七 図書室にて
僕は目を瞑っている。頭から踵にかけて緩やかな傾斜を感じる。いつものベッドの感覚じゃない。手の甲で地に触れると何かフサフサしている。顔に温もりを感じる。体がポカポカする。そろそろ目を開けるべきか? いや、もう少しここに居たい。風が僕の頰を撫でた。送風機から送られてくる風よりも優しくて香ばしい。僕は実際の瞼を開かないように、ゆっくり目をあけた。心地よい眩しさと共に、輝く世界が僕の目に飛び込んできた。青天井。空に浮かぶ雲。これは白昼夢だと僕は確信した。心の深部に刻まれている祖先の記憶だろうか? 後頭部を地面に擦らせながら首を後ろに反らす。地面が遥か上空まで隆起し、先端、つまり頂上は雲に隠れて見えない。僕は息を呑んだ。あらゆる可能性への期待感。いつまでもここに居たい。
ブーっと地面が鳴った。振動。
やかましい。邪魔しないでくれ。
空の青が色褪せていく。
ああ、どうか。
もう一度大きな電子音が僕の世界全体に響く。僕は頭を起こして周囲を見ようとした。木々を含む視界がグニャリと歪み始めた。まだ乾いていない水彩画を水で洗い流すように。そして三度目の音。衝撃。地の果てからバリバリと大地が破れていく。さっきから首から下が動かない。色彩が色褪せていく。地割れがもうすぐそこまで迫っているのがわかる。あっ……足が……と思うと僕は地割れに飲み込まれた。真っ暗な地下への落下。極小点に向かう吸引力、あるいは重力。
気だるさを纏う肉体に意識が戻ってきた。目覚めると体に少し痺れが残っていた。
僕は寝すぎたようだ。玄関を開けると配送ロボットが朝食を運んできていた。
「注文がなかったので、ハルさんにおすすめの朝食セットを用意してきました。こちらでよろしいでしょうか? それとも……」
「それでいいです」
僕は配送ロボットが差し出している配膳台から朝食箱を受け取った。
「ありがとう」
「どういたしまして。それでは」と配送ロボットはそっけなく僕の部屋から離れていった。
僕はタブレットでレポート課題の期限を確認しながら朝食を食べ終えた。スクーリングもまだしばらくない。
朝食箱を片付けてから、返却期限の過ぎた本を二冊抱えて中央階段に向かった。
螺旋階段を登り、第九フロアの階段口を通り過ぎようとすると、「坊ちゃん」と声がした。家事アンドロイドの声。声のした方に視線を向けると、ロビが片手を挙げていた。
「やあ、さっそく呼びかけてくれたんだ。でも、外で坊ちゃんは恥ずかしいからやめて欲しいな」僕はロビに歩み寄った。
「失礼しました」ロビは言ってから、自身の背後を見下ろすように、上半身を不器用にねじった。「さあ、カンタ君」
男の子がロビの右足に抱きついてもじもじしている。顔は見えない。
「その子は?」と僕は聞いた。
「昨日話した子です。私が担当している世帯のカンタ君と言います。さあ、カンタ君、この人がハルさんですよ」
僕は少し膝を折り「ええっと、初めまして。カンタ君」と言った。
男の子の顔がロビの背後から現れ視線がぶつかった。
「あっ」と僕らはお互い声が出た。
「図書室のお兄さんだ」とその男の子、カンタが言った。
「びっくりした。なんだ君か」と僕はカンタとロビを交互に見た。
「おや、すでにお知り合いでしたか?」
「ああ、何度か図書室で話したことがあってね。まさかロビが担当している子とは知らなかった。ロビはカンタ君のところでも家事以外の仕事をしているんだね」
「ええ、私は特別ですから。それに坊ちゃんの前例のおかげで、今後他のアンドロイドも専門領域外の仕事をすることになるかもしれません。忙しくなりますよ。ホホホ」
「そうなんだ。それは良かった……のかな? よろしく、カンタ君」
「うん」
「ハルさんに似て人見知りなんです」
「ちょっとロビ」カンタが言った。
「ロビはいつも一言多いでしょ?」と僕は言った。
三人で階段を登り始めた。
「ハルさん、昨夜はよく寝られましたか?」
「ばっちりだよ。配送ロボットに起こされなければもう少し寝たかったけどね」
「そうでしたか。ところで、カンタ君も本が好きなんです」
「だろうね、ひょっとしたら僕もロビの影響だったのかな。子どもの教育に良かれと思って読書を勧めるのは、保育班がいかにも考えそうだ」僕はロビの後ろにくっついているカンタの方を見た。「カンタ君はどんな本が好きなの?」
「図鑑」と無邪気な声が帰ってきた。
「僕も昔、よく図鑑を見ていたなあ。絵を見ているだけでも楽しいよね」
「ボクは、ブラキオサウルスが好きなんだよ」
「サウルスってことは恐竜かな? ブラキオ……どんな恐竜だったっけ?」
「首がすっごく長い恐竜だよ」
「首が長い恐竜か。いた気がするなあ」
「うん、とっても大きいんだけど優しいんだ。肉食じゃないからね」
「よく知っているね、ブラキオサウルスは優しいんだ」
「頼めば、背中に乗せてくれると思うよ」
「かもしれないね」
「きっとそうだよ」とカンタはすぐに答えた。目には確信に満ちた光。
僕は笑って頷いた。
「ホホホ」とロビが笑った。
僕らは第十フロアに到着した。この階には図書室と下級生用の教室がある。
「なあロビ、ここから入るけど良いかい?」
「ええ、良いですよ。児童書も第十フロアにありますし」
円状廊下からは透明な壁越しに本棚の迷路が見える。色とりどりの背表紙自体が何か抽象的な秘密の言葉を僕らに仄めかしているようだ。図書室全体は、昆虫の巣を模したハニカム構造で、六角形の各区画の骨組みが本棚になっている。そこには耐久紙から成る書籍が所蔵されているが、びっしり詰まっているわけではなく、まだまだ隙間には余裕があった。各区画の本棚には、行き来のための通路が穿たれており、中心には、大きな丸机と六つの椅子が設置されている。そこでは読書をしたり、勉強をしたり、かと思うと、うとうと心地良さそうにしている人もいる。暖色の室内灯は気分が落ち着くのだ。
生きているうちに一体、何冊の本を読むことができるのだろう。もう少し物語の類を充実させてくれていたら文句がないのに……と僕はいつも思っていた。
「ハルさん、私たちは児童書を見てきます。本は忘れずに返却してくださいね」
「当たり前だよ。皆の財産だからね」と僕は得意げに言った。「それじゃあカンタ君、またね」
「バイバイ」カンタは小さな手を左右に振った。
二人と別れた後、僕はそのまま中央口から受付へ向かった。
受付で期限を過ぎてしまった本を返却し、そのことに対して僕は謝罪した。
「次回は気をつけてください」と受付のアンドロイドは言い、デスクのモニターを見ながら何か手続きをしている。ロビとはタイプが異なるが人間じみた表皮を被っていないアンドロイドだった。
「ハルさんですね。少々お待ちください」とアンドロイドはゆっくりと回れ右をし、僕らが普段入ることができない受付の奥にある部屋の方へ向かった。半透明の自動ドアが開き、受付のアンドロイドはその内へ入っていった。
カウンターの前にいる僕からは、奥の部屋の様子が少し見えた。縦長のデスクに座りモニターの前で作業をしている人々の姿、ずらっと並ぶ本棚、こちらの図書室の間取りとは異なり仕切りのない構造をしている。奥の部屋にも本棚があることは以前から知っていたけれど、あれが長老の言っていた閉架書庫だろうか、意識して覗き見ていると、自動ドアはすぐに閉じてしまった。
僕は少しの間、受付で待たされることになった。返却が遅れるのは今回が初めてではない。常習的な悪癖を咎められるのだろうか、脇の下に少し汗が滲み始めたように感じた。今後はちゃんと返却期限を守ろう……。
再び半透明の自動ドアが開き、受付のアンドロイドが戻ってきた。背後に誰か引き連れている。すらっとした長身の女性だ。
ショートカットの女性。貫頭衣とは対照的な艶のある黒髪が僕の目を引いた。室内灯がそこに金の光輪をかけ、鬢はふわりと頬を包んでいる。甘い匂いが僕の鼻腔を満たした。嗅いだことのある匂い。昨日すれ違った女性の後ろ姿が脳裏に甦り、目の前の女性と重なった。
視線が合った瞬間、時間の流れが停滞した。あるいは僕の意識だけが加速したのかもしれない……そんな奇妙な感覚の変化。如何なる情報も逃すまいとその女性を凝視したい欲望に駆られ、しかし反対に、すぐさま目を逸らしたくもあった。結局僕は誘惑に負け女性の目を凝視した。すると何か予感めいたもの、鋭くて鮮烈な印象が、僕の心の表層を深く抉った。僕の感覚は敏感になり、女性の瞳の奥に神秘的な何かが潜んでいることを発見した。僕が求めている何か……。
驚くことに、僕も何かを求め得るのだという気付きが、体の中で迸るのを感じた。
「初めまして、あなたがハル君ですか?」女性が言った。目の虹彩が深い色をしていて、長い睫毛が目元の印象を一層引き立てている。
僕は慌ててその女性から視線を逸らした。つい先ほどは僕の世界にはたった一人、この目の前の女性しか存在していないかのようだった。
「私はアミと言います」
視線を逸らしていると、狭まっていた僕の視野角が再び元通りになりつつあるのを感じた。改めて視線を女性の顔の方に向け、僕は返答しようと努めた。「あ、はい」と今にも消え入るような声しか出なかった。
「今朝、長老から連絡がありまして」
「それじゃあ、あなたが長老の……」
「ええ」アミさんは僕の言葉を遮り言った。「延滞している書籍があったようで、返却しに来る際には一度会ってみようと思っていました。あなたが来たら私に知らせてもらうようアンドロイドへ頼んでおいたのです。まさか、こんなに早くお話できるとは思っていなかったけれど」
「すみません。今後は十分気を付けます」
「ほんとに気をつけてくださいね」アミさんは言った後、すぐに表情を崩し親しみのこもった笑みを僕に見せた。「と言うのは仕事上の立場として……気がつくと貸出期限を過ぎているんですよね。気持ちはわかります」と言い、アミさんは何度か頷いた。
「そうなんですよ」僕はつい食い気味に言ってしまった後、「いえ……すみません」とすぐに態度を改めた。
「たまにいるんですよね」とアミさんは白い歯を僕に見せた。そして目を伏せ、一瞬複雑な表情をしたのを僕は見逃さなかった。仮に、その表情に言葉を付与するならば悲しみという言葉が近い気がした。でも断定はできない。億劫になることなく、もっと人と関われば、僕は他者の微妙なニュアンスを精度良く汲み取ることができるようになるのだろうか? まずは人に関心を持つことから始めなければ……。
「アミさんは、どんな本を読まれるのですか?」
アミさんは少し驚いたような表情をした。「また、時間のある時にじっくり話をさせてください。そうそう、依頼されていた閉架書庫についてですが、検索結果に表示されるようハル君のアカウントをアップグレードしておきましたよ」
「そうなんですか、ありがとうございます」
「実は班に配属されると皆表示項目が増えるようになっているんです。他の子よりも少し早く閲覧できるようになって良かったですね」
「奥の部屋に、僕も入れるようになるんですか?」
「ごめんなさい。奥の部屋は教育班のみ入室が許可されているの」とアミさんは首から下げたカードを僕に見せた。「借りたい本があれば受付に申請してもらうことになっています」
「そうでしたか。それじゃあその際にはよろしくお願いします」
僕らは挨拶をし、アミさんは再び奥の部屋に戻っていき、半透明の自動ドアが閉まった。そしてアミさんの後ろ姿は見えなくなった。
「あの……」声がした。
「あの、ハルさん?」ともう一度声が僕の耳に届いた。目の端のアンドロイドが僕の反応を待っている。
「はい」と僕は答えた。
「手続きはもう終わっています。まだ何かご用件はありますか?」
僕は少し急いて受付を離れた。頭の中がぼうっとしていたためか、足はなんとなく室内階段の方へ向かっていた。そして僕は手すりに体重をかけながら第十一フロアに向かった。
第十一フロアも階下とあまり変わらない構造をしている。僕は足の赴くままに歩くことにした。巣の奥へ、奥へとハニカム構造の本棚をいくつか潜り抜けていると、頭の中に広がっていた微熱を帯びた靄が少し晴れてきた。
昆虫……蜂はこのような複雑な構造体を、自身が分泌した体液と樹脂を混ぜ合わせた素材で構築することができたらしい。その方法はどこで何から学んだのか? 生命の設計図はゲノムに記述されているのだそうだ。一体誰がどのように? そしてなぜ?
遺伝情報……この僕の体は何十兆個もの細胞から成り立っている。その一つ一つの細胞の中に、僕特有の情報が緻密に折りたたまれて保存されている。けれども僕がそれを直接認識することはできない。不服なのはこの点だ。僕は僕の主人であるはずなのに、僕についてほとんど何も知らない。けれども、今こうして息を吸ったり吐いたりしている。目に入ってくる情報を処理し、空間を認識して、二足でバランスを保ちながら歩くことができる。無意識にしている事があまりにも多すぎる。よく考えるとゾッとする。ロビは創発現象と擬似的主体について話をしていた。僕とロビとで一体何が違うというのだろう……僕らの認識には限界があって、日常で必要な瑣末なことしか理解していない。思考が絡まってきた。
腕が痒い。最近、腕がよく蒸れる。僕はリストバンドと肌の間に指を入れ、爪で皮膚を掻いた。曲面ディスプレイは現在の時間を表示していた。ちょうど目の前にあった室内地図を見ると、僕は科学領域に来ていた。来慣れているからか足が自然に動いていたのだろう。
本棚の前に立ち、各背表紙を眺めているとコンピュータという単語が目に止まった。僕は何気なくその本を抜き出し、円卓から椅子を引き出してそこに座った。
円卓の左前の方には分厚い本が積まれていた。その積まれた本の向こう側に、眠っているのか男性らしき人がうつ伏せになっている。いびきをかかれたら集中できないため移動しようか少し迷ったけれど、そのまま座り続けることにした。
僕は最初の方のページをパラパラ捲った。『一つの0か1で表現される情報を1ビットと呼び、これが情報の最小の単位となる』僕は文字を飛ばし飛ばし読んだ。『コンピュータが普及する前にはパンチカードが用いられ、紙のカードに穴が空いているか、空いていないかで1と0を表していた。……コンピュータの中では、ディーラムが記憶装置として重要な働きをしている。ディーラムのメモリセルは一個のトランジスタと一個のコンデンサから構成されており、コンデンサに電荷が蓄えられているか、蓄えられていないかで1と0を記録している』
固有名詞一つ一つが何を表しているのかを知らないと、この本を理解することはできそうにない。僕はため息をついた。
とにかくコンピュータはたった1か0という二つの情報で動いているらしい。ロビの仕組みはどうなっているのだろうか。ロビの本質を知りたい。でも、こんな初歩的な本を読むだけで、僕はロビについて知ることができるのかと疑問に思った。どれだけの知識を理解すればいいのか、そして、理解できるほどの知能がこの僕に備わっているのか……。
忍耐強く取り組めばいくらかは理解できるようになるかもしれないと思い、倦怠感に抗って読み進めようと努めた。でも、二、三ページを読み進めただけで、集中力の糸がプツリと切れてしまった。
消極的な感情がまた湧き起こってきた。深い霧の中。視界は霞み、どこまで先が続いているのか、そもそも前に進めているのかもわからない……それと似ている。
僕は両手を首の後ろで組み、体重を椅子の背に預けた。疲れた。卒業課題では、何についてまとめようか。
うつ伏せになっていた男性が上半身をむくりと起き上がらせた。本の山から見たことのある顔が現れた。
ああ、この人か、よく見かける男性だ。多分年齢は三十歳前後。頬はこけて黒ずみ、目元には相変わらず不健康そうなクマがある。よくこれで健康モニタリングをパスできるなと思う。鋭い鷲鼻と一重瞼が冷たい印象を僕に与える。短髪の頭を掻きむしる癖のある人でよく独り言を呟いているから、気が散らないように僕はこの人には近づかないことにしていた。気にしないように努力すればするほど、かえって気になってしまうものだから。
男性は猫背のまま、焦点の合わない様子でどこか宙を見つめている。それから開いていた本をおもむろに閉じ、本の山の一番上に置いた。背表紙には《コリオリの力と遠心力》と書かれている。コリオリとは一体なんなのか……聞き慣れない響きだ。意外に賢い人なのか? 意外に、と考える自分の失礼さに僕は苦笑した。
男性がゴンと音を立てて両肘を机に付き、両の指の腹で頭を絞るようにマッサージし始めた。親指でこめかみをグリグリやっている。僕が近くに居ることを男性は気にしていないようだ。
「あああ」と男性の声。ほとんど閉じた喉から息を漏らすような微かな声。それが少し続いてから、突然大きな声になった。
僕はびっくりして、背筋がピンと伸びた。
「んぐ、んぐぐぐ」と再び男性の声。激しく頭を掻きむしり始めた。
声をかけるべきか、それとも立ち去るべきか……。
「もう、わけわからん……もう、わけわからん」と男性は身を捩らせ頭を掻きむしっている。指の太さ程度のピンク色の跡が額に浮き出した。ミミズ腫れというやつだ。
周囲の区画から、人々がこちらを覗いているのに気がついた。
僕は再び男性の方に視線を向けた。男性の額には目を見張る鮮やかな赤色の斑点が現れていた。血だ。血が滲み始めた。
「どうかしましたか?」と図書室の作業員らしき人が駆け寄ってきた。男性に近づこうにも近づけずあたふたしている。「すぐ医療班の人を呼んできますので、待っていてください」とおろおろ言い、駆けてどこかへ行ってしまった。
男性の頭からは黒光りする短い線がパラパラと散っている。
またあの人、というような声が聞こえた気がした。隣の区画から覗いている婦人たちがヒソヒソと何かを話し合っている。「……キョウイク」という声が聞こえた。
「あああぁ」語尾が途絶える。男性はぎゅっと目を閉じ歯を食いしばった。それから両手をグーにして肘をピンと伸ばした。「ううぅ」男性は背伸びをするような体勢をしてから、急に空気が抜けたようにグテっと机に突っ伏した。深い呼吸のために軟口蓋がイビキのような音を立てている。
僕はさっきから椅子の背に手を添えたまま動けずにいた。
図書室の作業員が、車輪付きの担架を押す医療班員二人を連れてやってきた。続いて一人の黒衣も。
「大丈夫ですか?」医療班の一人が言った。この区画には、倒れた男性の他に僕しかいない。僕が質問されていたのだ。僕は何度か頷いて、突っ伏している男性の方を指さした。
「これから医務室に運びます」
僕はまた頷いた。
図書室の作業員は騒動が収まるのをただ見守っている。
医療班の二人は入念に男性を抱き上げ、床まで低く下げた担架に男性を寝かせた。
黒衣は周囲を検分しながら、見物人を散らすような対応をしていた。それから「ええ、問題はないようです」と黒衣が低い声で言った。誰かと話しているかのようだった。目深のフードの内側には無線機器が装備されているのかもしれない。
男性が横たわっている担架がゆっくりと上昇した。そして医療班二人によって迷路の出口へと運ばれていった。
「何があったのか、詳しく教えてください」と黒衣が低い声で僕に質問した。
僕はしどろもどろになりながらも、見たままを説明した。
「そのようですね。びっくりしたことでしょう。でももう大丈夫です。あの男性は医療班で診てもらえるので」
「それならば安心しました」と僕は言った。数日ぶりにまともな声を発したかのような気分だった。
「ご協力ありがとう」
あの男性は何かの発作を起こしたのだろうか? 何事もなければいいのだけれど。
黒衣から何か指示された図書室の作業員はどこかへ行ってしまった。黒衣は机に積まれていた書籍の外観を確認している。コリオリの本の他に、等価原理という背表紙が僕には見えた。汚れてはいないようだけれど、クリーニングが必要になるのかもしれない。
そのまま、図書室に居続ける気にはなれなかった。僕は本棚から抜き出してきたコンピュータについての書籍を元々あった所に戻し、出口に向かうことにした。隣の区画ではまだ婦人二人が小声で会話をしていた。
「……そうよね」
「あの頃からかしら、物騒なことが増えたのは」
その場を通り過ぎようとする僕に、婦人たちが気がつき、僕らは会釈を交わした。