二十一 帰宅と別れ
兄は詐欺師と公爵どころか、甲板にいた人間全てを白髪にするぐらいの恐怖に落とし込んだ。
そして、考え無しではない彼は、頃合いを見て私を助ける台詞も言い放った。
「全く。領地にいる妹が知ったら自殺してしまうぐらいの嫌がらせだ。こんな話が妹の耳に入ることがあったら、お喋りな輩の口は一生開けないように縫い留めてあげましょう。」
彼のお陰で甲板にいた私はただのダンベールの愛人Aでしかなくなった。
つまり、私はダンベールに誘拐などされてもおらず、私の名誉は保たれたまま、という数日前の私に戻れたのである。
よって、私はダンベールと結婚することもダンベールが責任を取る必要もない、というただの他人に戻れたのだ。
喜ぶべきことなのに、私は彼と引き離されてから世界の彩を失ったような、そんな気持ちにもなっている。
「大丈夫?あなたは戻ってから塞ぎ込んで。怖い思いをしたものね。」
母が私にお茶とお菓子の皿を差し出した。
私の行方不明の報が伯爵家に伝わるや、両親は領地を飛び出で首都に向かってくれたのだ。
それはとってもありがたいが、以前と違ってどこに行くにも召使いではなく母が同行し、殆ど部屋に閉じ込められて外にも一歩も出られないという、監禁者がダンベールから両親に変わっただけの軟禁状態が続いている。
「お母様、ご心配しすぎよ。常に私の事を心配して、お母様こそ倒れてしまいますわ。せっかくの首都ですもの。お母様もお出掛けをなさっては?」
母は困ったような顔をした。
その表情に、彼女が次に言う言葉を当てる事が出来た。
「お兄様がそうおっしゃるから、ですの?」
「ええ、その通りよ。継母であるわたくしを認めて下さった上に、腹違いの妹のあなたをここまで可愛がってくださるのですもの。彼があなたを心配してのお願いならば、わたくしは叶えてさし上げなければ。」
「お兄様は怖い所がありますものね。」
母はくすくすと笑い出した。
「ねえ、イレネー様はあのジェイニーに何をされたの?」
母は兄の事を様づけだ。
兄の母親が畏れ多い侯爵令嬢だったからであることと、母がイレネーの母の侍女であったことがその理由だ。
美しすぎる侯爵令嬢に父は魂までも抜かれたらしいが、彼女の早すぎる死で父は抜け殻にもなったという。
しかし父が抜け殻になろうとも、亡き妻の忘れ形見は人の世話を必要とするまだまだ小さな赤ん坊だった。
母は兄の世話係として伯爵家に残り、兄と父の心の支えとなり、その自然な流れで父の再婚相手になったのである。
だからか母は兄の事を本当の息子以上に大事にしており、常に彼を自慢し、彼の英雄譚のようなものを聞くのが大好きだ。
その行為が悪魔的でも、母が兄を窘める事など無い。
いや、悪魔的な行為をする兄にこそ母は魅了されているのかもしれない。
今だって母の目は期待でキラキラと輝いているではないか。
「禿を作ってさし上げたの。お兄様はジェイニーの髪を鷲掴みして顔を焼いてやるって脅したのね。そうしたら本気にしたジェイニーが無理矢理に逃げようとして、べりっと音をさせて後頭部の髪の毛がひと房取れちゃったのよ。真ん丸な禿がジェイニーの後頭部に出来たのは、笑えるどころか恐ろしかったわ。」
「まあああ!少し見たかったわね、その場面。あの人はあなたの名前をかなり汚していたのよ。あなたには今まで教えませんでしたけれど、あなた宛てにあなたの愛人だという男性からの厭らしい手紙が何通も届いていましたの。ですからね、醜聞が収まるまでお外は我慢して。」
私は胃の腑がすっと冷えていく感じがした。
ダンベールが私に無体な事をしても平気だったのは、ジェイニーによって汚された私の情報を知っていたからかもしれない。
でも、途中で判ってくれて、わかってくれたから結婚を彼は口にしたのだわ。
すると、名誉が兄によって保たれた私に彼が敢えて結婚を差し出す事などないではないか、と、あのしつこいくらいの男の影が一切無くなった理由にとうとう思い当ってしまったのだ。
いや、そんなことは最初から知って受け入れていたじゃないの。
さあ、認めなさい。
私は彼に恋をしてしまっていたのよ、と。
「まあ、どうしたの?イゾルデ。ああ、泣かないで。」
「大丈夫よ、お母様。急に怖い事を思い出しただけですわ。」
ダンベールに二度と会えない、という怖い事に思い当たっただけです。




