何もしなかった悪役令嬢と、真実の愛で結ばれた二人の断罪劇
「オリオール公爵令嬢コランティーヌ、あなたとの婚約を破棄する。そして、私はバリエ男爵令嬢ポレットと結婚する」
貴族学院の卒業パーティーにて、王太子ファブリスの声が響く。
周囲はざわつきながら、嘲りや蔑みの眼差しを王太子とその横に立つ男爵令嬢に向ける。
でっぷりと太り、顔には吹き出物も目立つ王太子ファブリスと、愛らしい顔立ちとはいえるが平凡の域を抜けず、貴族の中では末端といえる身分の男爵令嬢ポレットは、むしろ似合いではないかと嘲笑う囁きすら交わされる。
「まあ、わたくしにどのような落ち度がございますの? まさか、その男爵令嬢に嫌がらせをしたなどとおっしゃいませんわよね?」
婚約破棄を言い渡された公爵令嬢コランティーヌは、挑戦的に口を開く。
まるで人形が命を吹き込まれたかのような、繊細で優雅な美貌の持ち主であるコランティーヌに向けられるのは、人々の同情の眼差しだ。
中には、もともとあの王太子とは釣り合っていなかったと囁く者すらいる。
「いいや、あなたの友人たちが嫌がらせをしていたことはあったが、あなたが何もしていないことは知っている。そう、あなたは何もしていない」
ファブリスが淡々と答えると、コランティーヌは口元を扇で覆いながらため息を漏らす。
「それならば、わたくしには何の落ち度もございませんわね? そもそも、オリオール公爵家の後ろ盾を失って、あなたが王太子でいられると思っておいでですの?」
「……私は、真実の愛を見つけたのだ。ポレットだけが私の光だ。あなたとは、できることなら二度と会いたくない」
傲慢に言い放つコランティーヌの言葉に答えることなく、ファブリスは言い捨てると、ポレットの手を引いてパーティー会場を出て行く。
嘲る声や蔑みの眼差しを浴びながら、ポレットはついにこうなってしまったかと、こっそりため息を吐き出した。
まるでいつか読んだ、身分の低いヒロインにうつつを抜かす王子が悪役令嬢を断罪する物語だ。
だが、その物語では結局、断罪されるのは王子とヒロインだった。
その断罪される側の立場になっているポレットは、虚ろな目をこれからの未来に向けていた。
*
バリエ男爵家に生まれたポレットは、貴族とは名ばかりの貧乏育ちだった。
貴族の義務として王都の貴族学院に入学したとき、ポレットが目標としたのは金持ちの男を見つけることである。
貧乏暮らしはもうごめんだ、左扇の安楽な生活をして幸福になるのだと、ポレットは気合いを入れて学院の男子生徒を物色した。
そこで目を付けたのが、王太子ファブリスだった。
最初は偶然、裏庭でぼんやりしているところを見かけた。
それからも毎日、誰もが羨むコランティーヌという婚約者がいながら、彼は一人でたたずんでいたのだ。
「あの……大丈夫ですか?」
さすがに王太子は身分違いすぎるかと最初は思ったポレットだが、あまりにつらそうなファブリスの様子を見て、思わず声をかけていた。
すると、ファブリスは驚いた顔でポレットを見つめ、あたふたとしてしまう。
「あ……ああ、きみは……?」
やがて少し落ち着きを取り戻したファブリスに、ポレットは微笑んで名乗った。
それからポレットはファブリスに気に入られたようで、裏庭で共に過ごすようになっていったのだ。
ポレットは、王太子の愛妾の座を狙うことにした。
王太子妃などポレットの身分では望めるはずもなく、そもそもそのような重い立場などごめんだ。
たとえ周囲から軽んじられても、責任もなく、金銭的に不自由のない暮らしができるのなら、文句はない。
もちろん、王太子の婚約者であるコランティーヌに刃向かう気もない。
もし愛妾として認めてもらえるのならば、喜んで靴を舐めるくらいの心意気だ。
「……殿下、もう少し王太子としての責任感をお持ちになって下さいな。今のままで、わたくしの隣に堂々と立っていられると思っていますの?」
ときおり、コランティーヌがファブリスに苦言を呈しているところを見かけることがあった。
コランティーヌは常に学年首席で、自分にも他人にも厳しい。
それに対して、ファブリスの成績は中間ほどだ。
優秀で容姿端麗なコランティーヌと並んでいると、ファブリスは引け目を感じるようだった。
コランティーヌの態度も冷淡で、厳しい言葉をかけて改善を促すが、それ以上のことは何もしない。
直接罵るようなことはしないまでも、冷たい視線や長い吐息が、その心を雄弁に語っていた。
どんどん追い詰められていくファブリスを、ポレットは心を痛めながら見ていることしかできなかった。
二人のときだけ、ファブリスは安らいだ笑顔を見せてくれる。
太っていて肌も荒れているが、顔立ちそのものは悪くないのだということも、会っていくうちに気づいた。
「ファブリスさま、何を作っていますの?」
あるとき、裏庭でファブリスが木をナイフで削っているのを見かけ、ポレットは尋ねてみた。
「ああ……彫刻というほど大層なものでもないけれど、こうやって木を彫るのが好きでね。僕の趣味なんだ。コランティーヌはそんなことをしている暇があったら、教科書の一ページでも読めと言うけれどね」
木とナイフから目を離さず、ファブリスは答える。
やがて、愛らしい木彫りの少女像が出来上がった。
生き生きとした躍動感にあふれ、意外なファブリスの才能にポレットは感心する。
「ポレットをモデルにしたんだ。受け取ってほしい」
「あ……ありがとうございます……」
木彫りの少女像を渡され、ポレットは戸惑いながら受け取る。
そこで休憩時間の終了を予告する鐘が鳴ったので、二人はそれぞれの教室へと戻っていった。
夜になり、寮の部屋でポレットは自分の思いに混乱していた。
ポレットにとってファブリスはいわば、金づるでしかない。愛妾となって贅沢な暮らしをするために必要な存在で、それしか価値がないはずだ。
それなのに、木を削っただけという、およそ王太子らしからぬ貧しい贈り物をされて、心にわき上がったのは怒りではなく、喜びだった。
「……違う……きっと、この像が売れるくらいの出来だから……価値があると思っただけよ……本当は、宝石とか高価なもののほうが良かったって思っているんだから……」
力なく呟きながら、ポレットは木彫りの像を、胸にぎゅっと抱える。
ファブリスなど太っていて、冴えない男ではないかと、自分に言い聞かせようとする。
愛妾狙いということは、別に正妻を迎えることを最初から承知しているのだ。
ポレットは自分が欲深いという自覚がある。愛した相手を誰かと共有するなど、我慢ならない。
だから、自分が唯一になれないファブリス相手に恋心を抱くなど、あってはならないことだった。
あるとき、ポレットは無礼を承知でコランティーヌに、もう少しファブリスと向き合ってもらえないだろうかと申し出た。
「わたくしは王妃としての勉強に忙しいのですわ。殿下の問題は、殿下ご自身で向き合うべきではありませんの? それに、あなたごときが口を出すなど、僭越ではありませんこと?」
だが、コランティーヌは全く取り合わず、ポレットをはねつける。
ファブリスとコランティーヌの仲が改善すれば、一歩引いて二人を見ることになり、気持ちに整理がつくかもしれないというポレットの思惑は外れた。
「なんて身の程知らずなのかしら……コランティーヌさまに対して物申すなど……恥を知りなさい」
「あなたのような卑しい女と、コランティーヌさまは違うのよ。お忙しいコランティーヌさまを煩わせたこと、反省なさい」
「そもそも、婚約者のいる王太子殿下に取り入るなど、恥知らずもよいところですわ。王太子殿下もコランティーヌさまという素晴らしい婚約者がありながら……」
しかも、これがきっかけでコランティーヌの取り巻きから、嫌がらせをされるようになってしまったのだ。
コランティーヌ本人からは、何もされなかった。
嫌がらせの現場をコランティーヌが目撃したときも、彼女は何も言うことなく立ち去っただけだった。
やがて嫌がらせは、ファブリスが偶然その場面を見つけたことによって、収まることとなった。
普段は穏やかで、おどおどとすらしているファブリスが激しい怒りを見せ、堂々とした態度で取り巻きたちに向き合い、コランティーヌにも抗議したことに、ポレットは驚く。
だが、ファブリスはポレットをそのような目に遭わせたことで、さらに追い詰められてしまったようだ。
「ごめんよ……僕が不甲斐ないばかりに……そもそも、僕は王の器なんかじゃないんだ。本当は、弟に王太子の座を譲りたいんだ……」
涙ぐみながら、ファブリスは思いを吐き出した。
ファブリスは第一王子であり、第二王子となる二歳年下の弟ベネディクトがいる。ベネディクトは優秀で、見目も麗しいと評判だ。
しかし、ファブリスは今は亡き先王妃の息子であり、ベネディクトは現王妃の息子となる。
今は亡き先王妃のことを愛していた国王は、その息子であるファブリスに跡を継がせたいのだという。
「……実は、考えていることがあるんだ。実行すれば、僕はきっと王太子の座を失う。王族でもなくなるだろう。それでも、一緒にいてくれるだろうか……?」
ファブリスはまっすぐにポレットを見つめながら、そう尋ねてきた。
唇を引き結びながら、ポレットはその視線を受ける。
ポレットの目的は、王太子の愛妾となって左扇で暮らすことなのだから、身分を失ったファブリスに価値などないはずだ。
まして、王太子でも王族でもなくなるというのは、よほどのことをしでかすということだろう。
そのような相手と一緒にいて、得になることなどない。
ポレットの理性は、断れと警鐘を鳴らしている。
「はい……」
だが、理性を裏切って、ポレットは頷いていた。
何故かは自分でもよくわからない。
だが、ポレットの返事を聞いて、硬かった蕾が綻ぶように心からの笑顔を見せるファブリスを見ると、胸が苦しく、そして温かくなる。
きっと、これが答えなのだろう。
──そして、ファブリスは卒業パーティーの場で、婚約破棄を宣言した。
*
王太子ファブリスは、家同士の決めごとである婚約を勝手に破棄し、身分の低い娘を妻に望んだ愚か者として、廃嫡された。
しかし、ファブリスが望んだ男爵令嬢ポレットとの結婚は認められた。
王族籍を離脱し、男爵位を授かってのことだが、王妃と第二王子の取りなしがあったという。
公爵令嬢コランティーヌは学院を首席で卒業した優秀さを買われ、新たに王太子となった第二王子ベネディクトの婚約者となった。
優秀で見目麗しい者同士だと、評判になっている。
コランティーヌも、ファブリスの婚約者だったときとは違い、ベネディクトには柔らかい態度を見せているという。
「今日も良い天気ね」
男爵夫人となったポレットは、窓の外を眺めながら、伸びをする。
窓の横にある棚の上には、木彫りの少女像が飾られていた。
ファブリスが授かった男爵領は僻地で、もう二度と王都に顔を出すなといった意図を感じたが、土地はそれなりに肥えていて豊かだ。
左扇とはいかないが、生活に困るようなことはない。
しかも、ファブリスは領地経営の手腕があり、男爵領は徐々に発展してきていた。
一時はどうなることかと思ったが、それなりに良かったのかもしれないと、ポレットは風に吹かれながら考える。
もともとが貧乏暮らしの田舎者だったため、王都にいるよりも今の方が性に合っているだろう。
仮に企みがうまくいって、王太子の愛妾となっていたとしても、王城での生活にはついていけなかったかもしれない。
ドレスの値段を見ても、野菜いくつ分の値段かと換算してしまうのがポレットだ。
「ポレット、一緒に散歩に行かないか!」
窓の下から、夫となったファブリスの声がする。
ポレットがそちらを見ると、すっかり痩せて健康的になったファブリスが手を振っていた。
以前は過食の傾向があったファブリスだが、王都での気苦労の多い暮らしから解放されると、食べる量が減ったのだ。
しかも、近場に小さな山があって、彫刻用の木を自分で物色するようになり、歩くことも増えた。
今ではすっかり体が引き締まり、顔の吹き出物も消えている。
もともと顔立ちは悪くなかったので、領地の若い娘から熱い眼差しを向けられることも多くなっていた。
だが、ファブリスはポレット以外に目移りすることなく、夫婦仲は睦まじい。
「今、行きます!」
ポレットは急いで外に出て行く。
二人でのんびりと散歩を楽しんでいると、領民たちから声をかけられる。
「おはようございます、領主さま、奥方さま!」
「大きなカブがとれたんで、後でお届けしますよ!」
気さくに話しかけてくる領民たちに、ファブリスも笑顔で頷く。
領民たちとの距離が近く、領主とその奥方といっても、村長夫婦くらいの感覚だ。
かつて王太子だったファブリスには考えられない距離感だろう。
しかし、ファブリスはこちらのほうが性に合っているようだった。
王太子のときは出来が悪いなど言われていたが、今では優秀な領主として慕われている。
「あのとき、決断して本当に良かったよ。僕はとても幸せだ」
ファブリスはそう言って、微笑む。
卒業パーティーで婚約破棄を言い出したのは、自分の息子を次期国王にしたい王妃と、王位を望む第二王子との取引でもあった。
先王妃の息子に跡を継がせたいと望む国王も、それがとんでもない馬鹿となれば、廃嫡せざるを得ない。そうすれば第二王子が王太子になれる。
その代わり、ポレットとの結婚と、どこか僻地でよいので領地がほしいとファブリスは望み、それが叶ったのだ。
そして、新たな王太子の婚約者となった公爵令嬢コランティーヌだが、優秀と言われていたのが、無能の烙印を押されつつある。
知識はあり、勉強はできるのだが、人と接する際に傲慢さが滲み出ているという。
客をもてなす場であっても、己の優秀さをひけらかすばかりで、相手を立てるということを知らないとの評判だ。
裏方で働くのならばそれでよいかもしれないが、未来の王妃という国の顔としては不適格である。
だが、指摘されてもコランティーヌは聞き入れない。
自分が優秀だから嫉妬されている、ひがんでいるだけだと、何もしようとしないのだ。
第二王子ベネディクトには、実母である王妃の実家という後ろ盾がある。
後ろ盾の無かったファブリスほど、オリオール公爵家の力を必要としていないのだ。
婚約破棄か、それとも側妃として迎えて正妃は別に選ぶか。
何にせよ、未来の王妃にはなれないようだ。
プライドの高いコランティーヌは受け入れられず、荒れているらしい。
ファブリスの婚約者だったときも、コランティーヌは一番大切な未来の伴侶との関係を構築しようともしていなかった。
王妃としての勉強がどうのと言っていたが、それよりも大切なことがあったはずだと、ポレットは思う。
コランティーヌは、本当に大切なことは何もしていなかったのだ。
自分の落ち度を認められないコランティーヌより、自分の欠点を認めて向き合うことのできたファブリスのほうが、実は賢いのかもしれない。
本当に断罪されたのは、どちらだったのだろう。
数少ない王都の友人からの手紙を思い出し、ポレットは物思いにふける。
「……私も、幸せです」
ポレットは過去の思いを振り払い、微笑む。
愛妾になって贅沢な暮らしをすることはできなかったが、生活に困らない豊かさの中で、愛する人の唯一になれた。
もしかしたら、その方がずっと贅沢なことなのかもしれない。
あの日描いた未来図とは違ったが、ポレットは確かに幸福になることができたのだ。