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豆畑の外は世界の果て  作者: 大石安藤
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朝は列車で薄布を握る

 列車の旅は快適と言って良かった。最初の検閲の時に、「ハバラさん」と呼んだら車掌の不審顔と男の顰め面を見る羽目になったぐらいだ。

「さん、は要らない」

「わかったわ」

 以降、朝はせいぜい尊大で、それでいて敬虔な尼僧に見えるように努力をしたし、なかなか効果はあったようで、何度目からはどの車掌も検閲がおざなりになり、朝に対して更に丁寧な物腰になり、男は雑な扱い方をされるようになった。それに関しては男は「このぐらいがちょうどいい」と言っていたので、そんなものでいいようだ。朝は少し座りが悪い。



 2日目の夕食を食べ終えた後、眠る用意をしていた時、軽く扉を叩く音がした。検閲は済んだばかりだったので、男の、ハバラの眉が跳ね上がり、席から立ち上がりかけた朝を手で制した。

「どなたでしょうか」

 いかにも眠たげと言った風を装ったハバラの声に、扉の向こうから遠慮がちな返事がした。

「夜分に申し訳ありません。こちらに尼僧様がいらっしゃるとお聞きしまして。できれば祝福を頂けないかと」

「祝福」

「ええ、さきほど子供が産まれまして」

「子供?」

「はい、あの、ですのでご足労いただけないかと。祝福が早いほど幸福になれるといいますし」

 ハバラの逡巡が手に取るようにわかった。

 もちろん朝は祝福を授けることはできない。ハバラは祈りの形ぐらいはわかるだろうが、修行中でまだ僧侶ではないから授けることはできないだろう。

 しかし誕生と死去の祈りは早ければ早い方がいいというのは朝でも知っている。宗派を問わず、優先されるべきだということも知っている。だから本来は朝はすぐにでも生まれた幼子のところへ行き祝福を授けるべきである。

 もちろん、尼僧ではない朝に祝福を授けることはできない。

「生まれたというのはいったいどこで」

 ハバラの言葉に、扉の向こうの声が束の間止まった。

「あの?」

「あ、あの、あ、先の車両なんです。個室では無いのでお呼びするのもどうかと思ったんですが、こんな時に乗り合わせたというのもなにか縁といいますか。あの、お願いいたします。失礼します」

 声の主が扉に手をかけたのだろう、ガタっと揺れた後、小さな、ほんの小さな舌打ちが、しかし確かに聞こえた。

 すでにハバラは得物を手にしている。

「あ、すでにお休みでしたでしょうか。ですが、本当に申し訳ありませんが」

 また扉が揺れる前に、朝には寝台の奥へ向かうように手を振りながら、ハバラは鎹にしていた小刀をそっと抜いた。だがその時、扉の向こうで他の声が聞こえた。

「お客様、ここで何を」

 夕食の前に来た車掌の声に狼狽えた声が続いた時には、朝は頭からすっぽりと薄布を被って顔まで隠していた。男が鎹をつけた意味とはそういうことだ。

「え、いや、あの間違えただけです」

 間違えた? 

 ハバラは得物を握り直した。柄の短い、きっちりと研いである短剣の切れ味がいいのは、一緒に砂漠を越えてきた朝はよく知っている。

「間違えた? この車両で何を、おい、待て」

 車掌の声が尖ってすぐ、駆け出す音が続いた。

 ハバラはしばらく扉の前で耳を澄ましたまま動かなかった。朝は寝台にしている座席の上で薄布を握り締めながら、どこへ行けと言われようとも動けるようにと身構えていた。

 どれだけそうしていたか。ちょっと疲れてきたなと朝が思い始めた時に、扉の向こうから先ほどの車掌の声がした。

「夜分にお騒がせしまして大変申し訳ありません。恐れ入りますが、お付きの方、お話できますでしょうか」

「いま出ます」

 ハバラは得物を握った手をそのままにそっと扉を開け、周囲を確認してから、車掌に見えるように獲物を懐にしまった。

「……申し訳ありませんでした」

 夕食までぞんざいにさえ見えた車掌のハバラへの態度が改まった。ハバラは「話を聞きましょう」と言ってから、朝に大丈夫だと頷き個室を出た。

 だが朝は戻ってきたハバラが「次の駅で乗り換える」と言うまで落ち着いて座っていることもできなかったから、駅に着いたと揺り起こされた時には、まだ眠っていたかったような、やっと安心して動けるような、なかなか複雑な気持ちがした。

「大丈夫か」

 すでに荷物を纏めているハバラに頷いてから、朝はふと疑問を口にした。

「これからもハバラで、いいのかしら」

 ハバラは見慣れた顰め面のまま、「止めろというまでは」と頷き、「急ぐぞ」と手を差し出した。


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