朝は更に話を聞く
らくだは思っていたよりも高値で売れ、男との別れを全く惜しまなかった。新しく手綱を持った商人にぶふん、ぶふんと鼻面を押し付けて去っていってしまった。
拍子抜けした朝がそう言うと、男は顰め面と同じくらい見慣れた呆れ顔で、「だから、家畜とはそういうものだ。お前はもっといろいろなことを学ぶべきだな」と言うと、長いため息をついた。
朝は付け直した被り物を深くすると男にむかい、べえっと舌を出した。
「それから、駅員とはあまり口をきくな。色々な国の人間がいるが、尼僧に対しては誰でも丁寧に接してくれるはずだ。礼なら頭を下げるだけでいい。口を開く必要はない」
「そうなの? 尼僧って、随分感じ悪いのね」
「敬虔な尼僧なら、頭を下げただけでも慎ましく有り難く見えるものだ。少しは見習ってくれ」
男はといえば、砂漠で使っていた厚手の布類をすべて売り払い、僧衣も荷物に押し込んで、短い上着と裾のしまったズボンに着替えている。
「でもなんであなたはそんな牧童みたいな格好になったの?」
「……列車に乗っている時間は長い。わからないことは何でも教えてやる。まずは乗れ」
朝は素直に男に従って列車に乗り込んだ。
個室を案内されてからやっと、朝は被り物を取ることを許された。それでも出入口の小窓には布を引き、すぐには開かないように小さなナイフを扉の下に差し込むという念の入り用だ。
「検閲の時にはどうするの」
「ノックされたら外す。ノックもせずに入ろうとする奴は車掌ではないから」
その先は続けなかったが、朝も聞かなかった。外に面した窓は風が入るように下から4分の1ほど開けることはできたが、それでも顔を出さないようにと厳命された。尼僧でいると金銭的には助かるが、行動に関してはどうにも不自由だ。それにこんなところから顔を出せるほど器用でも柔らかくもない。
牧童の服を着た男は僧衣でいた時よりもさばさばと明るく見える。長い黒髪を後ろに束ね、肩の力も抜けているようだ。列車に乗り込む前に買い込んだ水筒を朝に渡してから、「さて」と説明を始めた。
「尼僧と僧侶が寺院を離れて行動を共にすることはあまり無い。砂漠や森なら目立たないし、尼僧ひとりだと危ないからという配慮の上だと考えてもらえる。だがこれからはごく普通の町ばかりだ。それも他に誰もいない、ふたりきりの旅というのは怪しまれる」
「牧童ならいいの?」
「牧童は羊を連れ歩く事の他に、僧侶の案内人として雇われる。尼僧というのは本来ふたり以上で旅をすることになっているが、やむを得ない場合は牧童が付き人になるんだ。そうそう」
男は嬉しそうな顔で「これからは」と続ける。
「お前が俺の主人の役目になる。きょろきょろしたり、尼僧らしくない態度をとればすぐに怪しまれるぞ。せいぜい気をつけてくれよ」
「それは気が重いわね」
「あとこれから俺のことはハバラと呼んでくれ」
「ハ、ハバラ? ええっと、それがあなたの名前ということかしら」
「元々の名ではないし、これからつけられることも無いだろう。しばらくの間の通り名だな。牧童に名前が無いのはおかしい」
「なぜ、ハバラなの? 意味があるのかしら。ハバラ、だけでいいの? 家の名前もつけた方がそれらしいんじゃないかしら」
「牧童で家の名前まで名乗るの大仰すぎる。結婚する時か、墓の中に入る時ぐらいしか必要ない」
朝は自分を振り返って「それもそうね」と頷いた。
「ハバラ、は俺の国の古語で源泉という意味だ。物事の始まりという意味でもある。もっとも今では使われなくなった言葉だがな」
「名前には使われることもあるのね」
「いや」
男は束の間懐かしそうな表情になった。
「そう多くはない。俺の祖父ぐらいの年代か、それより少し前までは古語で名前を付けるのはお守りになると言ったりしたんだが」
「お守り。大切な言葉なのね」
男は初めてといっていいかもしれない優しい笑顔を朝に向けた。
「そうだ。大切な言葉だ」