死に際、その刹那
今日こそ死のう
そう決意し、少女は一歩踏み出す。
快速列車の通過を知らせるアナウンスを聞き流しながら、次へ進むために、一つの終わりにするために、少女は線路に倒れこむ。
やっとお終いにできるという充足感に包まれながら、ゆっくりと流れていく最期の光景を眺めていた。
ふふっ。ちょっと心地いいかも。
あと少しでこの世界と別れられるというときに、誰かが少女の手を掴んだ。何とか振りほどこうとしているうちに、列車は少女の希望を置いて、通り過ぎて行ってしまった。
どっ、と体中が生気で満たされる。
安心感というか充足感というか、えもいわれぬ感覚が体に走っていた。だがそれも束の間、突然妙な感覚が体を包む。心地よい温もりで少し、落ち着く。
抱きしめ……られてる?
そう気づいたとき、夢から現実へと引き戻されるように高揚感は失われ、代わりに疑問が湧いて出てくる。誰なんだろうこいつは。なんで抱き着かれているんだろう。こいつが自殺の邪魔した偽善者?
どうやらそうみたい。ほかの人はこっちを見てもいないし。だとするならきっとこいつは今、一人の少女を救ったヒーローである自分に酔っているに違いない。苦しみに耐えられず、最後の道として選んだ自殺を邪魔し、ヒーロー気取って「生きてればいいことあるよ」などと言うつもりなのだろうか。そんなのヒーローじゃなくて、なんなら一番たちが悪い。言っちゃえばラスボス。
しばらくそのままでいた後に、やっと離してくれた。ラスボスにしてはかわいい見た目をしたそいつは体は細く華奢で色は白く、さっき抱きしめられていた時に感じた力強さがなかったら女の子と間違えていたかもしれない。とは言えこいつが自殺の邪魔したことは変わらないし、女の子っぽくても男なのだから信頼できない。
不幸というべきか幸いというべきか、少年が私の手を掴んだのが早く、周りの人からは「足取りがちょっと不安な女の子」くらいにしか思われていなかったのか、誰も私が自殺しようとしていたことには気づいていなかった。そして私は今、駅の外の人気のない路地裏に連れてこられていた。
強姦?女の子みたいな顔してても、急に抱きしめてくるような奴だしあるかもな…。
正直、もう何でもよかった。一度死のうとしたのだから。死ぬという決意を固めた以上、頭の中には次、いつ、どうやって死のうかということでいっぱいであった。皮肉にも、死ぬという道を選べるようになると人間はより強く生きられるらしい。
そして少年が口を開く。
「ねえ、次はいつ死ぬつもりなんだい?」
「えっ?」
予想しないひと言に、普通に聞き返してしまった。
「だーかーら!自殺、したいんでしょ?次はいつするの?」
「え、ま、まぁ。だけどあなたには関係ないでしょ?それを知ってどうしたいの?」
全く彼の意図がわからない。
「目的はね」少し間をおいてから答える。
「君の自殺の阻止、かな」
「どうして。どうしてそんなことするの?私が死んだってあなたには関係ないでしょ?」
やっぱりそれか、偽善者め。甘い言葉で篭絡しようとしてくる敵。
「確かに君が死んでも僕はなんとも思わないさ。ただ僕の存在のために、君を救う。君を救えば僕はそこに存在を見いだせる。何にもできない奴じゃなくて、命を救ったんだ、ってね。」
「ふざけないで。死のうと思う人の気持ちはあなたには分からない…。自殺するもしないもこっちの自由でしょ!」
「ああ、その通りだよ。死ぬも死なぬも本人の自由。そして救うも救わぬも僕の自由だよね。あとこれ。君の荷物でしょ?」
そう言い残して少年は行ってしまった。なんなんだあの少年は……。仕方なく今日のところは帰路につくことにした。
さて……。二度目ともなると恐怖もほとんどなくなっていた。
目の前に広がるのは私が住む町。そしてここは私が過ごした学校。私の学校は小中一貫校で、五階建てとなかなか校舎が大きい。おかげで一歩で向こう側へ行けそうだ。
ドラマなんかだとここで葛藤があって、下でみんなが止めてて……。でもそういう展開は今回ナシ。誰かに気づかれるよりも早く、この一歩を。
片足を前に出して、体重を預ける。しかしその瞬間、視界が真っ暗になって背中側に倒れていく。
あれ…?落ちたわけじゃ、無いみたい。背中が何かに触れている。何かが私の頭に触れる。一瞬びっくりしたがどうやら頭を…撫でているみたいだ。
誰?どうして?とか思う前に、聞き覚えのある声がした。
「今日は落下死、ね。」
「なんで…!?」
「なんでって、昨日言ったでしょ?僕は君を死なせない。」
「ほんとに……どうやってここを見つけたのかわかんないけどさ…っ!もう構わないで!」
わけわかんない。なんなの。なんで、なんで私なの。ほっといてよ……。
「もう来ないで!!」
そう言い放って、屋上を後にする。ああ、また死ねなかった……。もし明日も死ねないかもと思うと、恐い。
そして私は今日も帰りたくもない家に帰る。もはや家と呼ぶべき場所なのかすら分からない。とてつもなく重く感じるドアを押して家の中へ。なるべく早く、誰の目にも止まらないうちに自分の部屋へと階段を駆け上がる。あの人は…良かった、いないみたい。
妙に綺麗に片付いた部屋を見るとため息がこぼれる。この部屋には娯楽と言えるものは何にもなく、あるのは参考書、問題集、塾の教材、学校の教材。そしてきれいに整えてあるのはいい子でいるため。いい子でいなきゃいけないから。ここは鳥籠、いい子の私を見るためのショーケース。
きっとあの人はここにいるときの私だけを見てるんだろうな。
そんなことを思いながらしばらく部屋の真ん中で丸まっていた。
……ガチャン。
「瑠璃。なにをしているの?」
「ぁ……。ごめんなさいお母さん…。すぐに勉強するから…だから…」
パァン!……と乾いた音が響く。
「毎回毎回私を怒らせないで!勉強しろって言ってるよね?なんでわからないの?!」
「ごめんなさい……私が悪いです…すぐに戻るから…許してください…。」
「これはね、瑠璃の将来を思ってのことなのよ?いい?きっとまだよく理解できていないのね。とにかくあんたがすることは、勉強。いいわね?」
「はい……。」
鳥籠の扉が閉められた。
鳥籠は私を逃がさないけれど、一方で私を外敵からも守ってくれる。だから皮肉なことに、この家での苦痛の象徴ともいえる場所が、私の唯一の安らぎの場でもあった。そしてこの部屋にはもうひとつ、私に安らぎを与えてくれるものがある。「この部屋には娯楽が一切ない」というのは少し違っていて、一つだけ、自分で生み出した娯楽がある。それがこの夢日記。
夢はすべての人に等しく見る権利があって、その中ではなんでもできてしまうという最高の娯楽。これを書き溜めて、たまに見返すの。勉強がどうしても嫌なときとか。
これをつけ始めたのは一年くらい前で、毎晩悪夢にうなされていた頃だった。毎夜毎夜恐ろしい悪夢を見なきゃいけないから、少しでも耐えられるようにとつけ始めたのが原点。元々はそんなに夢を見るほうじゃなかったから、未だに一冊目から抜け出せていない。
でも、そろそろこれともお別れか。きっかけはすごい嫌なものだったけど、やってみると意外と楽しかったな。
夢日記を付けると気が狂うとよく言われているけど、元から狂ってたら大丈夫なのかな。そんなことを思いながらページを繰る。そこにあるのはおぞましい悪夢の数々。それでもこの頃の私はまだ、生きることを諦めていなかったらしい。
いつからだっけ。生きるのを止めたくなったのって。
昨日はあのまま寝てしまった。昔はあの人の言うことに従って生きてきたけど、今となってみるとバカみたい。自分の手で愛する娘の首を絞めてるんだからね。あの人、過去に何か忘れ物があるのかもしれないけど、それを私に求めないでほしい。
学校に行く身支度を済ませて家を出る。
「行ってきます」
いい子は敷居を出るまで。あとちょっと。よし。
誰が学校なんか行くか、ばーか。
今日の目的地はこっち。この前見つけたビル。ここは割とひらけたところにあるし…ちょうどいい。ちゃんと後ろも確認しながら歩いてきたから、あの変な偽善者もいないし。
人目を気にしながらこっそりと侵入して、屋上目指して階段を上っていく。そして屋上に行くには……ここは梯子なのね。壁から生えている銀色の梯子に足をかけて、死に場所に至る。
よいしょっ…と。結構見晴らしが良くていい場所だ。
景色を眺めながら身だしなみを整える。乱れた格好で死にたくはないという、ちょっとしたこだわり。
昨日は落ちるみたいに死のうとして止められたからね…なるべく早く飛び降りてみようかな。
軽く助走をつけて、駆ける。屋上の縁がだんだんと近づいてくる。あと三歩、二歩……
「今日も落下死?」
瞬間、足がすくむ。死以上に恐かったというか、少し安心したからというか。あと一歩のところで、足が止まってしまった。きっと来るんだろうなという思いもあったけど、それ以上に警戒して絶対来れないようにしたのに。
「今日も…来たんだね……」
「そりゃね。理由は連日と同じさ」
「ほんとにどうやって見つけてるの?今日だって周りには誰もいないことを確認しながら来たのよ?」
「んー。まだ秘密。君が気づいたら打ち明けるよ。」
「あっそ。ほんとにいい加減やめてほしいんだけど、どうせまた来るよね。」
「ご名答。君が死のうとする限りは。」
「じゃあ、私はあなたが気づく前に死ぬ。じゃあね、ストーカー君。」
そう言って屋上から降りようとしていると、後ろで何か聞こえた。
「風見」
「風見 鏡。良かったら覚えといてよ。」
「鈴谷 瑠璃。風見ね、もう出来れば会いたくないけど覚えておくわ」
「うん。またね瑠璃ちゃん。」
こいつはこういうこと平然としてくるから困る。友達でさえないのに。
下の名前を異性に呼ばれたのなんていつぶりなんだろう……。
その後も風見は何回も何度でも私の自殺を阻止してきた。駅、ビル、山、川。どんな場所でもこいつは現れる。もはやたまに夢に出てくるほどにだ。私の宝物にこいつの名前が入るのはなんかな……。
ある日、私はまた自殺の邪魔をされた後でほっつき歩いていた。せっかくだから今のうちに夢日記を書こうと鞄を漁る。
あれ?
もしかしたら隅のほうに引っかかってるのかもと思い、一回鞄の中身を全部出してみることにした。しかし…
出てきたのは夢日記ではなく、見知らぬケータイであった。
え?誰のだろう……。というかいつから…?
確認しようと思ったけど、それ以上に夢日記がないという事実が一番まずい。ここのところ家ではよく夢日記を見ていたからもしかして……。
私は勢いよく駆け出した。
頼む…まだ見つかってませんように。
そんな期待は家につくと同時に打ち砕かれた。
「瑠璃?これは何なの?」
「それは…………。」
「あのね、瑠璃。」
この人は夢日記のページを破り捨てながら話を続ける。
「そんなことはないと思うんだけど。」
びりっ。びりっ。と私の記録が宙に落ちる。
「こんなものに時間を割いてた訳じゃないわよね?」
日記の形はもうほとんど無くなっていた。地面に散ったページを集め、この人はそれに火をつけた。私の一年間は炎の中で失われていく。
「……なんで…。」
「何かしら?これは不必要なもの。ある必要のないものを持っておく意味なんてないわ。」
「あなたにはこれにどれだけの思いが…!こんな紙切れでも私が縋れる唯一のものだったのに!」
「縋る?なにバカなことを言ってるの?そんなに大切だったんなら処分して正解だったわね。それとあなたのための勉強なのに、どうして逃げようとするの?まだしつけが必要?」
そう言いながらこの人は近づいてくる。怖いけど…結局もうすぐ死ぬのだから最後に反抗してやりたいという気持ちが、後ろに引くことをさせなかった。この人は何も言わずに、私の頬にビンタ。痛い、でもこのくらいなら慣れているからまだ大丈夫。しかし次の瞬間、私は心の中でさえ言葉を発せなくなった。漏れ出るのは嗚咽だけ。腹部に加わる激しい衝撃に私はどうすることもできなかった。それから二度、三度と腹を殴られ、吐くものがなくても体は何かを吐き出そうとしてしばらくまともに話せなかった。
「すぐに部屋に戻りなさい。そしてすべきことはもう分かるわよね?」
視界がぼやけて曖昧な意識の中、私はかろうじて頷いた。
軽く開いた口からは唾液が垂れ、目は虚ろ、おなかを抱えるようにして地面に横たわっていた私の姿は周りから見れば、さぞ滑稽だったろうな。
部屋の鍵が閉められる。今回のはさすがにきつかった。まだまともに動けないし、勉強なんかなおさらだ。そんなことも分からずにあの人は自分の思い通りにならなければ喚き、殴る。私の成績が伸びていようが関係ない。きっとどんなに頑張ってトップにいても、大学に入ってもあの人は認めてくれないだろう。自分が歩めなかった人生を、私を通して歩もうとしている、しかもつらいところは私任せだ。こんな奴を親とは呼べない。
ほんと、死のうと思ってなかったらこの先どうなってたんだろう。
ふと、誰のものか分からないケータイが鞄に入っていたことを思い出した。
いつから…?
ここ最近、特に死のうとした時からは学校に一度も行っていない。だから鞄の中だってずっとそのままで、いつから入っていたのか見当がつかない。
恐る恐る開いてみる。
ロックはかかっておらず、ホームにはひとつだけアイコンが浮かんでいた。そのメモ帳アプリの中にあったのはtitle:「見つかっちゃったか」
悲しいことに誰がやったか分かってしまう。風見だ。
あいつが私の行き場所に必ず現れて自殺を阻止してくるカラクリはこれだったのか…。風見も人間だったようで少し安心した。ここまでしてくる執念にはちょっと引くけど。
一応中身を確認して風見だと確信した。どうやらGPSアプリのようなものを使っていたみたい。そしてちょっとした好奇心で連絡先リストを見てみたら案の定、風見の名前がそこにあった。
「こんなもの入れてさ。必死過ぎない? でももう気づいたからね。」と送信。実は今までのトリックが分かって少し嬉しかったのかもしれない。気づいたぞってわざわざ送っちゃうくらいには。
思っていたよりも早くに返信が来た。いや、もしかしたらこれくらいが普通なのかも。初めて連絡を取り合ったのが風見とは…。
「やっと気づいてくれたんだ?もはや気づいたうえで持ち歩いてくれてるのかと思ってたよ」
「そんなわけあるはずないじゃない。ただ鞄の中身を見る機会がなかっただけで、違うからね?」
「なーんだ残念。それでそのケータイはどうするつもりだい?」
「どうするって、普通に返そうと思っていたけど。」
「すごい信頼されてるみたいで嬉しいよ」
最初はこのメールの意味が分かんなくて首をひねっていたけど、気づいてから自分の発言を後悔した。
しまった……これじゃ自殺を止めに来てくれる前提じゃん…。会うのが自殺場所だけだったことを忘れていた。
「えっとそうじゃなくてあの…。やっぱり返さない!」
「いいよ。もともとそのまま持たせておくつもりだったんだ」
「そうなの?」
「そうじゃなきゃバッグに勝手に入れないさ。それじゃまた明日、君が死ぬところを見つけられたら会おう」
「ちょっと待って。」
「どうしたの?自殺止める気になった?」
「それはないし今すぐにでも死にたいところだけど…。違くて。もうちょっと…このままがいいなって。」
「そうしたいのならもっと話してようか。にしても珍しいね…なにかあった?」
死ぬほど恥ずかしい。死ねそう。でもそれ以上に友達とのやり取りは楽しかったし、風見の存在が今は、今だけはありがたかった。
それからいろんなことを話した。だいたい私が勝手に話してただけなんだけど、風見は嫌な素振りひとつ見せずに聞いてくれた。今までされてきたこと、家で、学校で、誰も頼れなかったし、頼るのが恐かったこと。そして半ば監禁のような生活の中で、悪夢にうなされ作った夢日記のこと。そして今日のこと、宝物は散り散りにされ、殴られたこと。どんなにメンタルを高く保っていても、痛いものは痛いということ。愛されていないこと、見てもらえてないこと。そしてこれらのメールを送りながら、とてもとても久しぶりに、泣いていたこと。最後はもう、ただただ自分の感情を垂れ流していただけになっていたかもしれない。
気づけば時計の針は三周、四周と回り、深夜1時20分頃を指していた。結局彼は最後まで私の話を聞き、時に共感し、時に同情してくれていた。普段なら「こいつはなんで自分で体験したわけじゃないくせに共感するんだ」とか、「同情なんかするんじゃねえよ」とか思っていたかもしれないが、今はそのすべてがありがたかった。
思ったより今日のことはダメージ大きかったのかな……。
自分に未来はなく、同時に過去の自分を殺された。まあ、絶望なんて今更できないけど。
翌日、私は再びビルへと向かった。ケータイもバッグの中に。今日こそは死のうと言い聞かせて、彼が来ることを願う。もはや死にたいのかはどうでもいい。ルーティーンと化したこの行為の中に、意味の入る余地はなくなり始めた。死ななければ彼に会えない。そして彼は自殺しようとする私を求めてくれる。そのためならばいくらでも。
私はまだ来ないあの人の手に引かれるように空に身を置いた。
塾帰りの電車でふと、自殺とそれを止める人の共依存っていいな、と思ったので書いてみました。人を助けた、人から頼られるというのは何事にも代えがたいほど自分の存在の証明になります。死にかけの時が一番生を感じられることもご存じでしょうか。そんな二つの快楽に飲まれた二人の話でした。
初投稿につき稚拙な文章を晒していますが、そこかいいなと思っていただけたら嬉しいです。