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豆畑の外は世界の果て  作者: 大石安藤
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昼は船の上で

 転寝から目を覚ますと、左隣にいた太ったおばさんはいなくなっていた。ふたつ目の船着場をすでに過ぎたらしい。ひとつ目はとても近かったのに、ふたつ目まではかなり時間がかかった。昼はそこの感じが良ければ降りてみようと思っていたのだが、まったく気がつかないうちに通り過ぎてしまったということだ。船は目を瞑る前と同じく、悠々と川の中ほどを走っている。

 川岸の景色はするすると近づいては遠ざかっていく。はっきりとは見えないけれど、音はなぜだかよく聞こえる。蒸気船の後部の大きな外輪が水を切る音に慣れてきたせいかもしれなかった。

 節をつけて朗々と聞こえてくるのは、どこかの寺院で捧げられている夕刻の詠唱だろう。船が進んでいるのにとぎれとぎれでも繋がって聞こえてくるのは、川岸に寺院が多いということなのかもしれない。昼たちが通っていた学校の隣にも寺院があった。建物自体は小さくて僧侶の数も少なかったが、庭だけはやけに広く、3人ともそこでくつろぐことが好きだった。そういえば、川にも近かった気がする。

 人の声も聞こえるけれども、さすがに聞き分けることはできない。それでもこの時間に裂けるような大声を出しているのは物売りだろうと想像はつく。けたたましい物音が、時折耳を刺す。なにかの機械の音だろうか。昼の村には列車は通っていないが、列車に関する音なのかもしれない。

――そういえば。

 夜は列車に乗ってどこかへ行ったのかもしれないと思いついた。この瞬間まで考えもしなかったが、そう思うとそれはしっくりと正しいことのような気がした。昼だったらそうしたに違いない。昼が夜と同じ方向へ行ったなら、きっと隣の町から列車に乗る。そしてこんな時刻なら、既にどこかで降りているかもしれない。

――夜は早く家を出たし。

 昼は片付けをし、戸締りをし、どこへ行ったらいいのか考え考え歩いていたから、村を出るのもかなり遅くなってしまった。そしていまや太陽も沈もうとしている。

「……どこまで行くの?」

 ぼんやりとそんなことを考えていたから、昼はそれが自分に向けられた言葉だと気がつくまでに若干の時間がかかった。

 はっとして隣を見ると、さっきまで一緒に転寝をしていたおばあさんがまっすぐに背を伸ばし、微笑みを浮かべて昼の答えを待っている。灰色の髪をきらきらと銀糸が光る網で丸く纏め、地味だが仕立てのよさそうな茶色の上着は、おばあさんにとてもよく似合っている。

「あ、あの」

 昼は慌てておばあさんの質問の意味を考え、その答えが無いことに気がつき、またうろたえた。

「ええっと、あの、あの」

「あらあら、そんなに慌てないでちょうだい。ごめんなさいね、突然話しかけたりして」

 余程おろおろしているように見えたのだろう。気を使われた昼はうろたえた。

「いえ、いいえ。あの、大丈夫です。あの、たぶん、ええ」

 おばあさんはちょっと目を見開いてから、「ほほほ」と、上品に笑った。

「まあまあ、落ち着いて。ね」

「あ、はい」

 昼は目を瞬かせながら、なるべく深く息を吸っては吐き、吸っては吐きと何度か繰り返してからやっと、目の前の人に焦点を合わせることができてきた。

「すみませんでした」

 軽く頭を下げると、今度はおばあさんの方が慌てたように両手をひらひらと振った。

「いいえいいえ、謝ることなんて何も無いわよ。こちらの方がいきなりだったんですもの。ええっと、それでね、話をしてもいいかしら」

「はい。あの、喜んで」

 おばあさんは頷いてから、船の前方を手で示した。

「この船はあとふたつの船着場にしか止まらないけれど、どこまで行くのかしらと思って。見たところ、お連れの方はいないようだし。ひとりで最後の船着場まで行く女の人は珍しいから」

 言われて周囲を見てみれば、乳母車を支えていた女の人もいなくなっているし、操舵室を覗いていた少年もいない。広い船室に残っているのは、なぜだか逞しい男ばかりだ。

「私は次の船着場の町に住んでいるの。今日は女の人が乗っていて助かったわ。この時間は最後の船着場の港湾関係者ばかりになってしまうものだから、いつも肩身が狭いのよ」

「そうなんですか」

 どうりで、力仕事が似合いそうな人ばかり多いわけだ。そして数少ない女の乗客であるふたりの方を、ちらちらと横目で気にしている様子もある。これでは肩身も狭くて居心地の悪いこと此の上無い。乗船した後、窮屈な形で座る羽目になった理由もやっとわかった。女性は固まっていた方が安全だったからだ。

 昼もおばあさんがいてくれたおかげで、何事もなく座っていられるような気がした。

「よかったです、私も。あの、ご一緒できて」

「あら、ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいわ。それで、あなたも次の船着場で降りるの?」

「あ、はい。そうします。いえ、そうです」

 これは大層へんてこな答えになったし、おばあさんは不安そうな顔になった。それは昼の表情が鏡に映っているかのようだ。

「ええっと、とくに行き先は決まっていないのかしら。なにか用事があるとか、目的があるとか、そういうわけではないの?」

「……はい。とくに、どうというわけではないんです」

 とてつもなく恥ずかしいことをしている気がして、下を向いてしまう。女のひとり旅、それも目的地も無いなんて。常識外れな行動は、昼のもっとも苦手なことなのに。

――朝も夜も、なんて答えているんだろう。

 ふたりが同じ質問をされているに違いないと思うのは、三つ子ならではだろうか。けれども今、その答えを知ることはできない。

「まあ、すてきねえ」

 昼は恥ずかしさに赤らめた顔をぱっと上げ、打って変わった嬉しそうな様子を見つめた。

「私も憧れたものですよ、ひとり旅。それもぶらっと旅に出るの。気の向いた時に気の向くままに。本当にすてきねえ。若いっていいわねえ」

 ほうっとため息をついた後、それでもすぐに、おばあさんは現実的な顔に戻った。

「ああ、いけない。じきに船着場に着くわ。ね、あなた。行くところないなら、うちへいらっしゃらない?」

「え?」

「私はひとり暮らしだから、誰にも遠慮はいらないのよ。それよりも、降りる仕度をしないといけないわね。あの印が見えたらすぐに着いてしまうの。忘れ物はない? 忘れ物はずっと先の、船の管理所まで行ってしまうから面倒なのよ」

 昼は不安になって何度も辺りを見回した。いつものように自分の間合いで確認したいところだが、そんなことは言っていられないようだ。

「大丈夫だと思うんですけど」

「そう。まあ、そうね、貴重品さえ持っていればなんとかなりますけどね。そういう物は決して肌身から離してはだめよ。さ、もう着くわ、行きましょう」

 すっくと立ち上がったおばあさんは、さっさと乗降口へと歩いていく。船は速度を落とし始めていて、船着場に横づけしようと近づいていく。昼も荷物を抱えて立ち上がった。最後にもう一度だけ、周囲を見回す。

――大丈夫。

 結局、勢いに押されるようにして、昼は見知らぬ人の家を訪問することになってしまった。


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