忘れ去られた古時計
パソコンやスマートフォンで時間を確認することが当たり前なこの時代。私の家には、大きな古時計がある。
それは玄関のすぐ近くにあって、フローリングの上に鎮座していた。
だいたい二メートルと少しくらいだろうか? 幼い頃の私は、そりゃあもう大きいものだと錯覚したものだ。
星とか、ビルとか、タワーとか、そういう類のものと同じように思っていた。
年が経つにつれて、そういうことは思わなくなったけれど――というか、これを星やらビルやらタワーやらと同じように扱うのは、少し無理があるだろう。
まぁ、それだけ幼かったということだ。その認識は改めていった。
――同時に、思い出も忘れていった。
これがどんな音を鳴らすのかさえ、もう覚えていない。
ゴーンゴーンだったかもしれない。
コーンコーンだったかもしれない。
案外、カチっ、カチっ、だったかも。
いたずらをして怒られたような気もするし、ただじっと眺めていたような気もするし。
それが一人だったか、それとも隣に誰かがいたのか。
今となっては――古時計が壊れてしまった今となっては、もう、何も思い出せない。
気付いたら、その振り子は動かなくなっていた。時計の針も十二から進まない。
記憶は――古時計がこうなってしまった時から、止まったままだ。
果たしてそれは、いつからだったか……。
両親に訊くことはできなかった。母は離婚していておらず、父は私が十歳の頃に他界していたから。
けれど、あの音を。
もう一度振り子が振られる、あの古時計の音を聴けば、何か思い出せるかもしれない。
――蘇るかもしれない。
別に、大切な何かを忘れているつもりはなかった。特別な思いがあるわけじゃなかった。
ただふと――気になったのだ。
ああそれは、どんな音をしていたのかと。
どんな風に、動くのかと。
「というわけなんですよ。歯車屋さん」
「なるほどそういうわけですか。お客さん」
ドライバーで古時計の円盤を外し、歯車などの部品がごちゃごちゃとしている内部を点検する歯車屋さん。
この古時計を直すため、休日、用事がない日を選んで彼に来てもらった。
「直せそうですか? その古時計。かなり古いものですけど」
「それはまだなんともですが……へぇー。古いって、具体的にはどれくらい?」
台に乗って、歯車屋さんは道具を手に内部の部品を弄る。素人の私には弄っているようにしか見えない。
「ずいぶん昔の記憶なので朧気ですが、父が六つの頃にはもうあったらしいですよ。何でも、祖父が趣味で作らせたものだとか何とか。もう四十年以上も昔になりますね」
「確かにこれらの部品は四十年も前のものだし、それくらいに古ぼけて錆びれている。あなたの父親の言うことは正しい」
「はぁ、そうですか」
父の言うことを疑っていたわけではないし、正しかったとして何かあるわけでもないが。おかしな言い方をする歯車屋さんだ。やはりこういう特殊な職業をしているだけのことはある、ということだろうか。
そう、歯車屋さんの職業は特殊である。直したくて必死に調べたとはいえ、よく彼にありつけたなと思うくらい珍しい。
「それより――歯車を修理するだけで、本当にこの古時計は直るのでしょうか?」
歯車の修理はもちろん、製造、点検、デザインといった、歯車に関すること全般を扱う店――。
彼はその、個人で経営している歯車専門店の唯一の業者さんである。
よくそんなマイナーな職業で生きていけるな。
「だからまだわかりませんって。でもそうですね、今のところ望みはあると思いますよ。歯車が中心の仕掛けになっているみたいなので。……ところで、時計専門店には頼まなかったんですか? いくら古いものだからといって、受け付けるところはあるはずですよ」
「先週見てもらいましたよ。ですが、この古時計は時計の構造をしてないからできないとさじを投げられました」
だから歯車屋さんに頼むことにしたのである。それ以外にどこに頼ればいいのかわからなかったのだ。これでダメだったらどうしよう。
業者さんから時計でないと告げられた時は、それはもうびっくりしたものだ。これまでずっと古時計だと思い込んでいたのだから。
だが――
「ふーん、やっぱり」
彼の反応はたったそれだけで、驚いた様子はなかった。確認程度の問いだったようだ。
「それにしても、歯車屋さん。歯車専門店なんて儲かるんですか? 探すのにとても苦労しましたよ?」
「失礼ですねぇお客さん。あなた彼氏いないでしょう。儲かっている方ではありませんが、生活には困らないくらいには稼いでますよ」
「そうでしたか……これは失礼しました。彼氏ならいましたよ、高校時代に少し。数ヵ月で別れましたが」
「――まぁ、だいたいわかりました」
そう言って、歯車屋さんは時計からなぞるようにしてすぐ隣で見守っていた私に視線を移した。
「わかったって、私の交友関係ですか?」
「この古時計のカラクリですよ。あなたの交友関係なんてどうでもいい」
調子を崩さず、表情を変えずに、台から降りる歯車屋さん。膝を折って床に置いていた道具箱にドライバーなどを仕舞う。その際に、なぜかはわからないが、私が立っていた隣の壁をレンチで二回ほど叩いていた。
それから立ち上がって軽く身なりを整えると、ふと気付いたように声を上げる。
「おや? お客さん、ロケットペンダントをつけているんですか?」
とても今更である。
「あ、はい。父の写真、これしかないもので。失くさないようにいつも持ち歩いているんです」
「へぇー……」
その時彼が、意味ありげに口角を上げた理由が、私には皆目見当がつかなかった。
「それで、古時計は直りそうですか?」
そう尋ねると、歯車屋さんはあっさりと頷く。
「はい。取り外したこの歯車の錆びを取り、正常に回るようにすれば動くと思いますよ。面白い仕掛けなので楽しみに待つといい」
「仕掛け……?」
何のことだろう。一時間経つごとに鳩が出てきたりでもするのだろうか。この年になるとそんなものではピクリともしないが。
「では、代金は後日に」
「え、後日? たった一日でいいんですか?」
「そりゃあまぁ、ゼロから作るならまだしも、再び使えるようにするだけですから。そこまで時間かかりませんよ」
いや、そうではなく、他の歯車作業で忙しかったりは……。
――と、言いそうになったが、やめた。
何も口を挟まない私に、彼は「それでは」と会釈して、その日は帰っていった。
それから、次の日。
「長年この職業に携わっていますけど、実際にこんなカラクリ作る人いるんですねぇー」
「そうですか」
「あんまり驚きすぎて腰抜かさないでくださいよ? 面倒事は御免なので」
「驚きませんよ。大抵のことでは」
「あ、できましたできました。いいですか? この円盤に注目して、覚えてください。手順があるので」
「……はぁ」
何の手順なのだろう。ともかく、言われるがまま彼の手元を覗き見る。
数字が書かれていて、針が十二で止まっていて、その下の振り子は動かない……時計でないと言われても、古時計にしか見えないが。
「いいですか? この長い針を一周させるんです。くれぐれも反対に回さないでください。何が起こるかわからないので」
「はい」
頷く私を確かめると、歯車屋さんは長い針を時計回りに動かす。同時に短い針も一に向かって動き出し――長い針が再び十二を指すと、振り子が振られた。
ゴーンゴーンと……いや、これは、ゴゴゴゴゴッ……?
「うわっ!」
呆気に取られていると、すぐ近くの――大きな古時計の右側の壁が動き出した。下へと続く階段が姿を現し始める。
えっ!? そういうっ!? うちってそんなロマン溢れた家だったの!? 全然気付かなかった……。
「いやー、面白い仕掛けですよねー」
ニコニコと、歯車屋さんが呑気に眺めている。私を眺めているのか、それとも壁の方なのかは区別がつかない。
しかし……なるほど得心いった。そりゃあ時計屋さんがさじを投げるわけだ。
一分ほどだろうか? それくらいで、音が止む。
「あ、終わったみたいですね。この階段、降りてみるのでしょう? せっかくなのでご一緒させてもらってもいいですか?」
「は、はい……」
未だに衝撃が抜けきれない唖然とした私に、彼はそんなことを頼むのだった。
階段は少ししかなく、明かりはなかったけれど廊下からの光だけで事足りた。
降りた先には扉が一つ。だが重さはそれほどないので苦も無く開けられて、部屋の中には電気が通っていてつけられる。
かくしてそこに――その部屋にあったものは――。
「写真……」
白黒からカラーまでの――様々な『記憶』だった。
私の中にはない。けれど、確かに父や、祖父母の中にあったモノ。
楽しかったこと。嬉しかったこと。悲しかったこと。悔しかったこと。家族。友達。親友といった――誰かの、大切な確たる思い出。
何度もシャッター音を鳴らしたのだろう。何度も印刷して、壁に貼ったのだろう。
部屋は写真に溢れていた。なのに、ちゃんと空白のスペースも用意されていた。
きっと私のために用意された、私だけの空間……。
そのスペースの端には、赤ん坊の写真が飾られていた。私の父と母も映っている。二人とも、笑顔だった。
私が生まれてきたことを喜んだような、そんな、顔。
こんな所にあったんだね。父さんの写真。
「良い場所ですねーここ。あの古時計、直せてよかった」
「はい……本当に、ありがとうございます」
あの古時計から鳴った音は、ゴーンゴーンでも、コーンコーンでも、カチっカチっでもなく。
ズズズッ……という、扉が開く音だった。
こりゃあ、何も思い出せないわけだ。




