん、ごめんと苦笑して、ようやく重い口を開いた。なんでも、二年前にこの高校から初めて東京の大学に進学した者がいたらしく、その生徒は成績優秀、無遅刻無欠席、体育祭では応援団長を務める器量を持ちながら、クラスメイトのみならず、学年を超えて教員生徒から慕われていた、まさにヒーローのような生徒だったというのだ。三年時に受け持っていた担任は、東京に出たいという彼の要望を快く受け入れ、難関校ではないけれど、着実に知名度を上げつつある私立大学が、来年新しい学部を目黒に構えるので、そこにしてみないかと彼に提案したのである。
担任はそこまで話すと、彼に聞こえないくらい小さなため息を漏らし、純粋に光るその目を覗いた。担任は難しい表情で、小じわを額に寄せたまま、息をはくように再び語りだした。なんでも、その生徒は上京してから一度もこの勅使河原に帰ったことがなく、二年前から消息がわからなくなっているというのだ。なんでも、彼が卒業した時、既にコロナが全国的に広まっていて、ひとりで上京した彼は、下宿先でリモート授業を受ける毎日を送っていた。しかしそれから二か月経ったある時から、彼から連絡の一切が途絶えたというのだ。しかも、元担任である先生はもちろん、両親、兄弟、友人、誰からも連絡を取ることができないというのだ。両親が入居していたアパートに問い合わせてみると、彼の住んでいた部屋は随分前に引き払われていて、大家も彼の消息はわからないようだった。
それでも毎月の仕送りと、携帯会社からの引き落としがされていることは確かなようで、彼の入学した文学部哲学科に籍が置かれたままだということも確認することができた。それを聞いた両親はひとまず安心し、義縁したわけではないのだから、そのうち帰ってくるだろう、しばらく彼の好きなようにさせておこうと、首を長くして待つことに決めたと言う。
彼は話を聞き終えると、ぜひその先輩に会って話を聞いてみたいと担任に懇願した。周りに上京した人間はおらず、また親類知人と一切連絡を取らずに東京で生活しているその男に興味が湧いたのだ。担任は困ったような表情をした後、携帯から二年前に交わしたきりの会話履歴を見せ、望みは薄いが請け負うよといって苦笑していた。
それから一週間後の中間テスト終わりに、彼は再び担任に呼ばれた。直前に出された追加課題の提出を遅れていた彼は、それについて怒られるとばかり思って身構えていたところ、担任はいつになく上機嫌で、心なしかはしゃいでいるように見えた。
「取れたよ。羽本慶吉とアポが」
2
その年の夏、ボクは電車を乗り継いで羽本先輩のいる横浜市の関内駅に降り立っていた。あれからボクは羽本先輩のことについて、担任の柴崎先生からいろいろなことを聞かされた。羽本先輩はコロナ化の時に携帯電話を失くして、しばらく連絡が取れなかったこと、東京の大学は休学中で今は横浜で仕事をしているということ、その他沢山のことを先輩は話したようだった。その中で先輩は、上京を検討しているボクに東京を案内してやるといって、今年の夏季休暇にこっちへ来るよう言ったというのだ。
先生からそのことを伝えられた時、ボクは驚きよりも嬉しさが先に込み上げて、身体が自然と震えるのを感じていた。スマホの中でしか見たことのなかった東京に、初めて訪れることができるという感動は、それだけでもう生きてきた甲斐があったというくらい、心の中が湧きたつような気分だった。先生がまとめてくれた日程によると、四日間のうち、初日と二日目は先輩の住む横浜を廻り、東京には三日目と最終日に行くことになっていた。話を聞かされた時から落ち着かず、ソワソワした気分が付きまとって、実感の湧かないまま夏休みに突入し、興奮冷めやらぬまま出発当日を迎えたボクは、昨晩あまり眠れなかったにもかかわらず、初めて乗る新幹線の、その窓から流れるように映し出される都会の景色に引き込まれていた。森や畑地を抜け、高層ビルや看板広告が目立つようになってくると、映画の中にでも入ったみたいにパッと色合いが変わり、道や橋や車や人間が、複雑な街並み全てが輝かしく映っていた。いつまでもそこから視線を放さずにいたいと思った。新横浜で私鉄に乗り換え、時間通り指定された関内駅で降りると、ボクは先輩を探した。平日の昼間ということもあって、駅前でもあまり人の出は感じられず、改札の先に広がっていた小さなロータリーの隅に、ゼラニウムやチューリップの植わった花壇があって、そこに昼休みらしきサラリーマンが通り過ぎていく。ボクが通りの方へ進もうと足を速めた時、写真ボックスの前で屈みこみ、熱心に携帯をいじっていた男が、腰を上げてゆっくりとこちらに近づいてくる気配がした。
「こんちは」
ボクはとっさに振り返って頭を下げていた。羽本先輩は思っていたよりがっしりとして骨太な身体だった。タンクトップから伸びた二の腕は運動部のように黒く焼けていて、ハーフパンツの下に白いソックスが見えた。威圧感のある様相と裏腹に、繰り出す言葉は淡々とあっさりしていて、声が小さい。ただでさえ都会で騒がしいと言うのに、こうもぼそぼそと喋られては何も聞こえないと、思わずそう口走りたくなるほど、口を動かさずに喉だけで話している感じだった。柴崎先生からは朗らかな性格で、誰からも親しまれる優等生だと聞かされていたばっかりに、ボクは今目の前に立っているこの男を、即座に羽本先輩だと思うことができなかった。きりっとして太い眉と堅そうな口元は大体想像通りだけれど、感情を失くしたような大きな瞳は、落ち着かないのか焦点が定まらず、瞬きも多い。気難しい目元の割に、唇は割合穏やかで、小さくほほ笑んでいるようにも思える。耳元を隠すように伸びきった頭髪は、ノーセットのぼさぼさで、もみあげと繋がったあご髭が薄く顔全体を囲う様子は、大学生というより現場労働者のような感じだった。
お互いに簡単な自己紹介を済ませて、ボクが「今日からよろしくお願いします」ともう一度深く頭を下げた時、先輩はポケットからアメスピを一本取り出して、表情ひとつ変えず気持ちよく煙を吸っていた。都会の熱い日差しを浴びながら、五分ほどそうしてぼんやりたたずんでいた先輩は、落とした吸い殻を爪先で踏み消すと、
「まずは飯だな」
と言って飲食店の並ぶ大通りへ勝手に進んでいった。
横浜の夏―午後の日差しを存分に照り返す駅ビルは、澄み切った青空を突き刺すようにどこまでも伸びて、網の目のように広がる路地にまだらな影を落としていた。熱を押しつぶしたような風が首すじに流れる。信号が青に変わると、ダムから放たれる水流みたいに、通行人が勢いよく真っ黒なアスファルトを踏みしめていく。それぞれが目的の場所へ静かに散っていく。聞こえるのは不揃いな足音と、看板広告の女性の声、すぐそこに自動車の走行音が続き、また違う人間が道には現れる。ボクは先輩の大きな背につきながら、人とガスと熱の混じった重い空気に触れて、都会の町がこれほどにも機械的なことに驚いていた。細い道を通る時、前から人がやってきても、目も合わさずにそれを交わし、ティッシュ配りのバイトにティッシュを進められても、表情一つ変えず平然と通り過ぎることができる。貰わないにしても、ちょっとは申し訳なさそうにしてくれと、こっちが心配になるくらい、羽本先輩はずんずん先へ進んでいく。都会の人は歩くペースが速いと先生は言っていたけど、速いというよりせっかちなだけな気がして少し可笑しかった。
先輩の下宿先は駅から二キロ離れた住宅地にある一軒家だった。駅前のそば屋で昼食を済ませたボクたちは、これからお世話になる先輩の下宿先へと向かっていた。首都高の伸びる方角へ真っ直ぐ歩いていると、KFCやマックなどの一階に飲食店を構える貸家ビルが並ぶ通りに出、それを過ぎるとマンションやアパートの続く細い路地に行き当たり、更に入り組んだ道へ進むと前方に橋が見えてきた。もうそこまで行くと駅前とは見違えるように景色が変わり、マンションよりも一軒家やアパートが目立つ住宅地に入っていた。先輩は躊躇なく橋を渡っていく。コンクリートの古い橋は手すりに鳩のフンがびっしりついていた。
下を覗くと、一面が真っ黒だった。それが川かどうかもわからないほど水面が汚れている。コンクリートの壁が厚いわりに、漂っている水の量は少なく、一面に白い膜のようなものがかかって、底の方へ見えなかった。日ごろから地元の清流に慣れ親しんでいるボクには、その人工的につくられた川が、巨大な工場の排水溝にしか思えなかった。先輩は橋の真ん中までくると、「あそこを真っすぐ行った角だ」と言って川沿いの道を歩きだす。川の直上に首都高が走っているため全体は薄暗く、駅前と違って人の気配もない、なんだか不気味なところだった。
「このあたりは家ばっかりですね」
静かな住宅地を歩きながら、ボクはふとそんなことを口にしていた。先輩は「そうかなあ」と判然としない返事をして表情ひとつ変えず、ちっともこちらのペースに合わせようとしない。何かを追うようにひたすら前へ進む。
「年々人口が増えてるんだよ。上京してくる人が多いから。この辺も昔は一軒家ばかりだったみたいだけど、マンションやアパートがどんどん建つようになって……」
「そんなに住み心地がいいんですか?」
先輩は足を止めてボクを見た。表情は変わらないのに、瞳だけはさっきよりも澄んでいて、何か言いたげに首を何度も傾げていた。
「良くも悪くもないかな」
「ボクたちの町よりはいいでしょう。ちょっと歩けば駅に着くし、自販機もコンビニも至るところにあるし、東京も近いんだから、流行りのものだってすぐ買えますよね」
「まあそうだな」
「最高じゃないですか。そりゃあ人も増えるわ」
先輩は何か引っかかっているのか、煮え切らない感じでまた何度も首を傾げていたが、言葉にするのが難しいと悟ったのか、しばらくするとまたスタスタと歩き出した。その何だか曖昧で不鮮明な返答が、ボクには不思議だった。思えば先輩はどうして大学を休んで横浜で暮らしているのだろうか。念願の上京が叶い、東京の大学に進学した先輩は、それから二か月後、勝手に下宿を飛び出して、華やかなでもなんでもない、住居がひしめくこの地に引っ越して、仕事をしながら暮らしている。陽の辺る場所がわずかな、細い通りに立ち並んだ殺風景な町で暮らしているのだ。篠崎先生の伝言が本当なら、先輩は仕事をするために休学したと言っていたが、それならば何もこんな、ゴチャゴチャとして色味のない場所じゃなくてもいいのにとその時ボクは思った。それこそ、なんでも揃っている東京や、ボクらの故郷である勅使河原でもいいのに。先輩はなぜこの地を選んだのだろうか。信号の先に小さな保育園の柵が見え、その横に市民センターの入り口を指す看板が、蔓の長い向日葵に囲まれて、恥かしそうに刺さっていた。
川の合流するところに路地と大通りを繋ぐ大きな十字路があって、先輩の下宿先はその角にあった。トタン造りの二階屋が道沿いに並び『北森工業』という年季の入った銀文字が入口の高い場所にかかっていた。先輩はちょっとそこで待っていろとボソッと言って、ガレージのようになった奥へ入っていった。シャッターの半分開いた入口から薄暗い室内が見え、冷房が付いていないのかどんよりと肌にまとわりつく熱気が、工場特有の油臭い匂いとともに感じられた。
もしかすると、先輩の働いている場所はここなのではないだろうか。『北森工業』と看板に書いてあったから、何かを作ったり、組み立てたりする仕事なのだろう。ボクはがっしりとした体格の先輩が、厚い作業着を着て金属の加工や溶接などをしている風景を思い浮かべ、案外似合うのかもしれないと、自然に笑みをうかべていると、頬に汗を浮かべた先輩が中から出てきて、
「部屋は二階だ。ちょっと狭いけど、まあ我慢してくれ」
中は見た目よりもだいぶ広かった。昔の家の造りは間口が狭く、中は広いと言ったものだが、まさにそんな感じだった。一階は仕事場になっているようで、土埃が機具の上に舞っていた。天井に吊るされた電球はどれも消えたままで、採光窓から差し込む光の勢いもなく、昼間だと言うのにひどく薄暗い。先輩は見たこともないような油臭い機械を何台もすり抜けていく。昨日一昨日まで使われていたとは到底思えない、年季の入った古いものが幾台も並び、その左側に大きな鉄板の机があって、ハンマーやトンカチなどの工具が隅に寄せられていた。
作業所の奥にガラスの引き戸があって、そこから先は完全な住居だった。一段床の高くなった室内にはしっかりと空調が行き届いていて、上がったすぐ先に小さい食卓机と椅子が並ぶ居間が控えていた。台所のほうで作業をしていた赤毛のパーマのおばあさんが、ボクの存在に気がついて丁寧にお辞儀をしてくれた。この家の主人なのだろう。ボクは今日からよろしくお願いしますと、いつもより改まった口調で頭を下げ、急いで二階へ上がっていく先輩の背を追った。
二階は三部屋あって、右側に二つと、突き当りを曲がったところに一つだった。先輩の部屋は突き当りのほうで、襖を開けてすぐに目に飛び込んでくるのは六畳のキレイな畳で、その次に足の低い机、ゴミ箱。押し入れの横にクローゼットがあり、その向かいに木製の本棚が二段と、隅に入りきらなかった文庫本が山のように積まれていた。先輩は部屋を見渡して、取りあえずここでいいかと、ボクのキャリーバッグを机の隣に置いた。
「ボクもここで寝るんですか?」
「一応そういうことになっているんだが、もしかしたら隣が空くかもしれない」
眉をひそめて何かを思案していた先輩は、ちょっとそこで待っていろとボクに言って、静かに階段を下りていった。さっきのおばさんに談判しにいくのだろう。段を踏むごとに軋む板の音が、思いの外家全体をギシギシと揺らし、その音が少しだけ懐かしかった。部屋に取り残されたボクは、やることもないので畳の上で胡坐になり、先輩のいなくなった部屋をぼんやりと見渡した。
最初に目についたのは本棚だった。頑丈な木製の棚に収められた本は、どれも難しそうな昔のものばかりで、夏目漱石の『彼岸過迄』徳田秋声の『黴』谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』といったものが、律儀に名前順に並べられていた。ボクも本はよく読むほうだけれど、それでも知らない作者の名が多くて、先輩はよほど小説が好きなのだろうと、『北村透谷』と書かれた重厚な本を抜き取って、パラパラとページをめくった。そういえば先輩は大学で哲学を専攻していたんだっけ、高校時代も社会科選択で倫理を選んでいたと言っていたから、やっぱり思想とか、そういうものに元から興味があったのだろう。
文学部と言っても、ボクはその学部が、具体的に何を学ぶところなのかよく知らなかった。ボクは高校で文系科目を選択していたけれど、志望する大学は英語を学べる国際系か、将来役に立ちそうな商業系の学部で、哲学や地理に対する知識に乏しかった。クラスの中でも文学部を志望する生徒は殆どいなく、隣のクラスの女性生徒が心理学科を目指しているという話を小耳にはさんだくらいで、それ以外のことはわからなかった。
だからボクは、なぜ先輩が文学部を志望したのか、その理由を聞いてみたかった。柴崎先生は、合格する可能性が一番高い学部に出願したと言っていたが、先輩のような人がそんな理由だけであっさりと学部を決めるわけがないし、今、目の前にそびえる本の山を見れば、先輩がかなりの読書家だということは間違いなく、日頃から文章に慣れ親しんでいることはあきらかで、単に読書が好きだから文学部にしたのだろうか、もしそうならば先輩は将来作家にでもなるつもりなのか、その辺りの事をボクは深堀して聞いてみたかった。先輩が戻る気配がないので、ボクは手あたり次第本棚から文庫本を抜き取って、目についた文字だけを読んでいく。小さい紙にびっしりと文字が並び、眺めているだけで目がまわりそうだ。先輩は毎日こんなものを読んでいるのかと、想像するだけで思わずため息がこぼれた。
部屋にひとつしかないガラス窓から心地よい風が優しく流れてきた頃、下の階から笑い声が起こった。部屋の柱にもたれ、坂口安吾の『桜の森の満開の下』流し読みしていたボクはその声に驚き、肩を上げて襖を見上げた。
それは明らかに女性の笑い声だった。それも、さっき台所であったおばさんの声ではなく、透き通るようにハッキリとした若い女性の声だ。その時ボクは、なぜだか身体を固くして息を潜めていた。階下からはまだわずかに女性の声が響いている。二十代、もしくは十代後半くらいだろうか、はしゃぐような明るい声の底に、優しく問いかけるような上品さが感じられる。ボクは身体の半分を畳につけるようにして耳を近づけていた。女性は誰かと話しているようで、よく聞いてみるとそれは先輩だった。
先輩の声は小さくて、話は途切れがちでよく聞き取れなかったが、階下にいるふたりの和やかな雰囲気は、上にいるボクの部屋からでも十分伝わった。この女性は先輩の知り合いなのだろう。それも、相当仲のいい間柄だ。ボクは聞いてはいけないものを盗み聞きしているような罪悪感と、話を理解するためにもっと耳を近づけていたいという好奇心の両方を抱きながら、畳の上で息を潜め続けていた。
しばらくすると女性の声がしなくなり、それに続いて先輩の声も聞こえなくなった。どこか奥の部屋にでも入ったのだろうかと、いよいよ心音をも沈ませて意識を集中させていると、開け放していたガラス窓から、急に強い風が部屋に舞い込んで、ガザガサとそこらじゅうを震わせた。机の上のボールペンが畳に落ちる。慌ててそれを拾い、元の位置に戻そうと畳から腰を上げた。
その時、木目が波のように続いた机の端に、赤茶色の大学ノートが置かれていることに気がついた。厚紙の表紙に、クリーム色の罫線が付いている少し高いやつだ。そのノートは机上に置かれたノートパソコンやペン立てや真っ白なデスクライトとは明らかに違い、人目の付かないところに忘れられたように置いてあったのだ。
ボクはしばらくそのノートと向かい合っていた。クーラーの付いていない先輩の部屋は、時おり窓から流れる午後の風と、部屋の隅に置かれた首振り扇風機以外、暑さをやわらげるものはなかった。じわじわと苦い酸のようなものが口いっぱいに広がって、それがボトンと喉に落ちた時、ボクの手はノートを取っていた。触れてはいけないとわかっていながらも、その意思とは裏腹に手は自然と動いていたのだ。
驟雨
鬼の口の中みたいな十八時
広い野原の真ん中で
わたしとあなただけがいて
互いが互いを見つめた時
静かな嵐が巻き起こる
寄せたおでこは火のようで
繋いだ右手は霹靂神
瞳に映るはワスレナグサ
青い青いワスレナグサ
ドタドタと段を踏む人の気配が徐々に耳元に近づいていた。先輩が戻ってきたのだ。ボクは咄嗟に閉じたノートを元の位置に戻すと、ぎこちなく畳の上に正座して窓の方へ視線を向けた。襖を開けて入ってきた先輩は「そうかしこまられても困るなぁ」と言って苦笑していた。
「隣の部屋、使ってもいいそうだ。今から少し片づけるからお前も手伝ってくれ」
振り返ったボクの鼻に、薬草のようなツンとする、けれどどこか優しい香りが漂っていた。
4
川沿いの下宿から二つ路地を跨いだ住居の一画に、ピンク色の壁をした建物があって、そこは先輩の行きつけの銭湯だった。タオルと着替えを手下げに入れ、木札の下駄箱に靴を入れたボクは、親しそうに番台さんと話す先輩を眺めながら、さっきの女性が誰だったのか、未だ考え続けていた。
隣りの部屋を掃除する時、女性の姿は見えなかった。一階にいるのか、もしくはもうすでに帰ってしまったのか。盗み聞きをしたことがバレるから、そんなことを聞きだすこともできず、ただ毒にも薬にもならない会話を淡々と続けていた。先輩は女性については何ひとつ触れなかったし、階下もあれ以来ひっそりと静まり返っていたから、ボクは何だか落ち着かず、決まりが悪くて仕方がなかった。先輩はそんなボクを気にして銭湯なんかに連れて行ってくれたのだろうけれど、まだ出会って数時間と経っていない相手と裸で話すことは、考えただけでもうしどろもどろになって、返事に窮することはわかり切っていた。
夕方の銭湯は閑散として、浴槽にはボクと先輩のふたりだけだった。流し場で髪と身体を洗い、自然と浴槽に浸かると、ボクと先輩はいつしか肩を並べていた。
何か話さなければと思って、とっさに
「ここにはよく来るんですか?」
と、気まずい雰囲気を払しょくしようと試みると、すぐに先輩が
「週に二三回は来てるよ」
と伸ばした脚を気持ちよさそうにパタパタさせながら答えた。
「去年、うちの風呂が使えなくなった時に、おばさんに教えてもらったんだ。コロナだから人が来なくて潰れかかってるって言うけど、古いわりにキレイだし、人は少ないし、俺は結構気に入ってるんだ」
「いいところですね」
「そうだろう。まあこんなところに銭湯があるなんて、初見じゃ絶対わからないから、宣伝でもしない限り地元民しか来ないだろう」
言葉を交わしたのはそれっきりで、脱衣所で着替えている時も、髪を乾かしている間も、ボクと先輩は終始無口だった。聞きたいことは山ほどあるのだけれど、頭の中の何かがそれを制していて、あと一歩というところで微笑に逃げてしまう。せっかく先輩から話を振ってくれても、うまい答えが見つからず、話は途切れて消えてしまう。そのせいで、先輩はボクを消極的でシャイな性格だと受け取ったのか、あまり声をかけなくなってしまった。
コーヒ牛乳を飲んで外に出ると、先輩は来た道とは反対方向へ歩き出した。どこかに立ち寄るのだろうかと、そのまま歩いていると、突然先輩が
「思ったより普通だろう」
「何がですか?」
「都会」
ボクは再び黙ってしまった。確かに、先輩の住んでいた家は全然都会らしくなくて、むしろ昭和の一軒家という感じで懐かしかったが、それでも少し歩けば高層ビルや商業施設のおびただしい看板を臨むことができるし、人の出や交通量も異次元だ。それに、確かにここは静かな住宅地だけれど、整然と並んだ住居や細い路地などはやっぱり珍しく、所狭しと建てられた小さな家々は、形こそ似ているがどれも色や建材が少しずつ違っていて、どこまで行っても代わり映えしなく、田舎出身のボクはそれだけでもう堪らなく、歩いているだけでも楽しかった。
緩い坂を上がり切っても周りは家だらけで、いったいこの街並みはどこまで続くのだろうかと、ただ驚くばかりだった。先輩は煙草屋の角を曲がり、家と家の間、室外機の回る細い路地を奥へ奥へと進んでいく。日差しがさえぎられ、空はどんどん小さくなる。こんな場所に何があるのだろう。身体を洗ったばかりなのに、もう背中には汗が浮かんでいる。それでも砂利の敷き詰められた道をしばらく歩いていると、お寺の角を曲がったところで道が開け、足を止めた先輩は石の群れを見上げていた。
ボクらの前には墓石の山があった。広い土地一帯に、大小様々な御影石が立ち並び、それを遮る建物はひとつもなかった。大きな松の木が枝を伸ばし、その下で変色した卒塔婆が寂しそうに傾いて、赤らみかけた西の空にカラスが飛んでいった。先輩は脇に続く石段を上って墓地の中へ入ると、吸い寄せられるように無言で進んでいき、ひと際小さな墓石の前で腰を屈めた。
花立に名前のわからない花が首をもたげていた。図鑑か何かで見覚えのあるものだったが、その時のボクはただ先輩の静かな合掌と、目の前の墓石に圧倒されて、そんなことを考えるヒマがなかった。腰を上げた先輩は「あっちの公園に行こう」とボクを促した。
墓地の隣に木々の茂った公園があって、敷地の緩い坂を上った先に見えたのは展望台のように一面が開けた広場だった。赤くなった空が大きく見える。都会にもこんな場所があるのかと、ボクは何だか懐かしい気持ちになって、ただ遠くの景色を眺めていた。園内を囲うような樹木と草花はよく手入れが行き届いて、静かに降り注ぐ風がパタパタとボクの周りをあおった。
アメスピを吸っていた先輩が遠くを指差す。「ランドマークタワー」高層ビルの建ち並ぶ一画に、群を抜いて高く聳えるその建物が、県内一の高さを誇る横浜のシンボル、ランドマークタワーだと、先輩は変な節をつけて喋っていた。
「ここで見るとまた一段と綺麗だろう。みなとみらいは埋め立て地だから、高いところからだと抜群に眺めがいいんだ」
海沿いに立つ高層ビルの群れが夜に沈んでく。欄干に右手をつく先輩の右頬も、すっかり紫色に変わっている。ボクは先輩に話したいことが、まだ山ほどあるのに、そのひとつとして聞き出すことできていないことに、焦りに似たためらいを感じていた。ボクがここまでやってきた理由は、もちろんスマホの中でしか見たことのなかった都会に訪れたいという興味が大きかったけれど、わざわざ慣れ親しんだ故郷を離れ、ひとり生活している先輩に、その動機を聞いてみたかったのと、なぜ大学を休学して、東京ではなく横浜で仕事をしているのか、それが知りたかったのだ。
けれどその時ボクの頭にあったのは、上京の動機や休学の理由などではなく、先輩の部屋で聴いた、あの女性の、妙に調和の取れた芯のある声だった。聞きなじみがあるようにも、ないようにも聞こえるその声は、風のように瞬く間にボクの耳に入って、全身に冷たいものを走らせた。あの女性は先輩のなんなのだろう、そしてなぜ、あんな場所でひっそりと言葉を交わしていたのだろうか。ボクが遠慮がちに「あの……」と先輩に声をかけた時、お香のような甘い香りが風に乗り、一帯を静かに落ち着かせるような、儚げで脆い匂いー真っ青な花びらが枯れる間際に強力な香りを発散させるような―そんな不思議な感覚がボクを襲った。
「なんだ?」
先輩が振り向く。指に挟まれたアメスピはなくなっている。
「景色が好きなんですね」
ボクは顔を前に戻した。やがて冷たい風が流れる。遠くのみなとみらいの夜景が煌々と輝きだしても、ボクらは何も言わず。ただ襲ってくる重い夜の気配に身をさらしていた。