十八 我を虜にせしファムファタル
イゾルデはなんともはや、危険な女なのだろう。
無垢で無邪気は凶器にもなる。
恐るべしユーフォニア元帥閣下の命を受けた男が、艦橋から甲板の客船の乗客達を見下ろしているなんて、彼女は夢にも考えていないだろう。
奴は俺を睨んでいた。
どのぐらいの階級か知らないが、海軍の軍服をぴしっと着込んだ若き将官。
闇夜に輝く月のような金髪の煌びやかな男だ。
あんなに目立つならば目にしたら忘れるはずは無い。
よって、俺が奴を見た覚えも会った事も無いのは確実だ。
しかし、奴の目には観察を超えて俺に対して殺意どころか親の仇ぐらいの憎しみまで浮かべていた。
「奴の女でも寝取ったかな?記憶に残らない女の事で根に持つとは、あいつも第四王子やブリュッセンと同じ素人童貞か?」
とりあえず俺は半分嫌がらせと半分以上は趣味実益で、腕に抱いたイゾルデと仲睦まじい様子をしっかりと奴に教え込む方法をとることにした。これは誘拐ではなく、二人の同意による駆け落ちのようなものと思わせようと頑張ったのだ。
海の上での法はあいつらだ。
銃殺されて死体を海の藻屑にされてしまいたくはない。
そこを、ああ、笑いが止まらない。
イゾルデは自分から俺の耳たぶを齧ったのだ。
負けず嫌いの彼女らしい仕返しだが、奴の目には俺達が相思相愛の恋人同士にしか見えなかった事だろう。
奴からのあの殺気は楽しいどころでは無かったが。
俺は俺の腕の中で熟睡するイゾルデの髪のひと房を持ち上げた。
眠りこける彼女はいつものように純粋無垢で、俺の彼女に悪戯したい気持ちを止まらせるほどに俺の保護欲をも掻き立てるのだ。
それでも俺は彼女に触れたい。
だから髪のひと房だ。
俺は騎士が眠る姫君にするように、その髪に口づけた。
俺にもっとと強請るように、彼女の髪は俺の手に指に絡み巻き付いている。
それとも、俺が彼女の髪を自分に巻きつけたのか。
もっと彼女を自分に縛りつけるために。
「女たらしで有名なあなたが、こんなにも幼い女性に執着するとは思いませんでしたよ。実は幼い女性こそ好きな変態でしたか?」
俺は声をかけて来た男に対して、振り向くや指を口元に当てた。
「しっ。バカか、お前。起きるじゃないか!」
艦橋から降りて来た若き将官は、これ見よがしに顔を歪めた。
そして、軍人という人間の暗部を見て来た男らしく、股を開いてしゃがみ込んで俺に威圧するという、上品とは言い難い姿となった。
「バカはあなたです。彼女が誰かわかっているのですか?」
「その格好で丁寧語はぞっとするね。答えはわかっているし、陸に降りたら一分一秒でも早くウェデイングベルを鳴らしたい。ずーと覗き見していただろ。暇なら俺達の幸せを祝ってのライスシャワーの役をしてくれないか?」
男は俺の襟元を掴むと自分に引き寄せた。
「その糞みたいなベルが鳴り終わったら銃殺してさしあげますよ。」
俺は男の手を振り払った。
こんな甘ちゃんに何時までも好きにさせておくわけは無い。
「はっ。素晴らしい。俺を殺す予定のお前。名前くらいは教えてくれるんだろうね。イゾルデが復讐する相手がわからないと可哀想だろう。」
「はは!イゾルデは私に感謝だけでしょうよ。私を魔の手から救ってくださってどうもありがとうってね。私はイゾルデの兄だ。」
俺は金髪野郎の顔をまじまじと見つめ、それから俺の膝で眠りこける美女を見下ろして、それから再び顔を上げた。
「似てねぇな。この嘘つき野郎が。」
男はぴしっという音が聞こえるぐらいに顔を歪めた。
そして、イゾルデに手を伸ばして来たのでその手を俺は振り払った。
「起こすなって言ってんだろうが。イゾルデに横恋慕する気持ちはわかるが、俺の恋人に勝手に触るな。」
「恋人?家族の事も君に話していないのに?兄の名前も存在も知らない?ありえない。やはり誘拐だったね。誘拐された人間は恐怖から誘拐者の成すがままになることが多い。さっさと、私に妹を返してもらいましょうか?この海のど真ん中で撃ち殺されたくなければね。」
「近衛の俺を殺すという、あんたの名前と所属と階級はなんだ?」
「イレネー・ユーフォニア。全軍においての武器その他の開発部の技官をしている。軍ではしがない中尉待遇でしかありませんが、子爵位は持ってますよ。この、馬の骨が。」
俺は膝を揺すってイゾルデを起こした。
俺にはイゾルデという盾が必要みたいだ。
盾になってくれるのかわからないが。




