開巻劈頭
「なかなか良い陣形じゃねえか……」
その男は――風貌がよろしくなく、また傍目からは冴えなく見えた。
はっきり言ってしまえば、醜く見苦しい男である。
しかし、その目は爛々と輝き、思慮深い者ならば大志を抱いていることが分かった。
まるで浮浪者のような身なり。冬だというのに随分と薄着だった。
頭に笠を被っているが、ところどころ破れてほつれていた。
彼は小舟を器用に操りながら――本陣へと向かっていた。
目的は総大将であり、国の大部分を支配している、乱世の奸雄――曹操に会うためだった。
一見、ただの浮浪者にしか見えない――良くて在野の士だろう――を訓練が良く行き届いた曹操の兵士が見逃すわけがない。
そう彼は考えた上で、入り込んだのだが――予想は当たった。
「貴様! 胡乱な奴め、何者だ!」
小舟を陣の近くに泊めたところで誰何される。
四人の兵士。だが顔色は優れない。
男はやはりかと思った。
「ふははは、この俺様に何者かと聞いたか――」
四つの槍先を向けられる中、醜い男は小舟を下りてにやりと笑った。
「俺様は龐統! 龐統士元! かの高名な水鏡先生に鳳雛と称された男だ!」
◆◇◆◇
龐統はすぐさま、曹操のいる本陣へ通された。
「おお! そなたがかの有名な龐統殿か!」
「お目にかかれて光栄です――曹丞相」
身なりの汚い龐統と対照的に、曹操の姿は奢侈で華麗なものだった。
庶民には一生纏うことのできない布を贅沢に使った服。
装飾品も目がおかしくなるほどの美しい宝石であしらえていた。
顔もまた覇者に相応しい威厳に満ち溢れていた。
「それで、龐統殿。一体何の御用ですか? 仕官を求めてのことでしたら、大歓迎です」
「仕官を求めようにも、既に席は埋まっている様子。私の出番などないでしょう」
人材が揃っているから不要でしょうという意味である。
曹操は「ご謙遜なされるな」と大笑いした。
「水鏡先生から『臥龍か鳳雛、どちらかを手に入れれば天下がとれる』と言われたお方だ。その才は我の配下も凌ぐのでは?」
「在野の身ですから。それよりもふと気になったことがありまして」
龐統は声を落として「あまり兵士たちの士気が高まっておりませぬな」と告げた。
曹操は笑みを消して「うぬぬ、流石ですね」と応じた。
「我が軍の兵士は北方の出身。ゆえに船酔いが酷く、さらに疫病が蔓延しておりまして」
「そうでしょうな。実のところ、私がここに来たのは策を授けるため」
曹操は椅子から立ち上がって「何か良策でもございますか?」と問う。
「ええ。船が揺れるのであれば――揺れぬようにしてしまえばいい」
「はあ……揺れぬように?」
「船同士を鎖で固定して、塊にしてしまえば良いのです」
曹操は「ああ、そうか」と頷いた。
「一隻ならば揺れも酷いが、連結させて隣り合わせれば――揺れは最小限となる」
「ご明察です」
「良き策を授けてくださり、ありがとうございます。これ、礼を――」
近くの者に礼金を持ってこさせようとするのを龐統は止めた。
「褒美など要りません。既にいただきましたから」
「既にいただいた?」
「ええ。献策が大志ある方に受け入れられること――」
龐統は醜い顔を歪ませて――笑った。
「――そして策が成就することが策士の何よりの褒美でございます」
◆◇◆◇
「やい、貴様! 丞相に策を授けたつもりだろうが――その実、己の策を成功させるために来たのだろう!」
「な、なにぃ!?」
龐統が小舟に乗って帰ろうとするとき。
後ろから羽交い絞めされてしまった。
しかも自身の魂胆を見破られている。
「な、何を馬鹿な――」
「鎖でつながせておくことで、容易に逃げられなくすることが目的だ――炎から!」
「くっ――」
「つまり、貴様は我が軍に火計を仕掛けようとしている!」
そこまで自分の策を見破られた衝撃で龐統は膝から崩れ落ちそうになった。
身体中から汗が噴き出る――とそこで、後ろの人物が笑った。
「あっはっは! 冗談だよう。君ってやつは――予測不能な状況になると汗をかくねえ」
「うん? その声は……」
羽交い絞めから解放された龐統は後ろを振り返って――あっ、と驚く。
「徐庶くん! 徐庶くんじゃないか! 懐かしいなあ!」
「久しぶりだねえ――龐統くん」
徐庶と呼ばれた男は龐統とこれまた対照的に地味な男だった。
個性というものが無く、特徴も無かった。
顔立ちは整っているものの、美男子とも言えない。
しかし知性は感じられる、不思議な相貌だった。
「風の噂で聞いたけど、君は曹操の配下になったそうだな」
「まあねえ。卑怯な手を使われちゃったけど」
「それも聞いた。ご母堂のことは――残念だった」
心からお悔やみ申し上げる姿に徐庶は「ありがとう」と礼を言った。
「それで、俺様をどうする? 捕らえるか?」
「まさか。友人を売る気なんてないよ」
「じゃあなんで――」
「私以外、気づいていないって知らせたかったんだ。単純な奴らだよ」
二人して大笑いすると「実は相談があって」と徐庶は切り出した。
「君の策は成就するとなると、私の身が危うい」
「そうだろうな。だったら涼州の馬騰が攻めてくるみたいな噂を流して、その対策に行くって言ってしまえばいい」
「なるほど。他の連中はこの戦いで手柄を立てたがっているからね。通るだろう」
龐統は「その隙に劉備玄徳のところへ帰ったらどうだ?」と薦めた。
「君のご母堂もそれを望んでいるさ」
「分かっているけど、曹操には禄を貰っているし……」
「そんな一時の恩で従っていいのか? それこそ草葉の陰で泣いているんじゃないか?」
龐統は「俺様は劉備と何のかかわりもない」と徐庶に告げる。
「そんな俺でも、正しいことと間違っていることの違いは分かる。君臣の恩と母への忠孝。二つもあるのにどうして劉備の元へ帰参しない?」
「…………」
「ならもう一つ、策を授けてやろう」
龐統は徐庶に耳打ちした。
徐庶は「分かった。やってみる」と了承した。
「ありがとう、龐統くん。恩に着るよ」
「俺様こそ、黙っていてくれてありがとうな」
二人は別れて、龐統は小舟で曹操の陣から去っていった。
その後ろ姿を見た徐庶は呟く。
「鳳雛、羽ばたくか。赤壁の炎をもって――」
◆◇◆◇
曹操の陣の対岸に位置する――呉の陣。
一人の男が夜空の星を見つめていた。
彼は羽扇を持ち、白い着物を纏っていた。
顔は面長、どちらかというと馬のように長い。
もしくは為政者の前に現れる龍のような――顔立ち。
「こ、孔明殿。本当に風が来るのですか?」
男――諸葛亮孔明に話しかけたのは呉の軍師である魯粛だった。
気弱だがしっかりとした意見を持つ魯粛だったが、北西の風が東南の風になるとは思えなかった。
「今宵は、良き兆しを目にしました」
孔明は羽扇を口に当てて――微かに微笑む。
「一つ。私の好敵手がやがて主君の陣営に加わる」
「はあ……好敵手……」
「そしてもう一つは――失った者が帰ってくる。大きく成長を遂げて」
「そ、それよりも、風は――」
孔明は「東南の風は必ず吹きます」と魯粛に告げた。
「そのための準備を怠らぬように」
「……信じますよ?」
魯粛がその場を去ると孔明は再び星を見上げた。
そして――
「私と彼らが揃えば――我が主君に天下を取らせることが可能となる」
その呟きは風に流されて、彼自身にしか――聞こえなかった。
◆◇◆◇
羽ばたこうとする鳳雛――龐統。
主君から離れた不遇な男――徐庶。
そして起き上がろうとする臥龍――孔明。
三人が今、一人の男の元へ集まる。
それはこの世が乱世で国が三つに分かれようとする時代の話だった。