九 知識の錯覚
近頃は、紺色の作業着を着た技術班が僕の部屋に度々やって来ていた。その間、ロビも僕の部屋に来て、故障中のモニターに関する見解を作業員に述べていた。そして今朝、ようやく壁のタッチモニターが新しいものに交換となった。
「色々と設定も変更してもらいました。それではまた訪問しますね」とロビは言って上のフロアに向かった。
新しいものはなんであれ、必要以上に触れたくなるものだ。僕は交換品の動作を確認しつつ通知欄を開いた。集会の日時が表示されている。明日、第八フロアの集会室に行かなければならない。僕は気が滅入り「んー」と鼻から息を漏らした。
モニターの通知欄を閉じてから机に向かい、椅子に座った。
集会は苦手だ。今回も部屋で参加したいけれど、そろそろ区長から注意を受ける可能性がある。なぜ好きになれないのだろうと考えると自分でもうまく理由を見つけられない。人が多いから、とかそんな簡単な理由以外にも別の要因がある気がする。
タブレットの電源を入れた。午後のスクーリングまでに提出すべきレポート課題がまだ残っていた。僕はタブレットペンシルを握って画面に数式を記述していった。昔は先の尖った棒状の黒鉛を紙に擦り付けて文字や絵を描いていたらしい。黒鉛の濃淡だけで描かれているグラファイトアートを、長老室で見せてもらったことがある。
昼食を食べ終えた後も簡単な因数分解の問題を解き続けた。同じような問題ばかりで、こんな勉強がこの先どこで役に立つのだろう……と僕は疑問に思った。数式を記入すればコンピュータが計算結果を表示してくれるのに。そして、だからこそ、課題は途中式を省略してはいけない。その点が面倒だ。
現在取り組んでいること、それを続けることによってどこに辿り着けるのか、案内標識が欲しい。コリオリの力。図書室で倒れた男性が読んでいた本。科学に関する書籍だと思う。いったいどの程度のレベルなのか気になった。
僕はタブレット端末で、図書室の蔵書検索ページにアクセスしてみた。
黄緑色の背景に変化はなかった。しかし、いつもの検索ボックスの近くに『詳細検索』という新しいリンクボタンが追加されている。
詳細検索のページを開くと、キーワード、タイトル、著者名などさまざまな入力情報から蔵書を検索できるようになっていた。無事にアップグレードされている。所蔵場所も絞ることができるようで、パッとみて、一般書庫以外に例の閉架書庫という文字を発見した。僕は《全ての場所》を選択し、試しに《映画》というキーワードを検索ボックスに入力し検索してみた。
件数:0件 ※該当する資料はありませんでした。
と表示された。僕はもう一度検索画面に戻り《映画》と入力して検索を実行した。
件数:0件 ※該当する資料はありませんでした。
検索語:(キーワード=映画)
僕の入力は間違っていない。となると、やっぱりロビに話した記憶は現実ではなかったのだろうか……。
次に、コリオリ、とキーワードを入力して検索してみた。しかし結果はまたしても同じだった。なぜ蔵書情報が出てこないのだろう?
僕は時間を見た。とりあえず今日のところは……と課題の見直しをすることにした。
授業が始まる少し前に、僕はタブレット端末を持ち第十一フロアへ向かった。そして、図書室内を覗き見ながら教室まで歩いた。通路から見える場所にある席には、あの鷲鼻の男性はいなかった。
教室は他の部屋よりも明るい白色光に照らされている。明るさにはルクスという単位が使われていて、勉強に適した明るさは……などと先生がいつか言っていたのを思い出しながら、僕は後ろのドアから教室に入った。まばらに座っている生徒は、画一化された衣類を、つまりいつもの貫頭衣を着ている。生徒は皆同じような姿勢で、授業が始まるのを静かに待っていた。
中間あたりの長机にはまだ空席がある。いつもの右端の席は空いていた。指定席制ではないけれど各々には自分の座り慣れた座席がある。先生には前の方に座れと言われるが、授業に対する熱心さは持ち合わせていない。かといって後ろの席に座ると逆に目立ってしまいそうだから、最後列に座る勇気もない。僕はいつもの席に座った。白い机の角は相変わらず丸くて弾力性がある。どこもかしこも優しすぎる。
何気なく左後ろの方を見ると、ダイスケが一番後ろの席に座っていることに気がついた。ダイスケと視線が合った。ショウタはいないようだ。休みなのか、この授業を履修していないのだろう。
数十人の生徒はそれぞれ距離をとって黙々と机に座っている。思い返してみると、ダイスケとショウタのように仲良くしている生徒は珍しい。もう一度後ろを見ると、やっぱりダイスケと視線がぶつかった。腕を組んで、眉間に皺を寄せて尖った印象を僕に与えてくる。剣呑というやつだ。頼み事があるならば、それ相応の態度を示すべきなのに。
急かせかと教員がやってきた。直毛すぎて頭がウニのようにツンツンしている。年齢はおそらく三十歳前後で話の長い先生だ。授業が始まると、教員は自身の背後にある大型スクリーンを点灯させた。手元のタブレットと半同期状態にあり、両画面上に次々と授業が展開されていった。自分一人だけでも学習を進められそうな気がするけれど、人間は安い方へ安い方へと行動が流されてしまうもの。それに、昔からの風習としてこのような形の授業へ定期的に出席しなければならない。この教員は他の教員よりも高圧的でないから講義内容は聞きやすい。とはいえ、僕は早く終わってくれと念じながら、リストバンドの曲面ディスプレイに表示された時間を定期的に見ていた。
「繰り返しが重要なんです。では、これまでの問題で何か質問はありますか?」と教員が言った。
「先生」と太々しい声が左後ろの方から発せられた。
授業中に発言をする生徒は珍しいからか、生徒の大半がその声の出所に向かって聞き耳を立てているように思えた。声の主はダイスケだった。
「なぜこういった勉強をする必要があるんですか?」
ダイスケも敬語は使えるらしい。
「タブレットを使えばあっという間に答えが得られると思います」
僕が今朝考えていたのと同じ疑問だ。ダイスケと同じレベルなのかと考えると僕は机に突っ伏したくなる。
「なるほど、勉強の意義ですか……」と教員は腕を組んだ。
僕も正直、先生がなんと答えるかは気になる。教員は大型スクリーンの前を行ったり来たりした。
教員を困らせるためにダイスケは質問したのか? と僕は考えた。どんな悪い表情をしているのかチラとダイスケの方を見ると、予想に反して、彼の表情には狡猾な色はなかった。いや、零ではないかもしれないけれど、純粋な好奇心の方が優っているのか、意外に真面目な顔でじっと答えを待っている。
「たまにそういった質問を受けることがあります」と教員が話し始めた。「また話が長いってアンケートには書かないでくださいよ」と微笑した。「正直、私に適切な回答ができるかはわかりませんが、それでもいいですか?」
ダイスケが頷いたのだろう、教員は続きを話し始めた。
「私が君たちの年齢の頃は、そういった質問は到底できませんでした。与えられたことだけをしなさい、という雰囲気が今よりも濃かった気がします。でも、私には違和感がありました。ずいぶん変化しましたね。これは良い変化だと捉えたいです」と教員は言った。「質問に戻ります。勉強はなぜ必要なのか? 教育はなぜ重要なのか?……いくつかの理由があると思います。まず、文化遺産の継承という点でしょう」一度教員は言葉を区切った。「それから、人間の根源的な欲求の内には、知を求める探究心が含まれるのではないか、と私は考えています。食欲や睡眠欲などと同様にです。ただ、人によってその程度には差があるのでしょう」
そうかもしれないと僕も思う。先生は続ける。
「私もダイスケ君のような疑問を考えなかったわけではないです。しかし、わからないことがわかるようになると嬉しくなりませんか?」
背後からダイスケの返答はない。
「そもそも勉強が好きではないと言うことですか?」
「できたらしたくないですね」とダイスケが正直に答えると、クスクスと生徒の何人かが笑った。「ボクは勉強よりも体を動かすことの方が好きです」とダイスケ。
「そうですか」と教員は教卓に手をついた。頭の中で言葉を組み立てているのか、少しの間沈黙があった。「悪いことではないですけれどね。昔、個人に重きを置く時代がありました。繁栄期の話です。ここで断っておきたいのは、私が教条に反する異端者だと公言したいわけではありません」とウニ頭の先生は一度こめかみを掻いた。「その当時の教育、つまりヒューマニズムの教育では、自分自身で物事を考える力を育むべきだとされていました。個人の自由意志が最高の権威であるという思想が広く信じられていましたから……現代ではとても想像できませんね。そして、当時だったら勉強をせずに、スポーツだけをして生きていくこともできたかもしれません。しかし、それはあくまでも過去の話です。仮にタブレットの技術が失われてしまった場合を考えてみてください。それだけに頼り切っていた場合、私たちは問題を解くことができなくなってしまいます」
教室はいつの間にか熱を帯び、先生の額には点々と光るものが付いていた。話がどこに終着するのか僕は気になった。
「ここで一つ皆さんに聞きたいことがあります。タブレットの仕組みを理解している人はいますか?」
他の生徒は教員と視線を合わせようとせず俯いている。僕も目を伏せた。画面に触れれば、と僕はタブレットの仕組みについて考えてみることにした。指やペンで画面に触れれば、僕が意図して触れた何らかの情報が選択され、画面の表示内容に変化が生じる。また、僕が画面上で指やペンを滑らせると、その軌道にあわせて線が引かれたり、図形が回転する、とか。でも今先生が聞いている仕組みとはそういった表面上のことではない気がした。動作の結果でしかない。僕はどのような仕組みがタブレットの内部で働いているのかを知らなかった。
教員が口を開いた。「タブレットのパネル内には電極が配置されているそうです。人体は電気を通すことを思い出してください。私たちが画面に触れると、触れた部分に蓄えられていた電気が指へ移動し、パネル内の電気の量に変化が生じます。その変化がシステムに検知され、指で触れた位置座標が特定されるようです」
僕は続きを聞きたいような、聞きたくないような複雑な気分に陥った。
「しかし、残念ながらそういったシステムがどのように内部で動いているのか、私は知りません……ところで、タブレットはどのように作られているか知っていますか?」
モニターと同じで製造機によって作られているのだと僕は思った。
「現代では製造機で作られていますね。しかし、その製造工程で一体何が行われているのかを知る者はいません。今度は素材の話をしましょう……電極にはどのような金属が使われているのか?……機器内部に限ったことではありません。筐体にはどのような素材が使われているのか?……考えてみると、知らない事にはキリがありません」と言い先生は深くため息をついた。
僕は想像を巡らせた。すると、深い溝に思考が分断されてしまうことに気がついた。不意に背筋がゾッとした。壁のタッチモニター、ロビ、そして僕自身の体の仕組みさえ。周囲のあらゆるものとの間には、埋めようのない深淵が存在していた。
僕は孤立した極小点だ。
そんな気づきがあった。真実、という言葉の温度を測れるとしたら、きっと冷たいだろう。世界全体が突然、馴染みないものに変容した。そして手の届かないところに後退していく。ここは一体どこで、僕は誰なのか。世界のどの部分に僕は存在しているのだろう。縋ることのできる何かがあれば全力で縋りつきたい。直感的にいますぐ現実に戻るべきことを悟った。
先生の声が遠くで聞こえる。僕は目を瞑っていた。そのまま首をぐるりと回した。
僕の心象に薄い白色光が戻って来て、体の感覚が回復してきた。椅子は僕の体重を支えてくれていて、机は僕の肘を押し返している。生徒、それから先生が戻ってきた。スクリーン、壁、シェルター、僕の世界が戻ってきた。今ここに、こうして一人きりで居なくて良かったと心から思った。
「……また繁栄期の話をしますが、その頃は我々が使用しているような製造機はありませんでした。では、どのように金属を調達していたのでしょう。当時、金属は鉱石から抽出されていました。では鉱石はどこから、どのような道具を使い採掘していたのでしょう。そして不純物と金属をどのように分けていたのでしょう。わからないことだらけです」
目の前に座る生徒が小刻みに揺れていた。貧乏ゆすりをしているのだった。
「過去には天才たちが数え切れないくらい居たのでしょうか?」と先生はなおも続けた。「……それは違います。知識は個人の頭の中だけではなく道具やコミュニティの中にも存在しているのです。そう指摘されたのは西暦二十一世紀になってからのこと。つまり皇紀二千六百年代になってからのことです。認知科学者のスティーブン・スローマンとフィリップ・ファーンバックと言う……」
難しい。それでも何か重要なことが話されているのだと思い、僕は耳に残っているスティーブン・スローマンと言う人名をノートアプリの画面端にメモした。
「人間の知性は、全てを知り尽くせるようにはできていないのです。必要なことだけを抽出し、つまり、タブレットについて言えば、それを使いこなす方法に限り、知性は重要なことだと認めるのです。知識の錯覚という言葉があり……ええっと、そもそも何の話でしたっけ」
集中力を切らしていたのかモゾモゾと体を動かしていた何名かの生徒が、笑うように肩を揺らして、再び教員の方に顔を向けた。
「勉強の意義についてでしたね……そうそう、インターネットが存在していた時代は、誰もが無限に増殖する様々な情報に触れることができました。情報の正誤を見極めるためにも基礎的な学力は必要とされたことでしょう。そうです……かつては人類の叡智に誰もがアクセスすることができました。しかし、この我々と人類の叡智との間には断絶が生じてしまいました。今となっては、その断絶がいつ起きたのか、また、その理由すらわかりません。でも私は望みを持ち続けています。叡智との間に再び大いなる橋を架けてくれるような大人物が、生徒の中から現れてくれることを期待しています」
そこまで言うと教員は唇を噛んだ。目は潤み室内灯の光をキラキラと反射させていた。いやむしろ輝いているようにも見えた。一体どれだけの生徒が真剣に話を聞いていたのかはわからないけれど、僕は正直、教員の話に少し感動していた。
「わかりました」と殊勝な声が後ろの方から届いた。一体何がわかったのかいつかダイスケに尋問してみたい。
「少し話しすぎました。私も頭を使ったので疲れてしまいました」教員は自身のリストバンドを見た。「今日の授業は終わりにします」そう言って教員は荷物をまとめ始めた。
生徒はパラパラと拍手をし始めた。授業終わりのお決まりの風習だが、僕はいつもの形式的な拍手ではなく、ちゃんと音を立てて手を打った。掌の感触と、その響きが、僕を世界につなぎ止めてくれている気がした。
ウニ頭の先生は「ありがとう、ありがとう」と言った後、何かを呟きながらおぼつかない足取りで教室の入り口に向かった。入り口のドア枠に、ゴンッと肩と腕を一度ぶつけてから出ていった。
拍手の余韻が、しばらく耳と掌に残っていた。
その日のホームルームでは、担任の教員からいくつかのお知らせがあった。まず、近々保育実習があるとのこと。そして、体育祭のアンケートが今日から提出可能となったとのことだった。体育祭への参加者は、参加種目に応じて単位が貰えるらしい。僕は久しく参加していなかった。でも、トサカ頭の授業を受けずに済むのならば参加しない手はない。個人競技は選択制。候補の中から僕は徒競走を選択した。前回のホームルームでも説明があった通り、団体競技の種目はフットサルかドッヂビーだった。ダイスケとショウタの事を思い出しながら、僕はあえてドッジビーを選択した。締切はまだ先だったが、僕はタブレットの提出ボタンを押した。