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豆畑の外は世界の果て  作者: 大石安藤
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朝は歩いて

――食べ物、ううん、飲み物は持ってくるべきだった。

 砂避けに顔に巻きつけたスカーフの下にも細かい砂が入り込む。ぺっと吐き出してから、なお念入りに巻き直し、朝は後ろを振り返った。あんなに大きな門が、すっかり見えなくなった。

――帰ったほうがいい。のかな。

 カンカンカンカンと照りつける太陽に、体力はどんどん奪われていく。荷物を持つ手も力が抜けていくようだ。

 砂漠というより礫漠に近いこの大地では、畑を歩くにはちょうどよく頑丈な靴でさえ、底がへなへなと弱々しい感じがする。岩や砂利に混じっている砂は粒子が細かく、風で舞い上がっては服の中にまで入り込む。全身砂まみれになった気分で、朝はとにかく前へと足を出していく。無謀だ。

――そんなに、遠くは、ないはず。

 門からまっすぐ進んで辿り着く筈の国は、地図上では馬車で行けば半日かからない距離だ。ただそんなに近い距離の筈なのに、馬車を使った交易のルートは無い。朝はそこをちゃんと考えなければならなかった。なぜ無いのかという理由を。

 それなのに朝は、いつも使う均されて馬車も走りやすい道を歩く時の見当で、歩いても1日はかかるまいと考えていた。

 その町自体はまだ砂漠の縁と言っていいような場所にあるのだが、町である以上、水もあれば食べ物もあるはずだ。だからそこへ辿り着きさえすれば、なんとかなる。そう考えて足を動かしているのだ。無謀だ。

――まっすぐ。とにかくまっすぐ。

 砂漠がどれだけ方向感覚を狂わせるものか、それも朝は知らなかった。なにかを、太陽などを手がかりに進む方法も知らなければ、方位磁石すら持っていない。朝は知らずに、知らない者としてはごく自然に、門からまっすぐに行くはずの道を外れている。それも、もとより道など無いのだから仕方がないことではあった。

 そう考えると朝は運が強いと言ってもいいだろう。まっすぐに歩いていたならそれほど時間がかからないうちに行き倒れていただろうに、方向を見失ったお陰で小さなオアシスにたどり着くことができたのだから。

「……水?」

  蜃気楼と呼ばれるものかもしれないと、朝はなけなしの知識で考えた。砂漠について、それ以上の知識が無いのだ。重ね重ね、朝の冒険は無謀で成り立っているとしか言いようがない。けれども朝は無謀な冒険がしたくて道を選んだのだ。

「水、なのかな」

 蜃気楼でもなんでも、それが水かもしれないとなれば、そちらに向かって歩いていってしまうというものだ。蜃気楼の場合、そうやって歩いたあげくに遭難してしまうということになりかねない。

 朝の運が強いのは、そこが本物のオアシスだったからだ。

「……水」

 低い石垣が円に詰まれた中に満たされた水が光っている。周囲には潅木が寄り集まるように生えていて、申し訳程度の緑をつけているが、それでも天然の屋根の役割を果たして小さな泉を守っているかのようだ。

 ぎりぎりまで満ちていながら溢れていない井戸は、こんな砂だらけの場所で、ここだけが太陽に対抗している。なんだか現実離れしすぎていて、夢の中にいるようだ。

 その泉の傍らに人がいた。そのうえ村の学校にあった図鑑でしか見たことがない動物もいた。朝は暑さと疲労で混乱した頭の中から、なんとか動物の名前を引っ張り出した。

――らくだ。そうよ、らくだ。だって背中にこぶがある。でもちょっと倒れているようだけれど。

 泉と、人と、らくだ。

 泉の横に座っている人は、頭からすっぽりと黒い布を纏っている。布に縁どられてこちらを見て顰めている顔は浅黒く整っていて、見たことがない色の瞳をしていた。

「あの、こんにちは」

 返事は無い。朝は現実ではないような違和感を覚えた。蜃気楼は、こうして人や動物までも出してしまうものだろうかと思ったりした。蜃気楼は手品ではないから、なにかを出したり出さなかったりはしないことも知らないし、そもそも蜃気楼がどういった状態を指すかもわかっていない。

「あの、夢じゃないわよね。なんか夢みたいだけど。ええっと、こんにちは」

 砂漠の真ん中にいる服装としては、丈がやや長めのスカートに踵の低いブーツ、襟に飾りのついた薄手のブラウスを着て革の鞄にはウールの上着の朝の方がよほど現実的ではない。

 現実でも幻でもかまわないから、朝は水が欲しかった。これが幻なら、朝はかなり危険な状態ということだが、本人に自覚が無いのだからこの際どっちでもいいのかもしれない。それにこれは現実なのだ。

「あ、言葉がわからないのかしら。ああ、でも私も他の国の言葉はわからないんだけど。共通語がわかってくれると有り難いわ。ええっと、あの、まず、これ、飲んでもいいかしら。それともあなたの水なのかしら。あの、お金とかがいるのかしら。とっても喉が渇いているんだけど」

 朝はこうも付け加えた。

「あと、ここはどこかしら。どっちへ行ったらいいのか、わかりますか」

「馬鹿だな」

「え?」

 男だった。声は低くて凄味がある。間違いはないだろう。異国的な顔立ちがあまりにきれいで、座っているところを見ているだけでは男女の区別がつかない。全身をゆったりと覆った服もわかりにくくしている要因のひとつだろう。服には全体に模様が入っているようだが、いかんせん薄汚れていて判別がつかない。

「馬鹿だと言った。服はともかく、その靴に荷物はどうしようもない。それで砂漠を歩いてきたことだけでも馬鹿げているが、行き先もわからないというのは馬鹿を通り越しているな」

 言葉はわかったのだが、内容がなかなか頭に入ってこなかった。朝は初めて会った人に馬鹿呼ばわりされたことなど、そもそも面とむかって馬鹿だと言われたこともない。

「だいたい、なぜこんなところを歩いているんだ」

 きつい言葉を繰り出しながらも、男はらくだにつけていた皮袋を取ると朝に差し出した。

 考えるに、男も驚いていたのだ。朝が現れたことを。

「まずこれを飲め。ゆっくりとだ」

 馬鹿だ馬鹿だと言われて度肝を抜かれていた朝は、未だに夢の中にいるような感覚も手伝い、言われるままに男の差し出した皮袋に口をつけた。疑いもなにも頭をよぎるものではなかった。姉妹は人を疑うことはあまり無い。育ちがいいというのとも、また違う。生活の中にそういう習慣が無いのだ。3人の暮らしに、見知らぬ人間や物事が入ることはとっても少ない。

 皮袋の中には、香りのいい水が入っていた。薄い塩味がしたが、口に含むと、柔らかく染みこんでいく。

「飲みすぎるな。かえって毒になる」

 毒と聞いて体が震えた。疑いの欠けらが頭の中で弾けたが、朝は素直に皮袋を男に返した。今更じたばたしても仕方がないと思ったのだ。3人の中では、朝が一番思い切りがいい。

「今度は水だ」

 男は木製の手桶を取り上げ、なみなみと水を汲んだ。

「飲め」

 今度も迷わず、受け取った手桶に顔を突っ込むような形で水を飲んだ。飲む前はいくらでも入るような気がしていたが、半分ほど飲んだところで満足することができた。

「……どうもありがとう」

 喉の渇きを潤してほうっと息を吐いた朝が言った礼には答えず、男はらくだにむかって顎をしゃくった。

「ええっと、それは乗れっていうことかしら」

「まるっきりの馬鹿でもないな」

 こう何度も馬鹿だと言われれば、いい加減腹もたってくるが、こんなところでおいてきぼりをくうのは厭だ。

 朝は素直にらくだに近づいた。見も知らぬ男についていったら、どんなことになるかしれないのだが、そんな気が回らないところが、世間知らずと言うべきか、無知と言うべきか。

 朝は男に助けられながら、らくだのふたつのこぶの間に置かれた鞍の上になんとかおさまった。

「足は上げておけ。組んで。そう。その服ならそのほうが楽な筈だ。揺れるからその綱をしっかり握っていろ」

 らくだは不満なのか、勢いよく鼻息を吐いた。だが男には従順で、男の背中にごしごしと鼻面をこすりつけながらついていく。らくだはひどく揺れた。足を上げて座っていると、余計に揺れるような気もしたが、朝にはどうしたらいいかわからない。視線を上げれば、呆然とする量の岩と砂が溢れている。


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