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豆畑の外は世界の果て  作者: 大石安藤
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朝は逃げる

 何を言ったのか、朝には理解できなかった。その人はとてつもなく早口で、言いたいことだけ言うと返事も聞かずに出て行った。

「ひとりで大丈夫か?」

 男は母親らしき婦人を心配そうに振り返った。顔色がすっかりなくなって目を見開いているにもかかわらず、婦人は「何を今更」と言って微笑んだ。ぎこちなかったが、それでも微笑んだことで無理な力が抜けたのか、目元に優しさが戻った。

「早く行きなさい、私は大丈夫だから。備えは十分よ。よく知っているでしょう」

 それからすまなそうな顔で朝の手を取った。

「ごめんなさいね。こんな時でなければよかったのにね。でも」

 そこで男の名前を口にしようとしたらしい。堪えるようにぐっと息を呑んでから、近寄ってきた男の袖にそっと触れた。

「この人がついていれば大丈夫よ。最後まであなたを守ってくれますからね」

 婦人はそれだけは確実だと信じているようだ。男の方はまだいろいろと言いたいことはありそうだったが、急ぐ気持ちのほうが勝ったらしく、「くれぐれも気をつけて」と言うと、懐から小さな袋を取り出し婦人に押しつけた。婦人は眉根を寄せてそれを見たが、頷くと袋をそっと両手で包んだ。

「また来るから」

「ええ、待ってるわ」

 礼を言う暇さえ与えられずにそこを出された時、目を見開くのは今度は朝の番だった。

 町中のざわめきは、さっきまでとは様相がまるで違っていた。

 はじめに朝は、何かに巻き込まれたのではという不安を覚えた。とてつもなく大きな竜巻が近づいているとか、獣の群れがたった今走り抜けているとか。

 店はどこも慌しく片付けている。呑気に買い物をしている人などひとりもいない。たまに立ち止まり、なにやら深刻そうにぼそぼそと呟きを交わしあう人はいるのだが、それすらもあっという間で、お互い肩を叩きあっては別れていく。まるで非常事態だ。もちろん、朝は非常な事態というものを体験したことはこれまで1度も無いのだが。

 そして朝がそんな風景を茫然と、顔を上げて布で覆いもせずに見ていることに、男は途中まで気がつかなかったぐらいに急いでいた。

「馬鹿。頭を下げろ。俺の後ろから離れるな」

 言い訳も文句も言う暇は無い。ぐいっと頭を押さえつけられ、男の背後に回され、腰の革帯を掴まされた。まるですがりつきながら歩いているようで恥ずかしかったが、朝以外、気にする人間は誰もいないということはわかる。誰もが自分の行く方向しか見ていない。だから顔を出していようがいまいが構わないとも言えたのだが。

 なんにせよ男はますます足を速めたので、朝は恥ずかしいなど言っていられず、男についていくには小走りにならざるをえなかった。



 男は寺院には戻らなかった。正確に言えば寺院の敷地内ではあるが門の裏手にあり、男によれば「物置小屋に使っている」というところに入った。中には寺院の日常に関係あるさまざまな物が整然と置かれている。平屋だが奥行きがあり、小屋とは例えているだけで、三つ子たちの家と比べても遜色の無い建物だ。

 数ある棚の中のから、尼僧の物と思われる服を取り出すと、男は朝に押しつけた。

「これに着替えろ。荷物は部屋の中だな。纏めてあるか」

「ええ、まあ」

 青い目の尼僧に言われたように、ベッドは整え、荷物はきっちりと纏めていた。もともと散らかしっぱなしが嫌いなのだ。三つ子の家はいつでも清潔でぱりっとしている。それは3人の自慢でもある。

「すぐに戻る。着替えて待っていろ。絶対にここから動くな。顔も出すな。鍵をかけていくから誰も入ってこないとは思うが、誰が来ても開けてはいけない」

 それから顔を近づけ、念を押すように付け足した。

「俺以外は誰も信じるな」

 もうひと言。

「官長でもだ」

 やはり返事をする間も無く、男は小屋の外へと飛び出していった。外から鍵をかける音がする。開けろと言われても、中からは開けられないじゃないかと思ったが、そんなことを考える間に着替えた方がよかろうと、朝は押し付けられた服を広げた。

 尼僧の着る服は簡素だが生地は厚く、ごわごわしていて整えにくい。それに厚い分、やはり重たいので動きにくいことこのうえない。

 そして着替える時間こそあれ、男はすぐに戻ってきた。誰か来るのではないかとひやひやする間すら無かった。

「着替えたらこれを巻け。いいか、この国から出るまでは顔を上げるな。誰にも顔を見られたらいけない。お前の顔は」

 男は朝がすっかり見慣れた顔をした。それぐらい、顰めっ面しか見ていない。

「ほんとうに目立つな」

 そして頭に被せられた布は、これまた首が痛くなるぐらい重たかった。

「外にらくだを用意した。それに乗っていく。口を開くな」

「ちょっと待って」

 男が扉を開けようとした時、朝はやっと口を挟んだ。この小屋に入ってから、いや、道を歩いている時から、いやいや、あの家を出る前から、朝は「ええ、まあ」以外の言葉を発する間さえ与えられていないのだ。

「なんだ」

 いらだたしげな男の顔を、朝は負けじと睨みつけた。ここで怯んでは、わけのわからない渦巻きに揉まれ続けるだけだ。わけもわからずに揉まれるのは性に合わない。

「どういうことなのか、全然わからないわ。官長という人が、あなたがいれば町を歩いてもいいって言ってくれたのは昨日なのよ。なんでこんな風にこそこそと逃げるようなことになって」

 男の顔が辛そうに歪んだので、朝の開けた口から出ていた勢い込んだ言葉がぴたっと止まった。

 静まり返った小屋の外、すぐ傍にある鉄柵のたぶん向こう側だろう、人々がばたばたと走る音がする。わからない言葉で叫びあっているのも聞こえてくる。

 緊迫感だけは朝にもわかる。きっとこんなところで朝が厭だとごねていてはいけないのだろう。素直に男についていくべきなのだ。あの砂漠でもそうだったじゃないか。

 それでも何もわからないままでは、朝だって不安だ。そうだ、朝は不安でどうしていいのかわからないのだ。朝の体は自分でも意識しないまま、小刻みに震えている。

「悪かった」

 男はいきなり深々と頭を下げた。朝はぎょっとして慌てて手を振り回した。

「なにもそんな」

 朝の言葉を待たずに男はさっさと頭を上げた。やはり急いでいるのだ。

「悪いがそれでも説明している暇は無い。聞きたい事は後で全て説明しよう。俺にわかる事ならなんでも話す。だがとにかく今はここを離れなければならない。おまえは他所の国から来ているから尚更なんだ」

 男は朝の顔をひたと見据えたまま続けた。

「今この町は危ない。だから逃げる。俺を信じてくれ」

 朝は1度だけぎゅっと目をつぶってから、男の顔を、きれいだが張りつめている顔を改めて見つめ返した。

 これは現実で、朝は何かに、竜巻とかではなく何か、おそらく国を揺るがすような大きな問題に巻き込まれていて、とにかく逃げなければならない。それだけ。説明は無し。とにかく今は。

 これは冒険なんだと思おうとした。これは自分が望んでいた冒険の一部なのだ。だから朝はそれをやり遂げなければいけない。そう思って出てきたのだから。

 あの小さな家を。三つ子の小さな四角い家を。冒険のために。

「わかった。えっと、逃げます」

 安堵したのか、ほっと息をついた男は、それ以上言葉を使って時間を浪費することを惜しんだ。扉を細く開け外の様子を伺う。

「よし」

 朝の腕を引く必要はなかった。朝は男の傍にぴたりと寄り添っている。逃げなければならないのなら、せめて足手まといになってはならない。揉まれなければ渦巻きをやりすごせないのなら、思い切りよく飛び込むまでだ。実はこういった潔さは、三つ子のもっとも似ているところだ。

「行くぞ」

 朝は胸の前で布を押さえている両手にぐっと力を入れると頷いた。

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