復讐機神ジュリアス
俺は多くを望まない。殆ど望んでないと言っていいくらいだ。
なのに現実は、そんな俺からすら、さらに奪おうっていうのか……。
「木島樹理くん。ああ、答えなくていい。調べはついている。この人間追跡ドローンは最新型でね。遺伝情報を同定する機能が99.999%の精度で、君を木島耕太郎の息子だと言っている。間違いなら万に一つの奇跡ということだ」
宙に浮かぶドローン群のライトが俺を照らす。仕事帰りに、こいつらに追われた。倉庫街の片隅まで追い詰められると、先回りして黒服の男たちが待ち構えていた。
「俺はお前らなんて知らない」
「そうだろうとも。初対面だ」
いかついサングラスの男が、にいっと口を端を吊り上げる。
「我々の知己は、君の父親の方でね。その関係で、少し君に用がある」
「俺にはない。家に帰らせてくれ!」
「ドストエフスキーを知っているか。19世紀のロシアの文豪だ」
「いや……急になにを」
「彼には賭博癖があった」
意味がわからない。
呆気に取られていると、旋回するドローンが放つ強い光に眼を焼かれる。
「逮捕、収監、処刑の危機……およそ人生の辛酸を舐め尽くした高尚な性格の彼でさえ、賭けごとの狂熱からは逃げられなかった。言わんや、普通の人間をや、と言ったところだ」
「あんた、なにが言いたい」
「君の父親、木島耕太郎が君たちを賭けに使った」
こいつ、なにを言って……。
だって親父とはもう何年も。
「若い肉体は金になる。君も、君の妹も、幸運なことに見目麗しい。眼球、臓器、皮膚、骨、髪、爪の一枚に至るまで、闇市場では売値がつくことだろう。移植のためとは言わず、そういうコレクターも集まるのでな」
「親父が、俺たちの身体を勝手に……」
「そして負けた。酒とタバコに毒された、あいつの身体は生ごみにしかならなかったよ。今頃、鴉の餌だ」
バカなことをやった。また、またしてもだ。
でもそれだって、あのロクデナシが死んだのなら。
「出て行ったヤツの借金なんて俺たちは知らない」
「相続放棄か。悪いが、それは表のルールだ。私たちには関係ない」
懐から電子タバコを取り出し、黒服が燻らせる。
「タールも、ニコチンも入ってない。90まで生きたくてね。樹理くん、ドストエフスキーの賭博者を読んだことは」
「……ない」
「まあそうだろうな。義務教育を放っぽって、妹の面倒を見ていたのだから」
「妹に手を出したのか!?」
その問いかけに、男はもったいぶって応えない。
いや、保留することの効果を知っているのだ……。
「書面を読むのもつらかろう。私はヒューマニストでね。学識のない君にもわかるよう映像を準備してきた」
俺の向かいにある白壁へ、さっきまで俺を照らしていたドローンが映写を始めた。そこに見えたのは……。
「……ロボット?」
闘っている。無人島のような場所で、見たこともない人型の巨大ロボット同士が。格闘だけに飽き足らず、剣や、重火器を使って殺し合いのような様相を呈している。
「こいつらは、賭けの対象だ」
「ロボット同士で、競わせているのか」
「いいや、こいつらがやっているのは殺し合いだ」
戦局は、一方的になった。流れ弾で腕を失った一機が、もう一機に光の剣で滅多突きにされている。人と同様、糸が切れたように動かなくなる。
「……え?」
動かなくなったロボットにカメラが近づき、カットインが入った。
コックピットの中の様子が映し出されて、俺は思わず口を手で覆う。
「し、死んでる……子どもが!?」
「君にも、こいつに乗ってもらう」
「なにを言って……そんなことやるわけないだろう!!」
大声で叫ぶも、黒服は眉毛ひとつ動かさない。
かぶりを振って、それこそ聞き分けのない子どもに言い聞かすよう告げた。
「そいつは困る。君たちの父親、木島耕太郎の作った借金は莫大でね。君たちの身体を闇ブローカーに売った程度では、到底回収しきれないんだ。そこで私たち胴元にお鉢が回ってきたというわけさ」
「ふざけるな!! お前らなんて警察に突き出してやる!!」
ものも言わず、黒服の中のひとりが歩み出た。
拳を振りかぶると、思い切り俺の腹を殴りつける。
「……ぐふっ!?」
「痛い目に遭いたくなければ、わかるね?」
紫煙を吐き、饒舌な黒服が続ける。
「私たちはボランティアじゃない。君に教育を施してやる義理もない。殴りつければ拳だって痛むんだよ。今のは100万、君のファイトマネーから引いておく」
金だと!? 金なんてどうでもいい!!
俺は、殺し合いなんてやらない……。
「モチベーションが著しく欠如しているな。なら、私が上げてやろう」
映像が切り替わった。病院の廊下だ。移動ベッドにベルトで拘束された患者が、点滴を打たれながらオペ室へと運ばれてゆく。
その口から猿轡が外れて、叫ぶのを聞いた。
「お兄ちゃん!! 助けて!!」
「小鳥!!」
映像の中の小鳥が露出した腕に注射を打たれる。力の限り暴れていたのが弱々しくなる。やがて小鳥は、脇を囲む看護師たちとともにオペ室の中へと入っていった……。
「小鳥! 小鳥!! なにを見ている! やめさせてくれ!!」
「落ち着け。録画だ」
もはや涙目になって叫ぶも、黒服は冷徹そのものだ。
「やる気になって欲しかったんだ」
「……なに?」
「木島樹理くん、君がパイロットになるのは確定した出来事だ。小鳥さんにもそう伝えた。彼女からのエールがあれば、君だって頑張れるだろう? だけど断られてね。お兄ちゃんに殺し合いなんてさせないって、健気にも最後まで抵抗したんだ」
木島小鳥。妹。俺の唯一の肉親。
酒に酔った親父に殴られて、そんな親父から俺が守って、今日まで一緒に生きてきた。
俺の、一番大切な……。
「麗しき兄妹愛だと思わんかね?」
「……貴様」
「だから、別のかたちで協力してもらうことにした」
映像が切り替わる。眼を瞠る。
包帯でぐるぐるに巻かれた、人らしき頭部が見えた。
違和感には、秒で気づく。それには、あるべきものがなかった。落ち窪んだ眼窩、鼻、平たすぎる耳。包帯の間から見える剝き出しの歯。およそ包帯の巻き方でどうなるものでもない。そこには文字通り、あってしかるべき器官が存在しない。
「あ、ああ……小鳥……」
眼を限界まで見開いたまま、涙が流れる。
映像から片時も眼を離せないまま、膝からくずおれる。
守れなかった。俺の唯一の……。
「そう絶望するな。言っただろう。私はヒューマニストだと」
「……え?」
「小鳥さんは死んでない。君はプラモデルを買ってもらったことがあるか?」
「そんな話、なんの関係が……」
愕然とする俺の反応が、答えとしてお気に召したらしい。
黒服は、ふん、と鼻を鳴らして苦笑した。
「なに、予習だよ。ロボットのプラモデルは関節を同じくして、交換可能なものが多い。何種類ものプラモデルを集め、腕や足を交換し、自分オリジナルのものを作り出して遊んだりもできる。君がこれから操る、ディメンション・アーツなる巨大ロボットの機構もそれと同じだ」
「なにが、言いたい」
「我々は、小鳥さんを本体と600のパーツに分解した」
頭に血が上りかける。
食ってかかる前に黒服が言った。
「売り払ってはいない。大切に保管している。措置は完璧で、取り戻せば元通りつなぎ合わせることができる。この意味がわかるか?」
「俺が、ロボットに搭乗して勝てば……」
「そうだ。ひとつのパーツにつき10億円で買い戻すことができる」
法外な値段だ。
だがもっと法外な数字がこいつの口から飛び出す。
「君がこのロボット同士のデスゲームを最後まで勝ち抜けば、6000億円もの賞金が手に入る。借金を完済し、小鳥さんを完全な状態で取り戻せるんだ。至れり尽くせりとはまさにこのことだと思わんかね?」
悪魔だ、と思った。
こいつは悪魔だ。
だがそれ以上の勢いで湧き上がり、頭の中を埋め尽くすのは、たったひとつの疑問――。
「……何故、こんなことをする」
「何故、か。いい質問だ。君は通信デバイスを持っているか」
そんな金あるはずがない。静かに首を振った。
「だろうな。日々の生活で手一杯だ。日常の一部を晒して暮らす、配信者のこともきっと知らんだろう」
配信者? 自分の生活をテレビのように配信してるってことか。
そう問うと、黒服は会話を楽しむよう口の端を釣り上げた。
「そうとも。彼らは視聴者からおひねりを頂戴して生きている」
「……クズの生き方だ」
「まあそう言うな。たしかに働いているとは言い難いだろう。だがな、あるときそのパワーバランスが崩壊した」
俺が首を傾げるのを見るでなく、勝手に演説を続ける。
「視聴者の投げる金で生きるということは、その視聴者に命を握られているということだ。つまり、彼らを満足させねば生活できない。そのためになんでもやらなければならない。これは由々しき問題だよ。ときに死に迫る行為や、法を犯す行為をもせねばならなくなる。それが視聴者の望むことならね」
黒服は語った。
一大ブームとなった配信者たちは一線を超えたと。
強盗、強姦、殺人、自殺、各種犯罪率の上昇。
人を人たらしめる基礎的なモラルバランスの崩壊。
数字のために犯罪者集団と化した配信者たち。そして、想像し得る限りの刺激的行為を配信者に強要しておいて、それを影から視聴しほくそ笑んでいる一部の富裕層たち。
彼らはともに、大きな社会問題となった。
「人々の『見たい』という根源的欲求が肥大化して、世界を衰退させたのさ」
「その欲求を満たすために、俺たちみたいな生贄が必要ってことか」
やっと現状がわかった。
俺は今、見世物小屋の檻の中にいるのだと。
「さながら、現代を生きる剣闘奴隷と言ったところかな」
「……なんで、俺たちなんだ」
くずおれた姿勢のまま、拳を血が出るほど握りしめる。
だってこんなの不条理だ。あんまりじゃないか。
俺たちは生きてきた。たった2人で、助け合って。多くを求めたわけじゃない。大きなものが欲しかったわけでもない。望んだのは平穏な暮らし。俺がいて、小鳥がいて、一緒に笑えたなら、つましい暮らしでもしあわせだった。
「今までだって苦しんできた。なのに……こんなの不平等じゃないか!!」
「なるほど、君はその年で、人生の真実に辿り着いたわけだ」
「からかっているのか!!」
「いいや? ……これを見たまえ」
ドローンの映像が切り替わり、整備を受ける新たなロボットが映った。
「GX-84。通称カエサル。これが君の駆る機体で、A国の誇る最新鋭ディメンション・アーツだ。いいかな樹理くん、我々にとって軍事機密というものは門外不出という意味じゃない。とても高価という意味なんだ」
意味がわからず唖然としていると、黒服は上機嫌に続けた。
「わかりやすく言ってあげよう。君はとてもクジ運がいい。現存するディメンション・アーツの中で最強の機体を引き当てた。既に座組が行われた、最初の対戦相手との相性関係も抜群だ。君のオッズは1.1倍で、9割以上の人間が君の勝利に賭けている」
その言い様には、むしろ安心を覚えた。
俺はまた、賭けの材料にされているわけだ。
「あんた、高邁な理想のためにやってるわけじゃなかったんだな」
「慈善事業は主義じゃない。こんなスーツも必要ない」
上着の裾を指先で摘まんで黒服が自嘲する。
……ああ、そりゃあたしかにな。
「選択肢なんて、ハナから存在してなかった」
「やる気を出してもらいたくてね。君は勝って当然の駒なんだ」
己に振られた役割を、果たさせるための茶番劇。
「勝ち上がれば、君には道ができる。相手の機体が戦利品として手に入る。売り払うもよし、有用な部分を換装するもよし、自由に使うがいい。ただし、ディメンション・アーツは操縦者にダメージをフィードバックする。右腕がもがれれば君自身の右腕も動かなくなるし、痛覚だって発生する」
さながら、ライオンと戦わさせられる剣闘士。
傷を負い、血塗れで苦痛に顔を歪めなければ面白くはない。
「理解した。俺たちは、平等に不平等なんだな」
「カエサルを手に入れた君は優勝候補だ。小鳥くんを取り戻すことだって夢じゃない」
上っ面の慰めの最後に、黒服は指を鳴らして指示を出した。
再び白壁に包帯姿の小鳥が映る。今度は静止画像じゃなく動画だ。
震える顎が、唇のあった箇所が、俺になにか告げようとしてくる。
『……お・に・い・ちゃ・ん』
ブツッ、とまるでこと切れたように映像が切れた。
「聞いての通りだ。愛する小鳥くんともう一度楽しくおしゃべりがしたいなら、まずは声帯を取り戻したまえ」
妹の声が、好きだった。
小鳥の囀りのような、高く澄み切った声。
俺たちは、奪われた。奪われ続けてきた。俺が守らなければ、きっと小鳥はあのロクデナシに殺されていただろう。だから守った。命がけで。あいつがいなくなった後は、俺が働いて生活費を稼いだ。多くは望んじゃいない。人並以下でいい。ただそこに俺と妹がいる、そんな今日があって欲しかっただけなんだ。
なのに、何故だ。何故世界は、俺からすべてを奪おうとする。この上、小鳥まで奪おうとするんだ。世界は不平等だ。富める者を富ませ、飢える者をさらに飢えさせる。奪う者は奪い続けて、奪われる者は奪われ続けるだけか。それがこの不条理な世界の真実か。だったら、俺は――。
「勝てば、いい。そういうことだろ」
顔に手を当てた状態で、ゆるりと立ち上がる。
黒服は、意表を突かれた顔をした。表情を戻してにいっと笑う。
「そうだ、それでいい。勝ち上がり、優勝すれば君たちは――」
「これは貸しだ」
不思議そうに眉根を寄せる黒服の眼を、サングラスの上から睨みつける。
「俺は覚えている。今、この場で俺自身に誓った。ディメンション・アーツで勝ち上がり、立ちはだかるすべての機体を倒した後、お前を殺す」
周囲の他の連中が、警戒して俺と相対する黒服をガードする。
焦ったようなそんな動きを、当の黒服が手を上げることで制した。
「なるほど。どうも私は見誤っていたようだ。まさか君が殺意でモチベーションを高めるタイプだったとはね」
「怖気づいたか」
「まさか。存分に保ってくれたまえ。優勝した後、私を殺しにくるがいい」
殺意を放つ俺を挑発するように歩み寄ってくる。
差し出された掌。友好ではない、決して消えない敵対のための掌。
「私は胴元の代表、前条哲だ」
握手しようとする手を無視して、俺は前条の脇を抜ける。
自由があるわけじゃない。逃げられるわけでもない。今は、まだ。
前方に、リムジンが回されてきた。ドアが開き、俺を招き入れようとする。至って普通なはずの車内が、今の俺には開かれた魔物の咢に見える。
この先に待つのは凄惨な殺し合いだ。俺や小鳥と似たり寄ったりの境遇から搔き集められた、同世代の少年少女たち。己の大切を懸けて、全存在を懸けて、ディメンション・アーツで殺し合う。
生きるか、死ぬか。奪うか、奪われるか。
それらを峻別するのは古来からの単純な理屈。己の強さのみ。
リムジンの座席に腰を落ち着ける。ドアが自動的に閉まる。行き先は知らない。知る必要もない。俺は奪い返す。この理不尽な世界から。小鳥を。俺を。2人分の小さなしあわせを。
そのためなら、なんだってしてやる。
誰が相手だろうと負けやしない。絶対に。
やがて夜の闇を裂いて、車が走り出す。
高ぶる心臓と裏腹に、俺は静かに瞼を閉じた。
◇◇◇
楽園諸島。欺瞞の島。
そこで俺たちは、幸福な家族を演じる。
本島から島嶼への移動には、豪華客船が用いられる。表向きは富裕層向けのツアーと言ったところか。俺や、小鳥とは一生縁のないような華やかな世界。宿泊する美しい客室も、供される豪華絢爛な食事も、いったい何年分の生活費に当たるのやら。
「降りるぞ」
目的の島に到着すると、憮然と姉役の女が言う。
感情の欠片も見せない怜悧さにも、もう慣れてきた。
船内では多くの人間と擦れ違う。まだ幼い子どもを連れた、幸福を絵に描いたような家族。慈愛の笑みを浮かべる父親や母親の、真なる目的がなんであるかを、この幼子は知らない。
「船が着いた今からが本番だ。楽しそうにしろ」
「無茶を言うな。それに楽しそうにしてないのは、あんたもだ」
鹿児島の南西海上にある、なんたらとかいう島嶼。富裕層が長期休暇を過ごすために、一大観光都市として発展した。遊行施設ならなんでも揃っている。
姉役と2人でホテルへの道を歩いていると、同世代の少年と擦れ違った。俺は相手を見て、相手も俺を見る。ヒリつくような感覚は、ひょっとしたらそうなのかもしれないという疑念から生まれるものだ。身なりは品が良いが、俺たちは見たままの存在じゃない。
「……どうして、こんなことをする」
姉役に問う。白い帽子に、同色のワンピース。俗にいうサマードレス・ファッションの出で立ちは、氷の女にはあまりにも似合わない。
「落差だ。休暇中に出会った人間が、ディメンション・アーツのパイロットだったとしたなら、話の種になる」
「それだけのために、俺にわざわざこんな恰好させたってのか」
今の俺の服装は、どこぞの御曹司のようだ。
ディメンション・アーツのパイロットたちはみな、一般観光客に擬態している。
「似合っているぞ」
「あんたもな」
「ふざけているのか」
「あんたもな」
軽口の応酬も、堂に入ってきた。
俺の疑似顔族、愛郷沙織。GX-84カエサルの開発者の一員にして、このデスゲームの監査役でもある。俺がもし反抗したり、ゲームを遅滞させるような真似をした場合、即座に処罰する権限を有する。
ホテルの部屋に着くと、愛郷は俺に財布を投げてきた。
「自由時間だ。遊んでこい」
「俺ひとりでか」
「カエサルの調整がある。それともお前は、姉に手を引かれないと外も出歩けない不出来な弟なのか?」
闘いまでの数日間、俺は様々な幸福を眼にした。
俺とは縁のない、金持ちたちの日常。子どもにねだられてなんでも買ってあげる父親。足の悪い婦人に合わせてゆっくりと歩く老紳士。仲睦まじく腕を組む恋人たち。小さな妹の手を引く、世話焼きの兄……それは皮相。
街行く通行人のいったい誰が、このふざけたデスゲームの観客なのかを知る術はない。そう、時間がくるまでは。
頭が、揺れる。それが合図。ナノマシンの効果で、観客でない人の脳には耐えがたい睡魔が生じる。客船内で供された食べ物に仕込まれていたものだ。回避するには、ディメンション・アーツのパイロットとなるか、自らの手でアンチナノマシンの入ったアンプルを打つ必要がある。
母親と子ども、老婦人、恋人の片割れ、それに小さな妹。みな、これから始まるデスゲームの観客として想定されていなかった者たちだ。いったいどこに控えていたやら、街中に一様な制服を着用した係員が現れ、眠った彼らをいずこかへと運んでゆく。安全な場所で惰眠を貪る彼らの脳波を感知し、ナノマシンは現実の続きに相当する夢を作り出す。
「……良い夢を」
呟きは、もちろん皮肉だ。
彼らは自分が夢を見たと思わず、家族で楽しい時間を過ごしたものと思い込む。
今日は、俺の番だ。懐から仮面を取り出し、勝手知ったる手つきで自らの顔に被せてアノニマスを気どる観客たちが、観戦のために特設会場へと足を向ける。彼らの足並みから外れて佇んでいると、いつか見たリムジンが俺の背後から現れた。
「お時間でございます。木島樹理さま」
出迎えの執事の声を受け、俺の脳裏にも霞がかかる。
眠気は、ナノマシンの影響だ。ここからが移動の時間なのだろう。
島の地下には秘密の通路があって、周辺の無人島への移動が可能だと愛郷は言っていた。俺は今から、戦場へと移送されるわけだ。
目覚めると、正面に愛郷がいる。なにも驚くことはない。準備室でパイロットスーツに着替えると、訓練通りの手順を踏襲してカエサルに乗り込んだ。
『神経電荷接続、良好』
AIがチェック項目を読み上げる途中、愛郷から通信が入る。
全天モニターの前方に四角いウインドウが開き、顔が見えた。
「初陣だが、固くなるな」
「ああ」
「訓練通りやれば、お前の勝ちは固い」
「わかってる」
「健闘など祈らんからな」
「あんたの趣味じゃない……通信切るぞ」
言うまでもなく、既に向こうから切られている。
疑似家族でもなければ、随分と薄情な姉もいたものだ。
操縦桿を握る。掌を通じて、自分の定義が拡張してゆく感覚がある。ディメンション・アーツは、パイロットの意志を反映して動くロボットだ。難しい操縦技術は必要ない。必要なのは体感で動かせるようになる経験と、なによりも眼の前の敵と闘う強い意志だ。
俺は今日、人を殺す。
妹の、小鳥のために。
ディメンション・アーツの訓練を受けたこの1月、一瞬たりとも頭の中を離れなかった事実がある。
この闘いを始めれば、俺の両手は血に染まる。人を、俺と同じ境遇の同類を殺し、奪うことで小鳥の明日をつなぐ。
眼を閉じ、開く。木々の緑に、青い空。黒々と飛ぶ虫の群れようなものはすべて撮影用ドローンだ。この闘いの一挙手一投足をあまさず特設会場に届けるため、加えて何基もの人工衛星が宇宙から戦場を見下ろしている。
この闘いは、娯楽だ。
特設会場で、画面越しに見ている連中からすれば。
強烈な刺激への欲求。視聴者たちはもはや、配信者を煽って道を外させる程度では満足することができない。もっと過激な映像が、ドラマが、魂の震えが欲しい。そこに供された生贄が俺たちだ。大切なものを取り上げられ、こんなロボットに乗せられて、殺し合いを強要されている。そこにある生の苦しみが、悲鳴が、怒号が、嗚咽が、すべてあいつらを楽しませる材料となる。
やがて、地下基地からカエサルを運ぶ昇降機が上がり切る。数百メートル先の正面に、俺の闘うべきディメンション・アーツと、そのパイロットが現れた。
今だけは、心中の物思いはすべてノイズ。だとするなら。
「木島樹理……カエサル、出撃する!!」
万感の思いごと、すべて後方へ振り切るように大声で叫んで――。
ついに賽は、投げられた。
導入のみのお話でしたが、いかがだったでしょうか?
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ロボットモノなんて初めて書きましたよ…