三十五 壁にぶつけられた蛙は王子になってしまうのだ
「まあ、まだダンベールは起きていらっしゃらないの?」
私は食堂の彼の空の椅子を眺めた。
「まさか、お食事の席があの場所だからひねくれちゃったのかしら?ええ、いらっしゃらないのはきっとそうよ!お母様、彼の滞在は王子様公認でしょう。彼の席を動かしてさし上げて。」
「君は!」
母が応えるよりも早く、兄の方が非難めいた声を出した。
「お兄様、だって。」
「いいかな?一緒に住んでいるからこそ、我々は彼と節度のある付き合いを心掛けなければいけないんだよ。また、私達は召使という沢山の目で一挙手一投足を観察もされているんだ。むやみやたらに騒いだり、彼等をうんざりさせるような自堕落な振る舞いは避けるべきだ。上に立つ者はそれなりの存在であろうと努力するべきなのだよ。」
私は素直に兄に、すいませんでした、と謝罪した。
兄の言葉に感銘を受けたわけではない。
言い返せば百ぐらい言葉が返ってくるのだから、一言目で折れるのが一番だ。
けれど、ダンベールが不在の椅子をもう一度見返した時、私を助けてくれる言葉を執事のベラードがかけてくれた。
「お嬢様、大変申し訳ありませんが、朝食の時間も限りがありますのであの方を起こしてはいただけないでしょうか。」
「ベラード。なぜ妹にそのような事を!」
「イゾルデ様のお声があれば、息をされているならば扉から出てきてくださるかと思いまして。あの部屋に入れられるのならば暇を取ると言う者ばかりでして、誰もまだあの方に声掛けをしていないのですよ。」
「いや、でも、君達はあの部屋を整える事はしたでしょう。」
「はい。あの時点では呪いなど信じていない者ばかりでしたから。」
執事が向けた笑顔は、自分こそあの部屋に入れられたら暇を取る、と語っており、私はそれならばと席を立った。
「イゾルデ。」
「呼びに行くだけですわ。」
婚約者だし、私はちゃんと服を着ている状態だし、私はお化けへの恐怖よりもダンベールに会いたい気持ちの方が強い。
召使いを連れて行っても脅えて部屋に入らないのであれば、きっと二人きりの時間になるし、ダンベールとキスをする事が出来るかもしれないじゃないの!
キスという単語で、昨夜に彼のうなじにキスをした時を思い出した。
彼は私の唇を彼のうなじに受けるや、なんと、はふって息を呑んだのだ。
いつも私の方が彼に翻弄されていたのに、今回ばかりは私が彼を翻弄できたのだと、私は昨夜から自分の中から溢れ出る自信でとっても幸せな気分である。
「お嬢様、申し訳ありません。」
「いいのよ。」
私は品が消えない程度にはスピードを押さえて、ダンベールの部屋となった昨日までは開かずの間だった部屋を目指して早足で向かった。
ドアを開けた時には息がハアハアと上がっていたくらいだ。
「ま……あ。」
部屋は真っ暗なおどろおどろしいものではなく、朝の陽ざしが入って明るく清々しくて、呪い部屋なんて呼ぶ方がおかしい位だった。
ダンベールは太陽光が好きなのか、私の部屋でもカーテンを少し開けていた。
この部屋が明るいのは、彼がカーテンを全開にしていたからであろう。
そして、明るい部屋を見回した私は、初めて入ったジョゼフィーヌの部屋がなんと私の部屋よりも趣味の良いものなのだろうと驚いてもいた。
白に青いラインが入っているだけの壁紙は清楚で可愛らしく女性的だが、しかし書き物机や訪ねて来た人と軽いお喋りをするための長椅子など、家具はどれも実用的で男性が使ってもおかしくないぐらいのデザインに留めている。
私が友人宅を訪ねてこんな部屋だったら、ちょっと趣味を真似してみようかと考える程の素敵な部屋だったのだ。
「すごいわ。ジョゼフィーヌ様。趣味のよろしい方だったのね。」
「あの、お嬢様?」
戸口でおどおどと声をかけて来たのは私が連れて来た女中の一人だが、私はドアを開けておく様にだけ指示をして部屋の中に一人で入った。
彼の眠る天蓋ベッドはカーテンが全て降ろされているが、そのカーテンは目隠しの用が足せないくらいに透けている薄い生地のものだった。
ベッドに転がっている彼を見つめられる程に。
薄い布越しのせいかぼやけて見えるからか、大きく腕を広げて布団を外して眠る彼が寄宿舎を出たばかりの少年にも見える。
「ああ、ダンベール。布団をそんなに丸めて、って、え?その影は女性?」
私は異常に気が付くやかなり乱暴にカーテンを引き開けていた。
カーテンを開けたそこには丸まっていた布団も女性の影も見当たらないが、その影のあった場所にはビスクドールが転がっていた。
私はその転がっているドールの姿を見るや、眠っているダンベールの額をぱちーんと平手で叩いていた。
「痛い!酷い!キスじゃなくてそんな起こし方って酷いよ。」
「ひどいのはあなたでしょう。お人形遊びをしなければいけない身の上はわかっていますが、どうしてジョゼフィーヌが裸ん坊なのですの!」
「ちゃんとドロワースは履いているでしょう。僕とルルは親しくなるためのお話し合いをしただけだよ。言ったでしょう。裸になると人は分かり合えるって。」
私はもう一度ダンベールの額を叩いていた。
確かに裸のダンベールもお人形のジョゼフィーヌも下履きは履いている。
それでも!
「う、浮気です!わたくし以外の女性を脱がせるってどういうことです!あなたはわたくし以外の女性と分かり合う必要なんてありません!」
「うーん。通常はそうだろうけどね。俺は今異常事態でしょう。」
ベッドの上に半裸で胡坐をかいて、にやにや顔で私を見上げるようにしている男は、すでに少年どころか悪い男の人でしかない。
ああ、あごの生えかけたひげに触りたいと私の右手がワキワキしている!
「異常事態だと、お人形のお洋服を脱がせてしまうの?」
「ルルに男を教えてあげたいからかな。」
「なっ!」
ダンベールは転がっている人形を、恋人のように大事そうに抱き上げた。
どうして恋人みたいだと感じたのかは、彼が彼女の肌をこれ以上晒さないようにという気遣いみたいに、シーツで彼女の身体を包んでから自分の膝に乗せ上げるようにして抱き上げたからだ。
私にはそんな気遣いは無かった。
裸ん坊の私の布団を剥ぐばっかりだ!
確かに周りに誰もいない状況で、だったけれど!
「もう、もう!この浮気者!それに、ルルって何ですの!昔の恋人か何かでそのお人形を呼んでいらっしゃるの?幽霊の名前はジョゼフィーヌよ!」
「違うね。」
彼はしてやったりの顔を私に向けた。
「な、なにが違いますの?この部屋はジョゼフィーヌのお部屋と呼ばれていましたのよ。この部屋の幽霊ならばジョゼフィーヌでしょう。」
「ちがーう。」
「違うの?」
「ああ。ジョゼフィーヌがお人形の名前なのは正しいけれど、中の人はルリファちゃんって言うんだって。君とよく似ている美人さんだよ。」
「まあ!やっぱり浮気者!」
彼に掴みかかろうと両手を伸ばした所で、私の左手首は彼の右手に掴まれた。
ぐいっと彼の方へ引っ張られた私は、ちゅっと彼によって左耳の下のほど近いところに彼の唇を受けたのだ。
「はあ!」
「焼餅は嬉しいが、このくらいにしようか。俺はガミガミ女は嫌いなんだ。」
彼は私を離すと、左腕に抱えていた人形の額にキスをした。
それから空いている右手を布団の中に手を入れてごそごそし始めたと思ったら、彼は小さなお洋服をそこから引っ張り出した。その後は、まるで赤ん坊の世話をするような手つきで人形にドレスを着せ付けてしまったのである。
指先が本当に優しく手慣れていると思った。
「赤ちゃんの世話が得意そうね。」
考える間もなく口から言葉が出てしまった。
でも、彼はぴたっと動きを止めて、弟がいたよ、と答えた。
いるよ、ではなく、いたよ、だ。
私は続きが聞けなくなり、そんな私を彼は優しいとそっと笑った。
「聞いてもいいのに。今はどうしているの?って。金持ちの家に養子に入って、元気にろくでもない金持ち二世になっているから気にしないで。」
「え?」
「はーい。お着換えはお終いだよ。ルル、可愛いよ。」
あ、今度はルルとやらの頬にキスをした。
「じゃあルル、お利口さんにしていてね。俺もシャワーを浴びて来る。イゾルデも食堂に戻りなさいよ。俺も着替えたらすぐに行くから。」
彼はひょいとベッドがから降りてしまうと、下履きしか履いていない姿でぷらぷらとシャワールームらしきドアの方へと行ってしまった。
不幸を抱える彼の本当の姿が一瞬垣間見えた気がしたのに、彼はいつもの軽薄さで私を翻弄してそんな自分を隠してしまった。
「ああ!なんだかとっても悔しいわ!」
「本当に素敵な方。」
幽霊?
びくりとした私は、女性の声がした後ろへと振り返った。
なんと、私が連れて来た女中が、部屋には入りたくないと脅えていた女中が、私のすぐ後ろにまで来ていたのだ。そして彼女は両手を組んで、ダンベールの消えたドアを夢見がちな顔で見つめているのである。
「メ、メロディア?」
「あんな素敵な体をされていたのですね。ああ、全てが素敵な人ですね。」
え?
私は夢現となってしまった女中の腕をぎゅっと掴むと、全部脱いだ姿でシャワールームからダンベールが出てくる前に彼の部屋から出る事にした。
幽霊人形まで脱がせてしまう節操のないダンベールであるが、彼はこの国の抱かれたい男性ナンバーワンだったのだわ!
幽霊までも魅了する彼のベッドに、この家の女中まで潜り込んだらどうしたらいいの!




