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豆畑の外は世界の果て  作者: 大石安藤
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朝は寺院で。

「どうすればいいの?」

「どうもしなくていい。黙って座っていろ」

「でもそれじゃあ、なんていうか」

「なんていうか? なんだって言うんだ」

「いや、あの、申し訳ないっていうか」

 男はなにを今更と言う顔で続けた。

「いいから黙って頭を下げていろ」

「……はい」

 砂漠で助けられたことに感謝はしているが、だからといってここまで頭ごなしに命令されるのもどうかと思う。

 それでもこの男には逆らえない迫力のようなものがあり、自分がなぜここでこうして男の後ろで祈るかのように跪いているのかわからないにも関わらず、朝はおとなしく言われたとおりに頭を下げていた。

 朝は男の言葉から誰か、おそらく僧院では高い位にある誰かに引き合わせられるのだろうと察したので、自分のことは自分で話をしたほうがいいのではないかと思っただけなのだが。

――この人はお坊さんなのかしら。

 部屋全体に落ち着く香りが漂っている。香を焚いているようだ。そしてこの香りは、朝にも覚えがある。村にある小さな寺院の香りだ。だからここはおそらく寺院で、この男は僧侶なのではないか。

 だが、とてもそうは思えない。砂漠に僧侶がいたことも不自然な気がするし。

 けれどたとえ不可解に思っていても、砂漠のことをちっとも知らなかったように、朝は僧侶のこともまったく知らないのだった。

 部屋は広く、家具は少ないが効率よく置かれ、そしてどこもぴかぴかに磨き上げられている。床までぴかぴかで、朝はこれから来る誰かを待っている間に、自分の身なりを点検することもできた。これほど磨きこまれた床では、日頃は目をつぶって見ないふりをしている物まで見えてしまう。三つ子の中では一番そばかすが多いのだ。

「もう少し頭を下げて」

 言われついでに頭を抑えられた時、扉が開く音がして誰かが入ってきた気配があった。朝達が入ってきた扉の向かい側にある片開きの扉のようだ。

「戻ったか」

「はい。少々事情が変わりまして」

「なるほど。それで見てきたか」

「はい」

「そうか」

 ふたりの言葉が途切れた。こちらに近づいてくる衣擦れの音がする。足音は聞こえない。ふわりといい香りが辺りに漂った。服に焚きこめられているのだろう。花の香りだろうか。これもまた朝にはよくわからない。

 それほど待つことも無く、朝の頭に香りとともにそっと手がのせられた。

「……祝福を与えた。頭を上げなさい」

 言葉の始めの部分の意味がわからなかったが、頭を上げることは許されたようだ。恐る恐る上を向いた朝の目が、柔らかで深い緑色の瞳に捕らえられた。

「あなたはどなたか」

「あ」

 なんと言ったらいいものか。戸惑っている朝にかまわず、男が口を開いた。

「砂漠にいたので連れてきました。どうやら砂漠を横断する気でいたようです。なのに砂漠を見るのも初めてらしく、タドリイの泉で行き会った時にはかなりぐったりした状態でしたので、薬水を与えました」

「ほう、なんとなんと。まあ、とにかくお座り」

 またしても不躾に見つめていたことにやっと気がつくと、朝は顔を赤くしたまま促された椅子に座り、「どうも」と頭を下げると、今度は顔を上げづらくなった。

「そうかしこまることもない。この男は言葉は悪いが乱暴者ではないし、気も優しい。なにも不自由はなかっただろう」

「あ、はい。よくしていただきました」

 答えてから横目で男を見ると、当然だという顔で立っている。もう少し謙虚でもいいんじゃないかと思うのだが、そうは言えない。

「お気づきかもしれないが、ここは寺院で、私はここの官長をしている。許可を与えるからいつまでもここにいてくれてかまわない。日課には参加してもしなくてもよろしい。ただ食事の前の祈りだけは出てもらわないといけない。これをしないと私でも食事ができないのだ。残念ながらね」

「ああ、そうなんですか。たいへんですね」

 えらくなってもお祈りはかかせないわけだ。間の抜けた返事だったのか、横で男が苦笑したのがわかった。

 官長と名乗った人は「そうなんだよ」と大きな笑顔を見せたが、すぐに顔を引き締めた。

 ただし。

「町へ出る時、それから町の外へ出たいと思った時、そしてここから旅立つ時には、私かこの者に必ず告げるように。ひとりで出てはいけないし、黙って行ってもいけない」

 そこでふうっと息をついた。

「砂漠は恐ろしいところだ」

 呆れたように首を振る。被り物がさらさらと音をたてる。かなりいい生地でできているようだ。

「女性の身で、それもひとりで砂漠を歩こうなど、無謀なことはなはだしい。自分の身を守ることさえ危ういに違いない。この者に会ったということも、ここまで辿りつけたということも、天の采配に違いなく、大変幸運なことなのだ。感謝の祈りだけは十分に捧げなさい」

「はい。……あの」

「なんだね」

「ええっと、ここはどういった寺院なんでしょう。宗派とか、祈りとか。私の知っているものでいいのかわからなくって」

 朝は信仰心が薄く、聖句もろくに覚えていない。感謝の祈りと言うなら、それなりに形式にのっとったものでなければならないだろう。せめてどんな宗教でどうすればいいのか知りたかった。

「馬鹿な」

 男が小さく罵った言葉が耳に入った。何かといえば馬鹿だ馬鹿だと、失礼極まりない男である。官長は「はっは」と笑ってから、男に向かい、「きついことを言うな」と言葉を出してくれた。

「知らなければ無理もない。みな、お前のように熱心な者ばかりでもない。それは僧侶とて同じことではないか」

 官長は朝の国の名前を聞いて頷くと、宗派は違うが同じ宗教であるし、聖句も共通語の写本があるから、それを見て拾い唱えればいいと説明をしてくれた。おかげで朝はほっとして礼を述べた。

「よい、よい。さあ、私はまだ客人を待たせている」

「それは」

「あとで話そう。お前の話もそのときに」

 官長はそれきりさっさと部屋を出て行った。

「客人か」

 男は束の間、朝のことなど忘れたかのように考えこんでいたが、朝がきょろきょろと視線を走らせていることに気がつくと、顰め面に戻り、「出るぞ」と促した。

「はいはい」

 廊下は薄暗いが、男が開けた扉を抜けるとそこには中庭があった。砂漠の中にある町とは思えないほど丈高く伸びた木が何本も植えられて木陰を作り、わさわさと繁った葉を通して日差しが降り注ぎ、庭を覆った下草はきれいに刈り揃えてある。沈みかけた太陽がより柔らかい景色にしている。

「それで、どうしたいんだ」

 朝は中庭の心地よい美しさにぼんやりしていたので返事が曖昧なものになってしまった。

「え? あ、ああ、どうしたいかって、ええっと私?」

 男は飽きもせずに渋面を浮かべた。

「これからどうしたいのかと聞いているんだ。どこかに行きたいとか、なにかをしたいとかがあったんじゃないのか。それで砂漠に出てきたんだろう」

 これで「冒険があると思って」と言ったなら、どれほど罵られることだろう。

 朝は別にどこかに行きたくて出てきたわけではない。あの小さな家にいられないと思って出てきた。東の砂漠を越えていけば、何かがあると思った。それが何かは今もってわからず、冷静に考えれば、確かに無謀で愚かなことで、自分でそう思ってしまうと、どう言ったらいいのか、ますますわからなくなってしまった。

 男はいらいらした顔で朝を見ながら、それでも何も言わずに返事を待っている。中庭は広く人影も無い。朝は傍らの香りの良い木の滑らかな木肌に背中を預け、ううん、と考えて、聞きたかったことをひとつ思い出した。

「ええっと、とりあえず、あなたはなんていう名前なの? なんて呼んだらいいのかしら」

 この期に及んで名前すら聞いていないというのも間抜けな話だ。だが、砂漠にいた時は相手の名を呼ぶ必要など無かった。話ができるものはお互いしかいないから、名前は必要無いのだ。

 男は唖然とした顔になった。まさかこんな言葉が出てくるとは思ってもみなかったというように。

 けれど、「まあ、それもそうか」と呟くと、初めて苦笑ではない微笑みを浮かべた。

「俺は修行中の身だ。名前は無い」


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