世界の終わりは寒いから、シチューとパンをあたためた。
「世界の終わりってやつは、もっとうるさいものだと思ってたよ」
暖をとる。火の手はとっくに居住圏を侵しているから、火種には困らなかった。
今にも崩れ落ちそうな瓦礫の山。そのふもとで、夜の底冷えで真っ赤にかじかんだ手を暖める。
火からこぼれる明かりに鉛色が反射する。意味なく使い果たされた銃弾が、虫食ったどんぐりのように転がっていた。それが辺り一面散らばる冬景色。
「穏やかなものですね」
ぼうぼうと燃える火を眺めながら、女は平易な口調で言った。――旧知だが、彼女の名前を思い浮かべることもしたくはなかった。
「今さら取っ組み合いの喧嘩をしようってノリでもないだろ」
「猫も犬も見当たりませんものね」
「最後がおまえとふたりっきりなんて、どんな嫌みだよ」
「運命ですよ。私とあなたは、運命の赤い糸で結ばれていると、何度も伝えたじゃないですか」
「空恐ろしいね。ひとの彼氏刺しておいて、そんなことを言える神経がよ」
染髪など毛先ほども考えたことがないような濡れ羽色の髪が、病的に白い頬を撫で上げる。腰まで長さのあった髪は、今は肩のあたりで切りそろえられていた。
顔を上げた彼女の微笑は、いつかに見た聖母像のように優しげだ。炙り出される真意などないように、焚火の恩恵を受け取っている。
赤色がよく似合う、と思った。
だから、今の彼女が羽織る真白のコートは、昔に抱いた印象だ。砂埃でわずかに煤けた色が、時間の経過を感じさせる。
「……あれから四年ぽっちか」
「いいえ、十年ですよ」
「あたしは終わらせたつもりだったよ」
「終わるものなんてありませんよ。始めたことは、ずっと、ずーっと続いていくのです」
「つっても、世界のほうが先に音を上げたみたいだけどな」
景色を見渡す。とはいえ、どこも似たような状況だ。
前触れもなく、あっけなく、この星は命を放棄した。
道路はとっくに陥没して、その上に積み重なった建築物の残骸が足場を形成している。そんな道と言えぬ道を歩き疲れたこの場所で、この女と再会した。シンデレラストーリーとしてはできすぎだ。
銃弾のひとつを指でつまみ上げて、手のなかで転がす。恐慌の最中に行き場もなく吐き出された弾丸は、自分たちの末路のようだ。
銃弾を火に投げ捨てる。特に何も起きなかった。
「なんで滅びたんだかね」
「すぐに理由を求めるのは、悪い癖だと思いますよ」
「理由を受け入れないおまえには言われたくないよ」
「納得できないことは受け入れられません。当然のことでしょう」
「十年だ。大人になるには、充分な年月だろ」
「十年間、私の時計が動いたことはありません」
そう言って彼女は、コートの内ポケットからこじんまりとした腕時計を取り出した。
秒針と分針が、まるで犯行時刻を記載するように止まっている。それもそのはずで、ガラスが割れて、文字板が剥き出しになっていた。修理に出すほうが高くつきそうな、安っぽい作りだ。
「よくそんなの残ってたな」
「きちんと隠しておきましたから」
「こんなになった世界でも、見つけられる場所にか」
「聖母の加護は、私に味方してくださいました」
「……くだらねえ。おまえも、あたしにも、そんな権利はねえだろ」
「いいえ。ただただ愛に殉じただけの行為を、だれが咎められましょう」
首を上げて、女から視線を外す。
付き合いきれないと思った。それを選んだはずなのに、会話を選んでいるのは、人恋しさのためか。
世界の終わりは寒かった。
吐いたため息は白く濁って、星の綺麗な夜空に溶けていった。
煙草を吸いたくなったが、あいにく切らしていた。機能を失った小売店からまっ先に姿を消したのは、飲食物と煙草だった。火はそこら中にあるので、ライターには手が付けられていなかった。
体の芯から震えが広がる。二日前に飴玉を溶かしたのが最後の食事だったが、あれはカロリー換算してもいいものか。水は今朝飲み干したぶんが手持ちの最後だった。
せめて肺腑に熱が欲しかった。立ち昇る火を吸い込めば叶うだろうか。
「煙草は、もちろんありませんが」
と、女はまるで心を読んだように言葉をかけてきた。
目線だけを向けると、壊れた時計を腕に巻いていた。本当に、十年前から時間が止まっているようだった。
そんな心境に至ったのは、見せつけるように手を伸ばしているからだ。もっとも、そこにあるのは時計だけではなかった。
持参した大きめのリュックサックを、彼女は差し出していた。中身をあたしは知らない。知りたいとすら思わなかった。
だから、その言葉は幻聴か何かの類だと考えたかった。
「世界の終わりは寒いので、シチューとパンをあたためませんか?」
退廃した景色とは正反対な、牧歌的な提案だ。
十年前の記憶が、それを真実だと告げている。
良くも悪くも空気を読まない、世間擦れのしていない気風が彼女にはあった。
「……仮に、その中身がシチューとパンだとして、それをあたしが受け取ると思うか?」
「受け取ってくださいます。だってあなたはお優しいから」
含みなく、彼女は抱きしめるように言った。
なんの濁りもない純粋な瞳から、あたしは逃れられない。
「それにお忘れですか? お約束だったはずです。いつか手料理を食べさせてくれると。ねえ、お姉さま」
「二度とその呼び方をするなって、言ったよな」
「言われました。納得がいかないので、従いません」
またしてもため息が出る。今度は、地面に向けて吐き出した。
感情はどうであれ腹の虫は鳴き声をあげる。魅力的な提案であると認めていた。
それを自覚してしまえばもう、胃のあたりにぽっかりと広がる空虚な感覚を無視できなくなる。
それは何も空腹だけではない。
四年前からずっと感じている孤独感が、喉元までせり上がってきた。
「いいよ。作ってやる」
あっと思う間もなく、そんな言葉が口をついていた。
失言を悟るも遅い。花開くような満面の笑みを向けられては、何も言うことができなくなってしまう。
受け取ったリュックサックは、予想外に重量感があった。
中身を検めてみると、レトルトのシチューと半分に切り分けられたバケットのほかに、折り畳みのスタンドやスキレット、カトラリーセットがふたつ入っていた。まるで流行りのキャンプだ。
「ずいぶんと用意周到だな」
「お姉さまと再会できると、確信していましたから」
呆れた理屈に、もはやため息すら出ない。憎たらしいことに、分泌された唾液がわずかに口腔を濡らした。
ともあれ、やることはむずかしくない。ナイフで切り取った値札を火にくべて、スタンドを立てる。その上にスキレットを置いた。
水はないので、シチューは直火であたためるしかない。
パウチを切って、クリーム色の液体をスキレットに流し込む。気休め程度のにんじんのオレンジが、やけに鮮やかに見えた。
スプーンで焦げ付かないように面倒を見ていると、意外に早く煮え始めた。
いい具合だ。一度目を離して、バケットをちぎる。切り分ける気力は湧かなかった。
そのひとつをフォークで刺して、彼女へ差し出した。
「焦がすなよ」
「心配です。お姉さまがやってくださいませんか?」
蜜のように甘ったるい猫撫で声に、思わずフォークを握る手の力が強まった。
気を落ちつけようと吸った息に、シチューのまろやかな香りが混ざった。美味しいものの匂いは、胸のあたりをぽかぽかさせてくれる。
冷静さを取り戻して、パンを火に近づけた。これだと表面が焼けるばかりで中心まで熱が通らないが、シチューがアツアツなのでそこまで気にする必要もないだろう。
やや焦げが目についたタイミングで引き上げる。これより欲張ると、見るも無残な姿に早変わりする。
焼き上がったパンを差し出す。彼女は、あたしの手にふれないように指先でつまむようにしてフォークを握った。
「お姉さまが焼いてくださったパン……嬉しいなぁ」
「焼いたには焼いたけど、そのニュアンスは語弊がありそうだな……」
手料理と彼女は言ったが、シチューもレトルトだ。平時ならばオーブンレンジがあれば事足りる作業でしかない。
やけに嬉しそうにフォークを握る女にスプーンも渡したが、その手が動くことはなかった。
「食べないのか?」
「お姉さまの準備が整うのを待っています」
なんのひねりもない返答だ。
抗う理由もなく、先ほど行った作業を繰り返す。
それを待つ彼女は肩を揺らして、今にも歌い出しそうだ。
「――」
なんて思っていたら歌い始めた。
聴き飽きた讃美歌だ。
神様の作った世界の美しさを語ることで、神様の美しさを讃える、そんな歌。
生憎、世界は滅びてしまったわけだが。
あるいは、あたしと彼女の世界は、十年も前に終わっていた。美しいものなんてどこにも存在しない。
パンをひっくり返す。きつね色が香ばしそうで、我ながらいい焼き加減だと思った。
だから、切り出すのはこのタイミングしかなかった。
「なあ、どうしてあたしだったんだ?」
「お姉さまだった理由……なにが、ですか?」
「あたしがその……お姉さま、つまりは、告白してきた理由だよ」
「恋に理由は必要でしょうか?」
「おまえは愛に証明を求めた。なら、恋にだって理由があったと考えたくもなるだろ」
「欲しかったのはかたちあるものです。言い換えるなら、事実が欲しかった。私は、恋にも愛にも理由を求めたことはありません」
「なら、たまたまってことかよ……」
「運命だと言ったではありませんか。私の命が、お姉さまを好きだと思うかたちをしていたのです。そしてそれは、お姉さまもでしょう?」
「……たしかに告白を受け取ったよ。それに理由はなかった」
「なのにあの日、お姉さまは私の思いを拒んだ」
ぱちり、と爆ぜる音が耳を突いた。それがパンくずによる音だと気がついて、フォークを引き上げる。
もう一面は、真っ黒に焦げていた。
十年前のあの日も、そんな色の夜から逃げるように走った。
学校の一角にある聖堂。ステンドグラスから夕日が差し込んでいた。
聖母像の見守るその場所で、少女と少女は手指を絡ませた。
あたしは、彼女のことが好きだった。彼女も、あたしのことが好きだと言った。
でも、どうしてか――違う、と感じた。
固く握られた手を払って、近づく唇を拒んだ。
割れるような音が静謐な空間に響いた。
長椅子の背もたれにぶつかった、彼女が腕に巻いた時計のガラスが砕けた音だった。
付き合って半年の記念に渡した、あたしの精一杯の愛の証明。
くずおれて呆然と壊れた時計を見つめる彼女に、手を差し伸べることをせず言葉をこぼした。それは、胸のうちから駆け出す衝動のような思いだった。
そうしてあたしは、迫りくる夜から、彼女の思いから逃げるようにして、走り去った。
それが十年前の顛末。その清算は、四年前にもたらされた。
罪を犯したこの命ばかりが、未だ健在だった。
パンが焦げたのなんて、些末な問題だ。
「いただきます」
スプーンを使ってシチューをすくいとる。とろっとしたクリーム色の液体が、火の明かりを受けて宝石のように輝いていた。
こぼさないようにゆっくり口元に運んで、息を送る。ふー、ふー、と吹きかけるたびに湯気が波打った。
冷まして、唇に当てないようにして、そっとシチューを舌の上に乗せる。
「っ」
熱かった。
はふはふと、溺れたみたいに空気を求めてあえぐ。
それでも、焼ける味蕾を、はじけるような旨みが突き刺した。
肉の持つ力強さと野菜の繊細な甘みが濃縮された味わいを、牛乳とバターのまったりとした舌触りが包みあげて、さわやかながら濃厚な感覚が舌先から全身に駆け抜ける。
すかさずパンをかじる。小麦の風味とわずかな塩の香りが、シチューの後味を何倍にもしてくれる。焦げの苦さも、シチューの甘さの前には気にならなかった。
同様にシチューとパンを口に運んだ彼女が、その細い首を上下させて、おひさまのように明るい声音で告げた。
「美味しいです、お姉さま」
「そうだね……美味しいね」
美味しかった。生きているから。
憎しみも、愛情も、生きているから湧き上がるのに。
あたしは彼女と一緒に、美味しいご飯を食べていた。
二人前の量は、空腹なふたりにしてみれば食べ足りないほどだった。
それでもおなかがいっぱいだった。
この四年の間ずっと感じることのできなかったあたたかさが、おなかにじんわりと留まっていた。
だから、幸せだと思えた。
倒れ込むようにして、あたしは仰向けに寝転がる。今さら人も牛もないだろう。
もうひとりぶんの倒れ込む音がした。あたしは、そちらに目を配らない。
夜空に瞬く星が綺麗だったから。
彼女の目にも、綺麗に映っているだろうか。
「好きだよ、今でもおまえのことが」
「なら、あのときの続きをしてくださいますか?」
「だめだよ。言っただろ?」
「……ええ、一音一句、忘れたことはありません」
あの日の夕刻は、今ではとっくに夜を迎えていた。
「この命は」
「私たちは」
「しあわせになるために生まれてきたのでは、ありません」
「しあわせだと言えるように、生きているのです」
「おまえと一緒になれたら幸せになれるよ。けど、それでおしまいだ。あとはもう、転げ落ちていくしかない」
「一緒に不幸には、なっていただけないのですね……」
「終わるならハッピーエンドがいいんだ。おまえが刺したあいつとなら、それが叶うって思えたんだ。それくらいに好きだったんだよ」
「憎たらしいほどに羨ましいですね。ああ――まったく、憎むべきは彼でなく、彼のような存在を産み落としたこの世界でしたか。いっそ燃やし尽くしてしまえばよかった」
「燃えてるじゃねえか。よかったな」
「よくありません。燃えたら何もかもかたちを失います。いただいた時計も、お姉さまも、お姉さまの寵愛をいただいたこの体も。愛してくださった証明が残りません」
「かたちあるものだけが愛の証明なら、崩れ去ったこの世界に、愛はなかったってことになるだろ」
「それでもかたちあるものが、私は欲しいです」
「やっぱりおまえとは、幸せになれなそうだ」
「まったくです。私たちの体はいずれ火に飲まれて、骨すら残らないでしょう。こんな不幸があっていいのでしょうか」
「やっぱり聖母様の加護なんてあたしらにはなかったんだよ」
「キスのひとつもしていないのに。けちんぼです」
「手は繋いだろ」
「甘美な時間でした。今はもう、叶わないのが残念なほどに」
「繋いでやる気もないけど、叶わないなんておまえらしくないな」
「私の手は、あの男の血で穢れています。そんな手でお姉さまにふれるなんて、ありえません」
「ああ、だからあたしに作らせたのか」
「それもあります。一番は、お姉さまの手料理が食べたかったからですが」
「あたためただけだぞ」
「それで、この瞬間は充分なのです。私の、この心が満たされました」
「……まあ、あたしもおなかは膨れたよ」
「ならば、それでハッピーエンドということにしてはいただけませんか?」
「寝て、このまま起きることがなかったら、幸せな終わりだって言えるよ」
「ずるい言い方です。それでは幸せな終わりだと、言うことができないではありませんか」
「贅沢を言うなよ。それにさ……」
そこで言葉を区切った。それを伝えることの意味を考えると、喉が詰まる。
「それに……どうされましたか?」
だから、思いは声にならなかった。
「いいや、あいつに会えるのが楽しみだなって」
「天国で刺したらどこへ行くのでしょうね」
「おまえ、自分が行けると思ってるのか?」
「必要ならば空だって飛んで見せます」
「やれそうなのが怖いよ」
言ってみたものの、死後の世界なんて信じていない。
けれど、死は確実に訪れる。
人間、水を飲まなきゃ三日で死ぬらしい。それが真実なのかは知らないが、寿命がわかっているというのは救いだ。
「お姉さま」
呼ばれる。彼女の声は、どこかまどろんでいるようだった。
そこに恐怖の色は感じられない。彼女がこの世で恐怖するものは唯一、あたしとの別れだろう。
その恐怖のすべてを取り払ってあげることはできない。同時に、その恐怖に陥れることもできない。
あたしは体を傾けて、焚火越しに彼女の横顔を見る。
閉じられたまぶた。唇が、何か言葉を結ぼうと動いていた。
「愛しています、お姉さま」
「あたしも赦さないよ、きみのことを」
そんな本心を伝えてみれば、彼女は満足そうに笑みを浮かべた。
少しして、小さく胸が上下し始める。
健やかな、赤ん坊のような寝顔だった。
もう一度、あたしは空を見る。夜空の向こうに見える星からは、この星はどう見えているのだろうか。
答えは出ない。だから、目を閉じた。
まどろむ意識のなかで、言葉にしなかった言葉が浮かび上がる。
――これが最後の瞬間だとしても。ひとりじゃないというのは、最もしあわせなことなんじゃないか。
口にするのと、しないのと。どちらが最低か。
ふたりの人間を同時に愛し続けている時点で、答えに大差はないだろう。
あたしは彼女を愛していた。たとえそれが、憎しみ混じりだとしても。
変わらぬ愛が、ここにはあった。
まったくどうして、あたしは幸せ者だ。思うよりも聖母様というのは慈悲深いのかもしれないのかもしれない。
明日が訪れたなら、前言は撤回するけれど。
今は信じて、慈愛に包まれながら眠りに落ちていく。
少なくともこの瞬間は、まごうことなきハッピーエンドだ。