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五 長老室

 最上階まで上ってきた。五階分上ってくるのはさすがにいい運動になる。

 長老室の方へ通路を歩いていると、突然甘い匂いとすれ違った。

 その瞬間、僕の胸は爽やかに涼み、視野がパッと明瞭に、鮮やかさが増したのを感じた。匂いの跡を辿るように振り返ると、女性の後ろ姿があった。すらっとした長身で、襟足は短く耳の辺りは髪で隠れている。横顔が見えそうになったところで女性の姿は壁に遮られてしまった。例えるならば、リンゴの匂いに少し似ていた。

 陶然としながら歩を進め、長老室の前までやってくると入口の自動扉が開いている。黒衣の姿も見えない。鼻腔に微かな匂いが残っている気がして、僕は頭を左右に振り払った。

 ここに来るのはいつぶりだろう。長老室には貴重な遺物がたくさん展示されている。子どもの頃、それらを見せてもらうために僕はよくここまで足を運んだものだ。例えば金銅色に輝く吊るし飾り。中心に穴の空いたメダルが無数に編み込まれており、その一枚一枚が、シェルター移住以前、地上で通貨として使用されていたもの。僕は黄金色に輝くメダルを指差し、一枚だけでもだめ? と何度も欲しがって、その度に苦笑いをする長老から断られたのを覚えている。

 応接間の入り口に掛けられた暖簾の前で、僕は立ち止まった。そこで気がついた。呼び鈴を鳴らさずにここまで入ってきてしまった。

 扉が開いていたし、黒衣もいなかったから仕方がない、と僕は自分に言い聞かせた。

 暖簾はアカフジ。右側が見切れている大きな赤い三角形。上部の青地は空を示しており、そこには、横長に伸びた白色の綿のようなものが無数に描かれている。空には白い雲が浮かんでいたという。何の力も加えずにだ。今も変わらず、空には白い雲が浮かんでいるのだろうか?

 僕はもう一度、赤い三角形に目を移した。山だ。シェルターが埋まっている地表部付近には、巨大な山が聳えているらしい。確か三千、そうだ、三千七百七十六は山の高さだ。日本で一番背の高い山。シェルターを八十個分ほど上に積み上げた高さに相当する。この暖簾に人間を描き加えようとするならば、わずか一点のシミにも満たないのだという。なんて世界は広いのだろう。想像は全く及ばない。

「考えが変わったのか?」暖簾の奥から低い声が聞こえてきた。「さあ、答えなさい」

 その声は長老の声に似ているけれど、どこか硬い感じがした。続いて別の低い声……そちらの方は何と言っているのか聞き取れなかった。

「あの、すみません、ハルですが」僕は声高に言った。

 反応がない。

「扉が開いていたので」と僕は言ってから、もう一度暖簾越しに名乗った。

 応接間内ではヒソヒソと二、三の会話のやり取りが行われているようだった。しかし僕には聞き取ることができなかった。

「ハルだったか、入りなさい」聞き慣れた長老の声がした。少ししゃがれた渋い声。

 僕は一度尻込みしてから暖簾をくぐった。躊躇うほどには僕も成長したらしい。

 長老は、水晶机の向こう側の椅子に座っていた。何か気掛かりなことがあるように思案深げな表情をして、白髪の混じる顎髭を片手で撫でている。水晶机の模様を見つめているような格好で、応接間に入ってきた僕とは目線が合わなかった。綺麗に結えられたお団子の頭髪は今朝と同じ。あれから、いつもの黄土色の衣服に着替えたようだ。

 左右の壁際には黒衣二人が立っていた。相変わらず黒尽くめ。目深に被ったフードと、セルロース繊維の覆面によって、顔はほとんど見えない。黒いローブの袖からは太い手首が伸びている。僕の二倍くらいの太さはあろう。皆からは黒衣さんなどと呼ばれている。どれくらいの規模で、何人いるのかはわからないけれど、長老はたいてい彼らと共に行動している。たまに見かける存在ではあるけれど詳しい事は知らない。警備や見張りを担当しているのだと僕は推測しているが、目立たない存在だから、いつの間にか僕は、視界から彼らの情報を除外している。きっと皆も僕と同じだろうと思う。

「よく来てくれた」と長老が僕の目を見て言った。

「早く来すぎでしょうか?」

「いや」と長老は否定し、対面の椅子に座るよう僕に指示した。「さあ、そちらに座りなさい」

 肘掛けのある黒椅子は合成皮でできており、テカテカしている。少し苦みのような臭いがする。座ると適度に柔らかい。なんだか懐かしさが込み上げてきた。

「外してくれて構わない」長老が二人の黒衣に向かって言った。

「しかし」黒衣の一人が低い声で言った。

「大丈夫だ」と長老が念を押した。

 二人の黒衣は、おもむろに暖簾をくぐり応接間を出て行った。

 黒衣は滅多に声を発しない。アンドロイドなのだろうか、それとも人なのだろうか、未だに僕はどっちだとも断定できない。

「還儀ご苦労であった」長老は言った。「落ち着いており、立派だったよ」

「ありがとうございます」

「新年を迎えたと思ったら、もう如月だ。あと少しでハルも十五歳になる。ちょっと待っていてくれ」と長老は立ち上がり、奥の部屋に行った。

 僕が応接間に飾られた種々の遺物を眺めていると、冊子を手に持った長老が応接間に戻ってきた。長老はその冊子をめくりながら再び椅子に座り、口を開いた。

「君の成績だが、結果は悪くない。どの班を希望する予定かね?」

「まだ決めかねています」

「進路希望調査の欄は見落としていたのかな?」

 年度初めのテストのことだ。僕は希望調査欄を空白のまま提出したのだった。強いて理由を述べるならば、魔が差したということ。咄嗟に働いた反抗……などと僕はカッコつけて振り返ってみる。がしかし、本当はそうではない。記入する内容によって僕に不利益が生じるのではないか、と悩んだ挙句、テストの時間内に記入することができなかったのだ。

「はい?」と僕は空惚けた。

「君だけ空欄だったようだ。そのような生徒はあまりいないのでな」

「見落としていました」

 長老は探るような目で僕を見た。「それを聞くためにここに呼んだのだよ。君の母親の還儀と重なってしまったが、こちらにも都合があってな。今のところ気になっている班は?」

「しいて言えば科学班でしょうか」と僕は言った。「過去の技術に興味があります。その復元についてもです」と以前の調査の時と同じ回答をした。

「過去か……なるほど」長老は冊子を持っていない方の手で口ひげを左右に撫でた。「ハルはミシマの血が濃いのかもしれん。昔から好奇心が強かったな。だから、というわけでもないが、私は君を気にかけていたのだよ。随分と勉強熱心のようだ」

「僕より成績が良い生徒は何人もいます」体育の成績が足を引っ張っている。教員の姿が脳裏に浮かびかけ、すぐに掻き消した。ソフトモヒカンか何だか知らないけれど、あのトサカ頭のせいだ、と僕は不快になった。

「成績のことだけではない。足繁く図書室に通っているようだね」

「図書室の事でしたか」なぜ長老が知っているのか一瞬疑念が湧きかけたが、貸出履歴か何かを見たのだろう、と僕はすぐに察した。

「好奇心や知性には、正しい方角への導きが必要なのだが……」そう長老は言ってから口を噤んだ。

 独り言のようにも、次に話すべき言葉を探しているようにも見えた。僕は沈黙を埋めるように発言した。「そういえば長老、聞いてみたいことがあります」

「ほう、何かな?」

「図書室には、蔵書検索の結果に表示されない本があるのでしょうか?」

「閉架書庫内の書籍のことを言っているのかね?」

「それは何ですか?」

「貸出頻度が著しく低い資料や、貴重な資料が保管されている場所だ。君の年齢では検索結果に制限がかかっていたはずだ」

「なるほど。でもなぜ閲覧を制限されているのでしょうか?」

「いくら耐久紙といえども、決して劣化しないわけではない。保存の観点から、というのが理由の一つだ。たとえ現代の我々が理解できなくとも後世に残す必要はある」

「そうですか。でも、たとえば電子データとして、情報を残しておけば良いのではないでしょうか?」

「無論、電子データとしても保存されている。しかし、情報をもっとも長期的に、安全に保存できる記録媒体は、紙や石英といった実生物なのだ」

「失われてしまったものもあるのですか?」設計図が失われた云々とロビが言っていたことを思い出しての質問だった。

 うむ、と長老は意味深長な表情で相槌を打った。それから僕の成績が記されているであろう冊子を水晶机の上に置いた。「図書室は教育班が管理していてな。そこに私の娘がいるのだ。閉架書庫の利用ができるように頼んでおこう」と長老は話題を変えた。

「ありがとうございます」と僕は言った。深追いはしない。

「ところで、技術に興味があると言ったな? 現存する技術の維持も大切なのだよ」

「はい、私もそう思います」

「技術班はどうかね?」

 シェルター設備の維持管理をメインに担っている班だ。「見学には行きたいと思っています」僕はそう言ってから思案した。維持という言葉がしばらく頭の中で消えずに蠢く。そしてその言葉は、現状という言葉と結びつき、現状維持と言う観念を想起させた。するといつの間にか、重たい倦怠感が僕の頭を占拠し、それがジワジワと首から肩へ広がっていくのを感じた。

「ハル、どうかしたのか?」

「いえ」

「シェルターの電力供給源については学んだかと思うが、覚えているかな?」

「……詳しい事はわかりませんが、マグマ溜まりの地熱を利用している、と聞いたことがあります」

「そうだ。そして数年以内に、発電システムの大掛かりな調査を計画している」

「何か問題が起きたんですか?」

「いや。そういうわけではない」

 なぜか僕は一瞬、落胆した時に似た感覚を味わった。「マグマが冷えてしまったとか?」と僕は弱々しく自嘲気味に言った。

「マグマ溜まりも問題ない」と長老からすぐに返答が帰ってきた。「仮に地殻深部からの供給が止まったとしても、四十万年ほどは三百度以上の温度を維持できるとされている」

「四十万年ですか?」僕はその年月に唖然とした。「そんな途方もない期間、僕たちは地下シェルターで生活を続けなければならないのでしょうか。一体何世代……」言ってしまってから僕はハッとした。

「ハル」長老の声色が変わった。「禁則については知らないわけではあるまい」

「はい」僕は唾を飲んだ。「失礼しました」と付け加えた。シェルター運営に対する批判は禁止されており、消極的な言動は自粛を求められている。

「発言には気を付けなさい。それに重要なのは、世代ではなく、種族だ」

 僕は頷いた。少しヒヤヒヤした。逮捕されるなんていう噂は、所詮、噂でしかないのかもしれない。

「さあ、先ほどの話に戻るが」長老は説明を続けた。「理論上、半永久的にマグマ溜まりから熱抽出が可能なわけだが、永久不変の物質はこの宇宙どこを探しても存在しない。万物は流転する、と古代哲学でも言われているがね。最近のことだが、断熱内管から回収している流体の温度がごくわずか低下していることがわかった。マザーは内管に劣化があるのではないかと推測している。マグマ発電機は、もともとパーツ交換を前提に設計されているのだそうだ。クローズド方式と言ってな……」ここまで長老は言うと、どの程度理解しているのか探るような目付きで僕を見た。

「すみません。勉強不足で、長老の言っていることがあまりよくわからないです」と僕は隠さずに言った。「つまり部品の取り替えが必要ということですか?」

「まずは、その必要性があるかどうかを調べなくてはならない」

「発電機が壊れてしまったら僕たちは生きていけないですからね」

「その通り。しかし発電機に限らず、我々の生活を支えている技術を数えたら枚挙にいとまがない。実は、技術班の人員割合を増やすべきかどうか、評議会で審議をしているところなのだ」

「検討させていただきます」と僕は言った。

「是非、技術班の体験には参加してみなさい」長老は念を押した。「ところで、ロビはちゃんと機能しているかな?」

「ええ、彼は相変わらず元気そうです。長老がロビを派遣をしてくださったようで」

 長老は優しく微笑んだ。それから水晶机の上に置かれていた冊子を閉じた。

「何かあれば、いつでも相談に来なさい。頼まれてもメダルはやれんがね」

 僕は苦笑した。「はい、では失礼します」

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