第1章 第1話 レールの上
敷かれたレールの上を歩く人生なんて嫌だと叫ぶ大学生っぽい青年。どこかで聞いたような歌詞とメロディを吐く彼に一瞥もくれず、俺は高校へと歩いていく。
人通りが少なく歩きやすい今の時間は朝の11時。敷かれたレールの上を歩いている学生は学校に通い、社会人はオフィスで働いている頃だろう。そんな普通の人たちになりたくないと、彼は必死に叫んでいるのだろう。
遠くなる歌声を聞きながら俺は強く思う。敷かれたレールの上を歩いていける人生を送りたかったと。
俺もかつてはあのミュージシャン崩れのようなことを思っていた。教育熱心な両親による勉強への強制。朝も昼も夜も勉強漬けの日々。友だちと遊びたかった。部活に熱中したかった。気になっている女子だっていた。
青春を全て捨てて、地元で一番の進学校に入学できて。そこで俺は、落ちぶれた。
完全に勉強についていけなくなった。うざいくらいに口を出していた親は興味の対象を優秀な妹に移した。かといって優秀なクラスメイトたちが遊びに付き合ってくれるわけもなく、教師はやってもできない俺を放置した。
「おはようございまーす」
4限の授業中に登校してきた俺に対し、クラスメイトは教室から視線を移さず、教師も話す言葉を止めることはしない。
これが俺の日常。これが俺の人生。敷かれたレールから脱線した俺は、元に戻ることもできずこうして燻っている。見放され、見捨てられ。きっと誰の視界にも映らず、俺の人生は――。
「遅刻ですよ、如月くん」
あぁそうだった。こんな俺にもまだ目をかけてくれる奴がいたんだった。
「遅刻は悪いことです。悪いことをしてはいけませんよ」
窓際の最後尾に座る俺の、隣の席に座る女子。流水朔夜。俺とは正反対の人間だ。
学年一の成績に加えて流水水産という有名水産会社の社長令嬢。容姿もよく、長く綺麗な黒髪に皴一つない制服をかっちり着こなす姿はまさにお嬢様。敷かれたレールの上どころか王道を突き進むような、完璧すぎるほどに完璧な人間だ。
「まぁ悪いことはしちゃいけないよな」
「でしょう? 気をつけてくださいね」
俺が悪い。流水が正しい。だが俺は彼女が苦手だった。いや、だからこそと言うべきか。光はいつだって眩しいものだ。そして何より、光には害虫が群がる。
「流水、余計なものに構うな」
教師がようやく苦言を呈す。遅刻した俺ではなく、俺に話しかけた流水に。
「世の中には二種類の人間がいる。成功する人間と、失敗する人間。歳をとるに連れ前者から後者へと落ちる数は増えていき、這い上がる方法はない。落ちた人間に手を差し伸べるとお前まで引きずり込まれるぞ。誰からも見向きもされない奈落の底に」
教師の言っていることは真理だ。一度レールから外れてしまったら、元の道に戻る術はない。道のない荒野をどこに続いているかも知らずに進むだけだ。もっとも……。
「さすが経験者は言うことがちげぇや。もっと教えてくださいよ。這い上がれない失敗した人間のこと。ずいぶん詳しいんでしょうから」
「あぁ!?」
適当に煽ると、ようやく名前も覚えてない教師が俺に反応を示してきた。こういう奴が一番気に入らないんだ。光にたかるしか能のないくせに、まるで自身が光っていると勘違いしている害虫が。
「いくらほざこうとお前が落ちこぼれなのは変わらないんだ! せいぜい満喫してろ! 成功者と同じ空間にいられる高校生活を!」
「あ、だから教師になったんすか? 自己紹介乙っす」
「如月央喜ぃぃぃぃぃぃぃぃっ!」
俺の名前を叫ぶ教師に手を振り教室を出る。自分から煽っといて煽られたくらいでキレるなよ。同じ失敗者として恥ずかしくなる。
そう。所詮俺もあの教師と同じだ。争いは同レベルの人間としか発生しないとはよく言ったものだ。
「今のところは、な」
遅刻したくせに早退を決め込んだ俺が向かったのは学校の屋上。1年前、高1の頃に鍵を破壊して入れるようにしておいた俺だけの秘密基地。真面目ちゃんばかりのこの学校で、本来禁止されているここに来る奴はいない。だから俺は。
「さて、勉強するか」
屋上の壁にもたれながら参考書を広げる。授業をサボって何やってんだと思われるかもしれないが、俺にはこれしかないのだ。
見返してやる。俺一人の力で。家族も教師もクラスメイトも全員。俺のことを見下した連中の鼻を明かしてやる。それだけが元のレールに戻る唯一の道だ。
「……ん?」
ひたすらに勉強に熱中し、昼休みの鐘の音が聞こえて数分後のことだ。突然扉が優しく開かれ、一人の女子生徒が屋上に入ってきた。彼女は扉の横にいる俺に気づかず、屋上の中央付近に立つ。あれは……。
「流水……?」
あの品行方正な流水が昼休みとはいえ立ち入り禁止の屋上に来るとは考えづらいが、来ているのだから受け入れるしかない。にしてもなんで……?
参考書から顔を上げていまだに俺の存在に気づいていない流水を見ていると。
「!?」
突然彼女が制服を脱ぎ始めた。
いや、脱ぐまではいかない。制服のリボンを外し、ブラウスのボタンを胸元まで開け、膝丈のスカートを折ってだいぶ短くした。やはり信じられないが、実際に起きてるからな……。彼氏と待ち合わせでもしてるのか……? だったら席外すけど……。
「よし……!」
だが彼女が取った行動は、自撮り。ひたすらスマホで自分の姿を映し、指でハートを作ったり手で頬を抑えたりして自分の容姿の良さを際立たせていた。何をしているのかはわかったけど、何でこうなっているのかはわからない。何も言えずただ呆然とその姿を眺めていた時だった。
「……ぅえ!? ななななんで如月くんが……!? ちちちちが……! これはちがくて……!」
ようやく俺の存在に気づいた彼女が顔を真っ赤にして手足をバタバタと動かして焦りだした。だがそれも束の間。
「ば……ばれちゃったのなら仕方ないです……しょうがないね……」
顔を真っ赤にさせたまま、妖艶な笑みを作ると俺に迫ってきた。
「じ……実は私ギャルなんですよね……!」
「いや違うだろ」
「清廉潔白なお嬢様は仮の姿……! ほんとは毎晩遊びまわっている悪なんです……!」
「いや違うだろ」
「この姿が知られたっちゃあ見過ごせねぇですね」
「いや言葉遣いが違……!?」
焦りすぎて変な言葉遣いになっていることを指摘しようとすると、座っている俺の顔の横にニーソックスに包まれた脚が突き刺さる。流水が右脚を伸ばして変な形の壁ドンをしてきたのだ。
「……パンツ見えてるけど」
「み、見せてるんですけど!? ギャルにとって下着の一枚や二枚恥ずかしがることじゃ……!」
「いやギャルはこんな清楚なパンツ履かないと思う」
「清楚系ビッチなんです!」
「自称するんだ……」
「そうなんです! だから黙っててもらうためにそ……その……一発ヤらせて……!」
「わかった」
「きゃっ!?」
彼女の腕を引っ張り、俺の脚の上に乗せる。ちょうど顔面が目前まで来たのでそのまま顔を近づけて……。
「ぁぁぅ……」
そこで流水がショートした。紅潮した顔をオーバーヒートさせて、くらくらと揺れている。そんな彼女を俺の横に座らせ、訊ねる。
「で、何がしたかったの?」
「そ……その……ギャルに憧れてて……。でもこんな姿誰にも見せられないので……なんというかその……」
「ギャルねぇ……。何がいいのかわかんないけど」
「かっこいいじゃないですか! なんていうか青春してるって感じで……家でも学校でもいい子してるのに疲れたんです!」
「まぁ気持ちはわからなくもないけど……」
「親に敷かれたレールの上を歩くのは嫌なんです!」
ありきたりな、だけど本心からの叫びを聞いて。俺の頭はひどく冷静だった。
「気持ちはわかる。遊びたいよな。部活とかしたいよな。恋愛もしたいよな」
「そうなんです! 親や先生の言うことを聞いてたら幸せになれるっていうのはわかってるんです。でもそんなわかりきった幸せなんていらない! 一度きりの人生! 思う存分楽しみたいんです!」
「でも幸せになれるんだ。だったらいいだろ何でも。高校生活三年間を犠牲にしてその先70年を幸せに過ごせるんだ。こんな楽なことはないだろ」
「そうですね……きっと私は有名大学を卒業して、親の会社に入って、誰とも付き合うことなくお見合い相手と結婚して、子どもを作って、好きでもない夫に尽くして、幸せな老後を送って、みんなに囲まれて死んでいくんです」
「幸せな人生じゃないか」
「幸せなだけじゃないですか」
意見が合わない。当然だ。過ごしてきたは似ていても、結果の今が真逆なんだ。意見が合うはずがない。俺は流水のような幸せを望んでいるし、彼女は……。
「だから私、如月くんのことを尊敬してるんです! 制服を着崩して、平気で遅刻してきて、先生にだって文句を言えるような生き方が、すっごいかっこいいと思うんです!」
さっきとは別の興奮を見せながら俺の手を握ってくる流水。だが俺の感想は変わらない。
「悪いことは言わない。ギャルとか悪とか……そんな馬鹿な生き方に憧れるな。お前はそのまま親の言いなりになって幸せになればいいんだよ」
「絶対に嫌です! ……ん?」
俺の手を掴んで放さない彼女の視線が、俺の足元に転がっている参考書の束に移った。
「なんで勉強なんてしてるんですか……? 授業サボっといて……」
「ほっとけ。俺は敷かれたレールの上を歩きたいんだよ。勉強していい大学入っていい会社に就職する。それがこの日本での最高の幸せだろ」
流水が捨てようとしている未来が心の底からうらやましい。彼女もまた俺と逆ながら同じことを思っているのだろうが。
「ならこうしましょう!」
俺とは正反対で、でも似ている彼女の次の発言は。簡単に予測できた。
「私は如月くんに勉強を教えてあげます。こう見えて学年一位ですから任せてください。その代わり如月くんは私に悪の道を教えてください!」
「断る。だいたいなんでそこまでしてレールから外れようとしてるんだよ」
流水の気持ちはわかるが、ここまで頑なになる理由がわからない。それを訊ねると、彼女は答える。
「私、海鮮が苦手なんです」
彼女の実家は大手水産会社。きっと日頃から海鮮系の料理が出されているのだろう。
「そりゃ辛いな」
嫌いな食べ物を食べ続ける人生。確かにそれは嫌だなと思い、俺は仕方なく流水に協力することにした。