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豆畑の外は世界の果て  作者: 大石安藤
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朝は森を

 日が昇ったことを確認してから、男は山道を辿り始めた。だがまだ霧は深く、辺りはぼんやり白く霞んでいる。らくだはおとなしく男の後ろを歩き、朝はその後ろを続いていく。

 今度ばかりは足首まで出そうが、いっそ膝までたくし上げても大丈夫なようだった。1度だけ振り向いた男は、膝まではいかないまでもかなりたくしあげられた僧衣に顔を顰めたが、文句は言わなかった。

 滅多に人の通らない道は狭く、ほとんど獣道のようだ。湿気も多いし、ぬかるんでいる場所も多い。何日か前に降った雨が乾くこともなく、じくじくとしたぬかるみを作っているのだ。引きずるほど長い僧衣では歩くのも難しいぐらいだが、それでも万が一、誰かとすれ違うかもしれないと脱ぐことは許されなかった。男もたくしあげるぐらいは致し方ないと思ったのだろう。

 山道はいくつもの山の裾野を繋ぐように続いている。この道は山に登るための道ではなく、山脈を越えずにすむための迂回の道だ。

 裾野を歩いているから、朝には南の山脈の姿はちっともわからない。家から見ていた北の山脈は猛々しく、いつでも雪を被っていて、何人なりとも寄せ付けない神々しい雰囲気を持ち、遠くから眺めるだけのものだった。

 南の山脈の様子を一望するには、この国と男の国の境目あたりの高台に登らなければ見えないという。裾野は広い樹林帯だし、山脈を除いた国土は起伏が緩やかな上に森林が多いので、山々の形が見えないのだ。朝にしても、いつ樹林帯に入り込んだのかの境がわからないまま、いつの間にか周囲は森になっていた。

「疲れたか」

 森は湿気が多く、蒸し暑い。らくだも不機嫌な様子を見せてぶひぶひと嘶いてばかりいる。

「大丈夫」

 そう言ってから、強がっても仕方がないと付け加えた。

「でもやっぱりちょっと、疲れたかな」

「もうしばらく行くと、小川がある開けたところに出る。そこまで我慢してくれ」

 背後から首を伸ばしてくるらくだを撫でながら言ったので、朝にはその言葉がらくだの為なのか、朝の為なのか判断がつきかねた。それでも「わかった」と答えておく。返事が無かったから、ほんとうにらくだを励ましたものかもしれない。

 男の言った場所には、朝の感覚ではしばらくどころではなく、かなりの時間がかかった。まだ着かないのかと何度か口にしそうになったが、その際の男の言葉を聞いて厭な思いをするのもなんだし、急かしても朝の足が速く動くわけでは無いので止めておいた。

 そうしてそこに着いた時に、らくだは嬉しそうに嘶いた。男を無理に通り越して先へ行ってしまう。男も追いかけるでもなく放っておいている。

 はあはあと息を切らしながら辿り着いた所は、すっぽりと木立ちが無くなった小さな野原で、右の斜面から木々の間に裾野辺りが見下ろせ、いつの間にか、出てきた町より高い所に立っていることが朝にもよくわかった。

「……登ったつもりはなかったんだけど」

「そういう道なんだ。この先はずいぶん楽になる。あそこに川が流れているから、水を飲むなりするといい」

 男が示したところでは、すでにらくだが水を飲んでいる。朝はらくだより上流に行き、思う存分水を飲むと、ざっと顔を洗った。

「私、つくづく水がありがたいものだと思い知ったわ」

 朝の言葉に、男は皮肉な笑みを浮かべたが何も言わなかった。水があるところで暮らすということがどれほど恵まれたことなのかを、朝はここまでの道のりで心から理解することができた。

「食事をしよう」

 朝が男の傍らに座ると、目の前にいくつもの食べ物が並んだ。

「どうもありがとう」

「なんだ、いきなり」

 男は今度こそ顔を顰めて朝を見ている。

「砂漠であなたに会わなかったら、私はこんなところに来ることもできなかったし」

「それは嫌味か」

 朝は男を睨み返したが先を続けた。

「こうしてきちんと食事をとることもできなかったと思う。それはありがたいことなんだって思ったの。私、信仰心ってあんまりないんだけど」

「そうだろうな」

 素直に頷かれるとむっとしないでもないが、先を続けた。

「なにかあるのかもしれない。と、思わなくもないわ」

 しみじみとパンを見つめる朝に、男は笑い声をあげた。森に入ってから、男はよく笑うようになった気がする。

「まあ、そんな程度でもかまわない。信仰は押し付けられても育たない。自分の中に芽が無ければ意味はないものだ」

 パンを食べながら、朝は村の僧侶からはもっと信仰を持つようにくどく言われたものだけれどと思いながらも、確かに強く言われても信じられるようなことは何も無かったから、そんなものなのかもしれないと思い直した。

「今日はもう少し先で野宿をする。だが明日には寝台で寝られるぞ」

 朝はほっとして「ありがとう」とまた礼を述べながら、誰よりもこの男が信じられると思った。



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