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豆畑の外は世界の果て  作者: 大石安藤
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朝は頭を下げる

 その町は男の国とは違い、驚くほど色に溢れかえっていた。そもそも町に着くかなり前から緑が増え始め、岩や砂もほとんど無くなってから、国境の門が現れたのだ。すでにここは砂漠の中にある国ではなかった。

「もっと深く頭を下げろ。まったく、お前は尼僧を見たことが無いのか」

 男に言わせると、やたらにきょろきょろと顔を動かす朝は、とても尼僧には見えないらしい。尼僧の服を着て遊んでいる子供のようだとまで言われてしまった。尼僧というのは、もっと敬虔そうで慎み深く、必要な時以外は深々と頭を垂れて歩くらしい。

 朝にすれば、こんな歩き方は危ないことこの上ない。

 そう言うと、「足元を見ていれば、怪我はしない」と返された。目の前から来たものを避けられないじゃないかと返せば、「尼僧は避けてもらえるようになっている」とくる。馬鹿馬鹿しいので、それ以上反論するのは止めた。

「どこまで行くの」

 それでも精一杯下を向き、目立たないよう努力はしている。あとどれだけこの苦行のような歩き方を、なるほど尼僧はそれで頭を垂れて歩くのか、続けなくてはいけないのだろうと思うのは当然だろう。

「近くに知っている宿がある。そこまで我慢しろ」

 それはどこにあるのだと聞こうとしたら、いきなりらくだが止まり、朝は自分の足を踏みそうになった。何があったのかと頭を上げようとしたら男に強く両肩を押され、朝は跪く形で膝をつくことになった。

「なにを」

「黙れ。もっと頭を下げろ」

 乱暴な仕草と言葉にむっとして横を向くと、なんと男も片足で道に跪き、神妙に頭を垂れている。

 恐る恐る周囲を窺えば、あれほど騒がしくがやがやと動いていた人々、その誰も彼もが同じ格好で道の端に並んでいる。それだけ見れば朝にもわかる。

 そして慌てて同じように頭を下げた朝の耳に、馬が向かってくるのだろう蹄の音や嘶きが聞こえてきた。朝の横のらくだがぶぶうと不満を口にしたが、男はどうにかおとなしくさせているようだ。

――誰かが通るんだ。

 朝の国にこういった習慣は無い。それに朝の家は小さな村の更に外れたところにあるのだ。道端で頭を下げるようなことなど生まれてこの方1度も無かった。

 だが経験の無い、そして敬虔な信徒でも無い朝にも、こうして跪き、姿を直接見てはいけない人が通り過ぎるのを待つ習慣がある国があると習ったことはある。あくまで習っただけだ。そんなことをするなんてと、教室中がくすくす笑いに包まれた記憶まである。確かに朝はその時、変なことをすると思った。家に帰る道すがら、姉妹でその話をしたことも覚えている。だからすんなり思いだせたとも言える。

――昼は興味が無さそうで、夜は興味深いと言っていたっけ。

 そして朝は傍から見る分にはいいと思ったのだ。

 朝がそんなことを考え、そして男とらくだ、ふたりと1頭が目立たぬよう人々にまぎれて跪く前を、何頭もの馬が並足で通り過ぎていく。蹄がかまびすしく石畳を鳴らす。馬がどんな人々を乗せているのかわからないが、誰もが頭を垂れるほどの立場なのだろう。宗教指導者か、国政に関わる人物か。目立つと言われた朝の顔が見えては、具合の悪いことが起こりそうだ。ひたすらに頭を下げ、顔が見えないようにそっと被り物を直した。

 そんな朝の苦労を嘲るかのように、よりにもよってふたりの真ん前に1頭の馬が止まった。次々と馬が通り過ぎる中、何故か馬の近づく音がした。そして、男の前で止まった。

 朝の頭の上に馬の荒い鼻息がかかる。気持ちはよくないが我慢するしかない。そうこうしているうちに他の馬はすべて去っていってしまったのか、周囲の人々が朝達を遠巻きにしながらも動き出す気配がし始めた。

「そろそろ頭を上げたらどうだ」

 その言葉には笑いが含まれていた。声は低く穏やかな話し方だ。

 それでも朝は頭を上げなかった。朝に向かって出された言葉でないことはわかったし、男以外を信用するなと言われてもいた。朝は大事だと思えることは忘れない。

「……驚くほど行動が早いじゃないか」

 そう答えながら、隣の男が頭を上げたようだ。衣擦れの音がする。被り物も取ったのだろうか。らくだがしきりに朝の体をこづき、馬の鼻息が降り注ぐ。まったく、なんでこんなことになっているんだと、朝は音をたてないように注意しながら、それでも長い息を吐いた。

「俺にはお前がここにいるほうが驚きだな。お前こそ、やけに早いじゃないか。密偵というのはお前のことだったのかと思うほどだが、それは勘ぐりすぎなんだろうな」

「密偵なんて大事を命じられるはずがないだろう。俺はまだ名前すらないんだ」

「そうだったな。それもじきだろうが。……ここにいる理由は隣の尼僧か」

 馬上の人物は朝のことを見ているのだろうか。朝には地面しか見えていないのだが、視線が頭の上に、馬の鼻息以上に降り注いでいるのがわかるような気がした。

「ああ、ここには送っていく途中に立ち寄っただけだ。これも修行のうちだ」

「修行ね。そんなもの、早く飽きるといいんだが」

 男は返事をしなかった。どんな顔をしているのかわからないが、朝は正面からその顔を見たいとは思わない。たぶん、そんな顔をしている筈だ。

 その証拠に、馬上の人物の苦笑が聞こえた。

「そんな顔をするな。とにかくこの国から早く出た方がいい。官長殿もなかなかどうして動きが素早いな。我等も敵わないぐらいだ」

 馬の鼻息が朝の頭上から反れた。立ち去るつもりなのだろう。だが他の馬を追う前に、もうひと言、男に残した。

「次に会った時も、こうして話ができる余裕があればいいな」

 朝は忠告も忘れて顔を上げるところだった。この胡乱な言葉の意味を、この言葉を言った人物と言われた男の顔を見たいと衝動的に思ってしまったのだ。

 辛うじて朝がその衝動を堪えた時、馬が嘶いた。見知らぬ人物が馬をけしかける声を発し、蹄の音が遠ざかっていく。

「もう立ち上がっていいぞ」

 男は朝にもわかるぐらい大きなため息を吐いた後、手を差し出しながら言った。

「ありがとう」

 目の前に差し出された手に頼って立ち上がりながら、そっと男の顔を伺い見る。男の表情は普段と変わりなく無愛想なままだ。きれいな顔の眉根が寄っているが、その原因が今の馬上の人物にあるのか、他にあるのかもわからない。それほど眉が寄って顰めている顔ばかり見ている。

「あの、今の人は」

「知り合いだ。いわゆる幼馴染という奴だ。さあ、まず食料だけでも買い足さないと」

 男は馬上の人物について、それ以上話をする気は無いようだ。それに、朝は最後の言葉が気にかかった。

「食料だけでも? まさかもう町を出るの? さっき入ったばかりなのに?」

「会話を聞いていなかったのか。早く出ろと言っていただろう。忠告は素直に聞いておくものだ」

「それはそうかもしれないけど」

 これでふたつめの外国への訪問となるのに、どちらの国もろくに見ていない。おもしろくないこと此の上無いが、内乱だの戦争だのといった物騒な言葉の意味ぐらいはわざわざ聞かなくてもわかる。

「……わかった。それでまた砂漠を行くの?」

 男は「もう少し下げないか」と朝の頭を軽く押してから、「いや、砂漠には行かない」と言った。

「今の隊は砂漠に向かっているようだ。追いつくことはないにしても、どこかで姿を見られてもよくない。歩兵を探索に出しながら動くだろうしな。このまま南の門から出て山脈沿いに動く」

「山脈って、あの南の山脈?」

「……南にあるからな」

 三つ子の小さな家からは、雪の被った北の山脈が見える。猛々しく神聖な印象すら抱かせる北の山脈に比べれば、南にある、頂きがうねうねと上下する山脈はかなり違うものだと聞いたことがある。

 それは行き先に考え疲れていた朝をわくわくさせるには十分な言葉だった。

「南の山脈。それは素敵だわ」

 男はまだそれ以上できるのかと驚くぐらいに顔を顰めた。

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