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豆畑の外は世界の果て  作者: 大石安藤
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朝は町を出た

 必死になってしがみついていたらくだの匂いと、揺られては大きなこぶにぶつかっていた尻の痛みに耐えかねると思い始めた頃、男はやっと朝に声をかけた。

「降りていいぞ」

 そうしてらくだから朝を降ろそうとした時、なんと男はぐふっと音を立てて吹き出した。

「え、な、なに?」

「いや。……ああ、そこに井戸がある。その、少し身支度を整えるといいだろう」

 男の示したところには小さいがきちんと屋根もつけられた井戸があり、「ありがとう」と言いながら覗き込むと、縁まで満ちている水面にらくだの毛がびっしり貼りついた獣じみた女の顔が映った。

 顔にぐるりと巻いていた布はあらぬ方へずれ、汗をかいて紅潮した頬にはらくだの短い毛が貼りつき、興奮冷めやらないからか、大きな目はなお大きく見開かれたままだ。

 男は砂漠に住む狐の一種を思い浮かべて笑ってしまったのだが、朝はいつもいつのまにか家に忍び込むぶち猫を思い出した。三つ子の身近で毛がふさふさしている動物はそのぶち猫ぐらいなのだ。

 朝はふうっと長い息を吐いた後、よれた布をさっさと外し、井戸から水をくみ上げて丹念に顔を洗った。さっぱりしてから、「あ、顔を出しちゃった」と間の抜けたことを言うと、それを聞いた男は、朝が初めて聞く大きな笑い声をあげた。

「まったくおかしな奴だな。おまえの国は皆そんな風なのか」

「そんな風と言われても」

 どんな風か、さっぱりわからない。

 朝と男は既に砂漠の中にいた。いつのまにか人の気配が消えたと感じていた朝の思っていたとおり、町から出ていたのだ。砂漠に慣れない朝の目には、通った筈の町の門も、長く伸びている国境の壁もわからない。

「ずいぶん遠くまで来たの?」

「いや、それほどでもない。だが町の場所からは死角にあたるから、ここなら誰にも見つからない。それにこの井戸のこと知る者も少ない」

「そうなんだ」

 砂漠に住む者にとって水は死活問題だろうに、それでも知られない井戸というものがあるとは思わなかった。砂漠にあってさえ水が豊富な町ならではなのかもしれない。

 井戸の周囲を取り囲むように砂の土手ができている。座ると朝の体がすっぽり隠れるぐらい高さがあり、井戸と砂の壁の間には、草がみっしりと生え、潅木まであるのに、それらも砂の壁より低く這っている。なるほど、こうして見てみると砂漠の中でここはわかりにくいと言えるのかもしれない。井戸があると知らなければ素通りしてしまいそうだ。

「悪いが話は後にしてくれないか。少し休みたい」

 男はらくだを繋いだ潅木の横にどさりと腰を落とした。朝が「かまわない」と答える前に、寝入っている。

「しょうがないわね。そりゃあ、疲れるわよね」

 足手まといでしかない女を連れ、砂漠を渡ることを繰り返しているのだ。それも今回は朝にはわからない緊迫した理由で、より緊張を強いられていただろう。

 きっかけが何かはわからないが、物事が急激に転がっていく時がある。それは誰にでも訪れるものであるが、気がつく人もいれば、流されるままに気がつかない人もいる。

 どちらが幸福なのかはわからない。同じように、どちらが不幸かもわからない。

 どんなことにも幸福を感じる人はいるし、どんなことにも不幸を感じる人はいる。それ自体が幸か不幸かもわからない。

 今、朝の周りでは急速に物事が回転しているが、どういう事かわからないままなので、朝にとって幸も不幸も無かった。

 朝は日が沈んだ空を見上げた。地平線はまだ明るさを残しているが、それも瞬く間に追いやられて、再び闇が砂漠を包み込む。砂漠にいると、闇を怖く感じないのはなぜだろう。闇は怖いというより近しいものに感じられる。

 もっとも、朝は闇を怖がったことなど1度も無いのだが。

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