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僕らはみんな

作者: 橋本

薄暗い部屋の中に響く微かな雨音で目を覚ます。窓の方に目をやると、カーテンの隙間から灰色の光が漏れていた。

再び目を閉じて毛布に顔を填め、耳をすませる。

雨が木やコンクリートを叩く音が、なぜこんなにもほのかで心地よいのだろうか。

私はこうして、薄暗い部屋のベッドの上で雨音を聞くのが好きだった。人や物で溢れたこの世界で、一人きりになれた気がした。

枕元に置いてある携帯を手に取り、時計を見る。ゼミが始まる時刻から既に三十分が経過している。同じゼミ生の何人かから着信がきていた。

携帯を再び枕元に置き、天井を見つめる。

今まで一度も休んだことのないゼミを初めて無断で休んだ。単位が出ないため、もともと拘束力は弱いが、それでも私は皆勤を続けていた。

ただ、それにも大した意味が無かったことに気づく。皆が休みがちなゼミに出席し続けていたのは、休む理由が特になかったからだ。

改めて自分が薄っぺらな人間であることを認識した。意味もなく出席するくらいなら、何か理由があって欠席する方がまだ生産性がある。そして、今の私は理由もなく欠席している。

ゼミに限った話ではない。大学三回生の前期日程が終わり、いよいよ将来のことを本気で考えなくてはならなくなったころ、私は手元に何もないことを悟った。

私は今まで、人生の岐路となるような場面で、自分の意志というものを持ったことがなかった。高校受験も、大学受験も、自分の学力的に試験を突破できそうな所を選んだ。教師になるために教育学部を選んだが、教師になりたいと思うようになったきっかけも、もう思い出すことができない。

人間関係にしてもそうだ。私は、人に嫌われることを極端に恐れた。自分の素の部分を隠し、周りに迎合した。私の周りには、確かに友達らしき人は居たが、私の本性を知る人は一人もいなかった。 私は張りぼてで偽物だった。中身などなく、見せかけの虚像だったのだ。

それに気がついたときには、もう手遅れだった。将来やりたいこともなければ生きがいもない。私は、自分がなぜ生きているのか分からなくなってしまった。

後期日程は、なんとか単位は落とさなかったものの、ただ毎日を生きているだけだった。形だけ教員採用試験の勉強をしていても、何もやる気が起きなかった。

春休みに入り、一人でいる時間が増え、より深く考え込むようになった。ただ、いくら考えこんでも、私が生きる意味を見つけることはできなかった。

ただ生きる毎日は苦痛で仕方がなかった。周りは将来の夢に向けて勉強や就職活動をしている中、私は路頭に迷っていた。この苦しみはきっと誰にも分からない。

私にはどうする術もなかった。生きるのが辛かった。

そんな中、私が選択したのは「死」だった。




深夜の大学に忍び込み、階段を上がっていく。

これは、いうならば天国への階段なのではないかと思い、すぐにその思考の薄ら寒さに気づく。我ながら、センスの悪さに吐き気すら覚える。

私も、こんなに簡単に自らの死を受け入れていることに、多少なりとも驚いている。死ぬことを決めたのは昨日や今日の話ではないが、それでも、今日死ぬ人間にしては落ち着いていると思う。

少し前までは、自殺のニュースを見る度に「そんな度胸があるなら生きることに使えばいい」と思ったし、何かにつけて「死にたい」という人間が嫌いだった。そんな私が、たった今、死ぬために階段を上がっている。

今日死ぬことを考えると、花の雨に包まれた今朝は、最後の朝ということになる。私としては、心地の良い申し分ない朝だった。

階段の踊り場は、月光の淡い白色に包まれている。耳をすませても何も聞こえてこない。私は立ち止まり、少しだけその光に身を浸した。死後の世界は、もしかしたらこのような感じなのかもしれない。

階段を一段一段踏みしめる。走馬灯のように今までのことを思い出すのかと思っていたが、特にそのようなこともない。気づかないところで、私は既に壊れていたのかもしれない。

五階まで上がり、廊下へ出る。いつもゼミをやっている部屋へと向かう。廊下には光が届かず、ほとんど何も見えない。微かに見える輪郭だけを頼りに進んでいく。

奥から二番目の部屋の前で止まり、ゆっくりと扉を開けた。

長机の上には、参考書が至る所に置いてある。ここで教員採用試験の勉強をしているのだろう。

部屋の中を見渡し、中に入ろうとした瞬間、私は息を呑んだ。

部屋の奥に、急に人影が現れたのだ。声を上げそうになったが、今日の私にはなぜか落ち着きがある。入口のすぐ側にあるスイッチを探し、全ての蛍光灯を点ける。部屋が一瞬にして光に包まれる。

「木嶋さん?」

そこに一人佇んでいたのは、同じゼミの八木美里だった。大きな目を見開いてこちらを見ている。「どうしたの?」

私は動揺する素振りをせず、質問する。

「さっきまでここで勉強してたんだけど、携帯忘れてきちゃって。取りに来たの」

「そうなんだ」

「木嶋さんは?こんな遅くにどうしたの?」

「私も、忘れ物。財布忘れちゃって」

死にに来たなどとは言えるはずもなく、なんとかその場しのぎの言葉を紡ぐ。

「そっか。奇遇だね。じゃあ、おやすみ」

「うん、おやすみ」

なんとか切り抜けたが、さすがに肝を冷やした。まさかここまできて人に遭遇するとは思わなかった。ここで私は僅かに違和感を覚えたが、それが何かは全容を掴むことができなかった。

電気を消すと、再び部屋は暗闇と静寂に包まれる。

八木美里。同じゼミだがほとんど話したことがない。ただ、彼女の周りにはいつも人が居る。顔が整っており、落ち着いているが人当たりが良い彼女は、男女ともに評判が良かった。

あれだけちやほややされていたら、浮いた話の一つもあっても良いと思うが、それに関しては聞いたことがなかった。ただ単に私がそういった情報に疎いだけかもしれないが。

彼女のように色々なものを持っている人からしたら、人生はさぞ楽しいことだろう。私のような人間は、彼女の目には一体どのように映るのだろうか。

ここへきて、初めて今までの私に思いを馳せる。

私は今、死ぬ気でここに立っている。特に後悔はない。ただ、何もない虚しさを抱えて生きることに疲れたのだ。

私が死を選んだ理由を軽視する人は必ずいるだろう。中学校や高校でいじめられたわけでも、仕事が過酷で精神を病んだ訳でもない。ただ、生きる理由なくして生きることが苦痛だから死を選んだ。 この選択を鼻で笑う人間に、私の苦しみは絶対に理解することはできない。理解してほしいとも思わない。

そのような人がいた訳でもないのに、私は少し向きになった。

暗闇に目が少しずつ慣れてきた。靴を脱ぎ、揃える。特に意味はないが、ドラマで見たものを真似た。

窓を開くと、ひんやりとした風が流れ込んできた。下を覗くと、舗装されたコンクリートが見える。頭から落ちたらきっと助からないだろう。

窓を全開にし、窓枠に足をかけた。恐怖はない、むしろ今までないほどに落ち着いている。やはり、もう私は、どこかが壊れてしまっているのだ。

最初は窓を枠に立ってから飛ぼうとしたが、思ったよりも窓が小さかったため、窓枠に座ってそのまま後ろへ落ちることにした。

窓枠にゆっくりと腰をかける。やはり、走馬灯のようなものは見えてこないが、母親と父親の顔だけが少しだけちらついた。そこで初めて、死に対して感情的になった。

目を手の甲で擦り、前を見据える。恐怖も後悔もない。ゆっくりと目を閉じる。

覚悟を決め、体重を後ろにかけようとした瞬間、部屋の扉が開く音がした。

一瞬で現実に引き戻される。再び目を開き、扉の方に目をやった。

暗闇の中に人影が見える。窓から入ってくる風に長い黒髪をなびかせていた。

八木美里だ。暗闇に目が慣れたとはいえ、彼女の顔ははっきりとは見えない。しかし、辛うじて表情は読み取ることができた。

彼女は、紛れもなく微笑んでいた。





「何をしてるの、って聞くのはナンセンスだよね」

彼女はゆっくりと近づいてくる。なぜか身体が強ばって動くことができない。

うっすらと笑みを浮かべる彼女は、先程までの彼女とは別人のような雰囲気をまとっていた。

その驚き以上に、薄気味悪さを感じた。人と話していてこのような感覚に陥るのは初めてだった。その感覚は、真夜中にかかってくる一コールで切れる電話の気持ち悪さに似ている。

「そういえば今日、ゼミ来なかったよね。それと何か関係あるのかな」

彼女は、私が何も答えないことに構いもせずに言葉を重ねる。

「でも少し以外かも。木嶋さん、そんなイメージないのに」

私に手が届く距離まで来て、彼女は止まった。まだ私は、彼女を見つめることしかできない。

「お化けみたいな扱いしないでよ。そんなびっくりした?」

「なんで、戻ってきたの」

声を震わせながらも、ようやく私は言葉を紡ぐことができた。

「なんとなく。ほら、手」

彼女は私に手を差し伸べた。私はその手を握ると、彼女の方へと引き寄せられた。

今になって心臓の鼓動が速くなっているのが分かる。私は死を恐れていたのだろうか。それとも、彼女の得体の知れない気味悪さにのまれてしまったのだろうか。

「ねぇ、どうして死のうと思ったの?」

「関係ないでしょ、あなたには」

「やっぱり死のうとしてたんだ」

私は、初めて彼女に敵意をのぞかせる。それでも彼女は変わらずに飄々としていた。

とにかくこの場所に彼女と居たくなかった。私は並べておいた靴を履き、部屋から出ていこうとする。

「待ってよ」

すれ違う寸前に腕を掴まれる。細くて白い腕に相応しい力だった。

「単純に知りたいの。なんで死のうとしたのか」

先程までの気味悪さは薄らいでいたが、それでも私は耐えられなかった。

腕を振りほどき、そのまま部屋の出口へ向かう。

「まあ、今日じゃなくてもいいよ。大事にされたくなかったら教えてね」

彼女の言葉には何も答えず、そのまま部屋を出た。背後を気にしながら階段を降りる。来たときは神秘的に見えた踊り場も、今は気味悪さしか感じない。

その後、どのように帰ってきたかはほとんど記憶がない。気づいたら玄関に座り込んでいた。春の夜に歩いただけにも拘わらず、身体中が汗ばんでいた。

「怖かった・・・」

ひとり頭を抱えて絞り出すようにつぶやく。私はしばらくその場から動くことができなかった。





チャイムの音が部屋中に響き渡り、目を覚ました。先程まで眠っていた脳が瞬時に働き始める。しかし、何が起きたかを把握しようとする思考は、次第に恐怖に蝕まれていった。

部屋の時計は午前一時を示していた。そこで、扉の向こうには彼女がいることを確信する。

始まりは八木美里と遭遇した次の日だった。

その日、私はベッドから動けずにいた。彼女のことが脳裏から離れなかったのだ。思い出すだけでも鳥肌が立った。

そして、その日の午後十時に、SNSで彼女からメッセージが届いた。

《なんで死のうと思ったの?一度話さない?》

無機質な文面が余計に恐怖心を扇いだ。すぐさま彼女のメッセージが届かないように設定し、携帯を自分から遠ざける。第一、彼女に私のSNSの情報を教えた覚えはない。

その次の日、今度は携帯のメールで彼女からメッセージが届いた。内容は一言一句、SNSで届いたものと変わらなかった。そして、それが届いたのが午後十一時。昨日の一時間遅れだ。

そして、次の日は十二時に携帯に電話がかかってきて、今日に至る。彼女は、毎日一時間ずらして、私に少しずつ近づいてきたのだ。

夜の一時にチャイムが鳴ったということは、彼女が扉の向こうにいるということだ。

「もうやめて・・・」

私は布団を頭からかぶり、声を押し殺すように言った。

そのまま動かないでいると、足音が聞こえ、そ少しずつ遠ざかっていった。

身体の力が抜けるとともに、全身から汗が吹き出した。脈が速くなっているのも分かる。

マンションの部屋の番号まで彼女に知られていることに戦慄する。これでもう、彼女から逃げることはできない。

しかし、このままではこちらがおかしくなってしまう。この状況を何とか打破するためには、彼女と会うしかないことを悟った。

やり口が気持ち悪いだけで、彼女も私と同じ大学生だ。危険が伴うようなことはないだろう。

そこまで考えて、私は笑ってしまった。「笑う」といっても、何もかもが上手くいかないときに自然と起こるような、乾いた笑いだった。

死を決意した私が、自らの身を案じているのだ。とんだ皮肉だった。

私は、八木美里という存在に踊らされているのだ。





あの日と同じように階段を上がっていく。違うことがあるとするならば、気が重くて仕方がないことくらいだろう。

彼女と会うために、SNSでメッセージを送ったところ、夜の十二時にあの日と同じ部屋に来るように指定されたのだ。なぜそんなに夜遅くにしたのか分からないが、やはり気味が悪い。

部屋に向かう途中で彼女に会うのは何となく嫌だったため、少し早めに着くようにした。

しかし、踊り場から廊下に出て部屋に向かおうとしたとき、すでに部屋の明かりがついているのが見えた。つまり、既に彼女はあの部屋にいることになる。

体に緊張が走る。足音を潜めてゆっくりと歩いていく。鼓動が少し速まっているのが分かる。

部屋の扉は開いていたが、中からは何も音が聞こえてこない。

なるべく音を立てないように中を覗き込むと、彼女は机に向かっていた。手元には教員採用試験の参考書が置いてある。まだ私の存在に気づいていないようだ。

顔だけで覗き込んでいるのをやめ、入り口の正面に立った。すると、気配を感じたのか、彼女は顔を上げた。

「びっくりした。声かけてよ」

彼女はペンを置き、こちらに体を向ける。あの日ほど、気味の悪い雰囲気は漂っていなかった。

「まあ、適当に座ってよ」

「うん」

コの字型に置いてある長机の端に座っている彼女の、反対側の端に私は座った。何となく一番入口に近いところにいたかった。

「申し訳ないね。手荒な手段を使って」

予想外だった。まさかあのような手口を使って私を呼び寄せたくせに、謝られるとは思ってもいなかった。

「絶対私のことやばいやつだと思ってるでしょ」

「いや、まあ」

私が曖昧に答えると、彼女は「あはは」と声に出して笑う。

「別に本気でああいうことやった訳じゃないよ。ただ、手段として有効かなって思っただけ。事実、木嶋さんはここに来ているわけだし」

つまり、意図的に私を脅していたことになる。あの気味悪さも演出だったのだろうか。そうであるとしたら、余計に性が悪いような気がしてならない。やはり、私は彼女の手のひらの上で転がされていたのだ。

ただ、確かにあの日のような気味悪さはないが、もともとの彼女のイメージとも異なっている。おしとやかという言葉が似合うような雰囲気や喋り方を想像していたが、それよりも、もっと砕けた印象を受ける。

「ねえ、なんで死のうと思ったの?」

ただ、この一言で、彼女は決して気さくな人間などではなく、こちらの気持ちや事情を一切考えていないだけであることを悟った。そう考えると、あのようなやり方で私を呼び寄せたことにも納得ができる。

「前も言ったけど、関係ないでしょ」

「ないけど、知りたい。自らの死を選ぶ人の気持ちを」

このような話の最中でも、彼女の顔には笑顔が張り付いている。先程までとはまた別の気味悪さを感じた。

「逆に聞くけど、なんで知りたいの」

「興味がある」

彼女は即答する。おそらく、このように躱し続けても彼女は折れないだろう。

私は半ば自暴自棄になり、ありのままを話した。これで彼女に付きまとわれなくなるのならば、そうする方が良いのだろう。

「へえ、からっぽ、ね」

彼女は何かを考え込むように呟く。

「死ぬ前に誰かのこと思い出した?」

「ほとんどなかったけど、一瞬だけ両親の顔は浮かんだ」

「ふーん」

今度は天井を見上げて黙り込んでしまった。二人の間に沈黙が流れる。私はあまり仲が良くない人とのこのような間が嫌いだった。

「じゃあ、さ」

沈黙を破った彼女は、先程までのように笑ってはいなかった。

「生きてて後悔した?」

この質問にはすぐに答えることができなかった。私自身もあまり考えたことがなかったのだ。

私は、生きている意味が分からなくて、それが辛くて死を選んだ。恐らく、生きていること自体に後悔した訳ではない。自分でもはっきりとしない。

生きてることに後悔するというのは一体どのようなことなのだろうか。そこだけは分からなかった。「それは、ない」

私が少し黙り込んだ後、歯切れ悪く答えると、彼女は「そう・・・」とだけ言って再び沈黙した。会話の主導権は終始彼女が握っていた。

「それだけかな、聞きたいのは」

彼女は椅子から立ち上がり、机の上のノートや参考書を片付け始めた。結局彼女は何を聞きたかったのだろうか。何か裏があるような気がしてならなかった。

「ありがとう。じゃあ。もう会うことはないかもね」

荷物をまとめた彼女は、すぐさま部屋を出ていった。最初から最後まで彼女のペースだった。





あの日以来、彼女と会うことはなかった。

そして、私も死ぬことなく毎日を過ごしていた。私は結局、死ぬ気などなかったのだろうか。

教員採用試験の勉強をするだけの日々は空虚だったが、私はその空虚に甘んじて今も生きている。

意味もなく生きていることに苦しみながらも死ぬことはできない。私はやはり中途半端なのだ。この先も、私はこのように、ただ生きているだけの人間であり続けるのだろうか。

私は確かにあの日、死ぬつもりだった。ただ、今は死のうとは思うことができない。ちょうど、テスト前で勉強をしなければならないのに、何もやる気が起きないのと同じように。

口では言い訳を並べながらも、結局は死に対して恐怖があるという可能性を考える。実際、そのような感情はどこかにあったのかもしれない。ただ、その感情を不意に飛び越してしまう可能性は大いにある。それこそ、あの日のように。

こうして何かを深く考え込むたびに、もう少し簡単に考えることができれば、と思う。

私の思考がシンプルだったら、おそらく私はもう死んでいるだろう。それが私にとってプラスがマイナスかは分からないが、私はこのように思考が迷走して絡み合ってしまうのが好きではなかった。それもまた、私の生きづらさのひとつだろう。

そう考えると、彼女は自分の考えに忠実に生きているように見えた。あのように思うがままに行動することができたら、私も変わることができるのだろうか。

ただ、あのようになりたいとは思わなかった。彼女は彼女で、別の問題を抱えているような気がする。

彼女のことに関しては、一つ疑問が残っていた。それは、私が死のうとした理由に対する彼女の執着だ。

今思えば、その執着は異常だった。私を脅してまで聞こうとした理由が分からなかった。もともと面識があったくらいで、交友関係は一切なかったと言ってもいい。

そんな彼女が、なぜ私が死のうとする理由にこだわったのだろうか。もっと言えば、おそらく彼女の目に私は映っていない。あくまでも「ある人間が自ら死を選ぶ理由」 を知りたがっていたように思う。

私は人の目を気にして生きてきた分、相手が私に興味があるかないかくらいは何となく分かる。

これは私の勘に過ぎないが、彼女の興味は私に向いていなかった。あくまでも死のうとした理由を知りたがっていたのだ。

その一つの疑問は、少しだけ、彼女に対する興味を湧かせた。





『美里ちゃん、何か変わったね。お嬢様みたい』

『私といないほうがいいよ、美里ちゃんは』

先程まで教室にいたのに、気づいたら真っ暗な部屋で横になっていた。携帯で時刻を確認する。まだ午前二時を回ったところだった。布団に入ってから一時間しか経っていない。

最近、同じ夢ばかりを見る。理由はただ一つだった。

夢の中の彼女は決まって、私にそう言うのだ。

千春は私の唯一の理解者だった。ただ、そのことに気づいたときには、彼女はすでに私の隣にはいなかった。

「良かった。高校でも美里ちゃんと登校できるね」

「あんたよく受かったね。絶対落ちると思ってた」

「もう!私もびっくりしたけどさ」

「うそうそ。でも、良かった。本当に」

「うん!」

高校の合格発表の帰り道、千春は顔をくしゃくしゃにして笑う。その姿は、身長が小さいこともあり、小学生にしか見えなかった。

私は、そんな千春の頭を軽く叩くのが好きだった。こうして子ども扱いしても、千春はなぜか嬉しそうにしていた。

これから、高校でもずっと二人でいるものだと思っていた。

小学校、中学校では、住んでいる街が狭いため、同級生はほとんど変わらなかったが、高校からは皆ばらばらになる。正直なところ、千春がいてくれて助かった。

「美里ちゃんっていうんだ。よろしくね」

「う、うん。よろしくね」

「どこ中だったの?」

「あ、西部中学校・・・」

「え!私部活の試合で行ったことある!プールめっちゃ綺麗だよね!」

「私が二年のときに改修工事したんだ」

入学式の後すぐに隣の人に話しかける人の気が知れなかった。

私はとにかく内弁慶だった。中学校では小学校からの付き合いの子がほとんどで、人付き合いに悩んだことはなかったが、高校では一から人間関係を築かなければならない。私にとってはかなりの難題だった。

「千春、友達できそう?」

「ま、まだ無理そう。美里ちゃんは?」

「私も無理だなあ。なかなか上手く喋れないや。なんというか、みんな女の子女の子してる」

「ちょっと分かるかも・・・」

学校から駅までの道を、私と千春は肩を落としながら歩く。私も千春も、人と仲良くなる能力が高い訳ではなかった。辛うじて同じクラスになれたのが救いだった。

「まあ、千春がいればいいけどね。友達は」

「えー、もったいないよ。美里ちゃんせっかく可愛いんだから」

「そんなこと言ってくれるの千春だけだよ。ていうか、もったいないってなによ」

「私なんかとずっと一緒に居ちゃもったいないよ。美里ちゃんならきっとたくさん友だちできるから」

「何それ、私は別にいいよ。そんな友達いらないし」

「あはは」

千春は、私が少し向きになると、それをなだめるかのように笑う。大抵その千春を見ると、私も落ち着きを取り戻す。

「まあ、とにかく、お互いに友達ができても、私たちは一緒だからね」

「ふふ、うん」

千春は嬉しそうに目を細める。本当に喜んでいるときに千春がする顔だ。私はその顔を見るのが好きだった。





高校に入学して二週間が経った。千春以外にも話せる人は増えたが、まだ友達といえる友達はいなかった。

「千春、部活決めた?」

「んー、高校でも吹奏楽やろうかなあ」

私も千春も中学校では吹奏楽をやっていたが、千春は私よりも力を入れていた。

「さっき、泉さんに茶道部誘われたんだけど、どう?和服も着れるっぽいし」

私はもう吹奏楽をやる気はなかった。ただ、これといってやりたいこともなかった。

「んー、ちょっと悩む。吹奏楽やりたいかも」

「そっか。まあ千春はやったほうがいいよ。好きなんでしょ?」

「うん。でも・・・」

「なによ」

「美里ちゃん、やらないんでしょ?」

「私はもういいかな」

吹奏楽自体もそんなにやる気がなかったし、それ以上に、吹奏楽部特有の人間関係が面倒で仕方がなかった。やはり女子の集団というのは良いものではない。中学生のとき嫌になるほど思った。その分、千春は上手く立ち回っていたように思う。

「私に無理に合わせなくてもいいんだよ。やりたいことやりなよ。私は応援するから」

「うん・・・。やりたい。やっぱり吹奏楽やりたい」

「よし!」

私に合わせて千春が吹奏楽を止めてしまうのだけは避けたかった。千春が吹奏楽に本気に取り組んでいたのは知っているし、私が人間関係で悩んでいたことを千春は知っている。

互いに互いを尊重した結果がこれなら、私は何の文句もない。

こうして、私は茶道部に、千春は吹奏楽部に入った。

今思えば、私が吹奏楽部に入っていれば、変わったことがあるかもしれない。しかし、あのころの私は、千春は一人でも大丈夫だと本気で思っていた。千春は私を支える強い存在であると思っていた。 それに間違いはない。ただ、千春もまた、私に支えられていたのだ。





吹奏楽部は毎日練習があり、千春と一緒に帰る機会はほとんどなくなっていた。

一方、茶道部は一週間に三回しかなく、その活動もほぼ遊びみたいなものだった。ただ、だらだらと活動していくうちに、少しずつ友達は増えていった。

それでも、登校は千春と一緒にしていた。

「千春、忙しそうね」

「うん、結構忙しい。人も多いから」

千春の顔には若干の疲れが見えた。

「でも、やっぱり楽しいよ。吹奏楽」

「そっか。良かった」

千春は疲れを見せながらも活き活きしていた。やはり、何かやりたいことがあるというのは大切なことなのだろう。

「美里ちゃんは?茶道部楽しい?」

「あー、まあ内容は遊びみたいなもんだけどね。みんな面白いから楽しいよ」

「泉さん?元気だよね」

「そうそう、今度初めて遊ぶの」

「へえ、いいなあ」

「千春も来る?」

「行きたいけど、部活がなあ」

「そっかあ。夏休みもあるの?」

「うん。多分休みもあるけど」

「じゃあそのときは遊ぶぞ!海だ!せっかく海近い高校なんだし!」

「ふふ、やっぱり夏は海だよねえ」

千春は目を細めて笑った。

このころ、二人を取り巻く環境が少しずつ変わっていった。

私は茶道部の友達が増え、昼休みに弁当を一緒に食べることが多くなった。一方、千春は、昼休みも吹奏楽部で集まりがあり、いつもどこかへ出かけていた。

そして、周りの友達の中での私のイメージも固まりつつあった。最初に上手く喋ることができなかった分、私は大人しい性格だと思われるようになった。

そして、何より、私のことを「可愛い」と持ち上げる子が増えた。今までそのように言われたことはなく、最初は驚いたが、正直悪い気はしなかった。周りからは可愛くて大人しい子だと思われているらしい。

「私のこと大人しくて可愛いだって。変なイメージだよねえ」

「でも、美里ちゃん可愛いよ。大人しくはないけど」

「千春以外に可愛いって言われたの初めてかも」

「だって、髪綺麗だし肌白いし目もぱっちりだし。羨ましい」

「やめてよ。千春にそんなに言われると恥ずかしい」

「あはは、美里ちゃん可愛いねえ」

「こら」

私が叩く素振りを見せると、千春はわざとらしく「きゃあー」と言って頭を守るふりをした。

久しぶりに千春と話すと、やはり私の一番の友達は千春なのだと思う。それは新しい友達ができても変わらない。

私は千春と居られれば、それで良かった。





千春と一緒に居る時間は日を追うごとに減っていった。登校すらも、千春が朝練習に行く日は共にすることができなかった。

その一方で、私は千春以外の人間と居ることが増えた。そして、なぜか周りにちやほやされるような人間になっていった。茶道部の人たちは私のことを「おしとやかで可愛い理想の女の子」ともてはやし、その友達も同調して私を持ち上げた。

今思えば、周りの人間の理想を押し付けられていたのだ。私はその理想を壊さないために、おしとやかで物静かな女の子でい続けた。

私の周りにはいつも誰かが居た。ときには、名前も知らないような子に、急に友達のように話しかけられることもあった。それでも、私は周りの人間の理想を壊さないようにした。

ただ、いつも周りに誰かが居ても、その中に心から友達だといえる人は一人もいなかった。私は孤独だったのだ。

夏休みの間も、千春はほとんど毎日学校へ行っていた。朝から夕方まで練習をし、たまにある休みの日も疲れを取るために使い、私と遊ぶ暇もなかった。

そのころにはすでに、私と千春の間には少し距離ができていた。

「千春、本当に大丈夫?」

二学期の始業式の日、千春の顔色を見て驚いた。顔色は悪く、目の下には隈ができていた。

「昨日も練習だったから。今日はないんだけどね・・・」

帰り道を歩く千春の背中は、前よりも一回り小さくなったように見える。

「部活、本当に大丈夫なの?」

「まあ、自分で決めたことだしね」

千春は弱々しく笑う。

ただ、私はこのとき、「もう無理かも」という言葉が返ってくるのを期待していた。千春が弱音を吐いて吹奏楽部をやめ、またかつての日常が戻れば良いと思っていた。

このときが大きな分かれ道だったのかもしれない。ここで千春が弱音を吐いて吹奏楽部をやめていれば、きっとあんなことにはならなかったのだ。

二学期に入っても、千春と一緒に居られる時間は戻ってこなかった。それどころか、千春は学校を休んだり早退したりするようになっていった。

「どうしたの?美里ちゃん」

「ううん、何でもない。何の話だっけ?」

「美里ちゃんがぼうっとするなんて珍しい」

昼休み、弁当を食べながら千春の席を見る。今日も学校に来ていない。

私の隣で私の名前を呼ぶのは千春ではなくなっていた。私の周りにいる誰かが私の名前を呼んだ。 ただ、私の周りに居る人たちは、私のことなど見ていなかった。あくまで私は「おしとやかで可愛い理想の女の子」であり、八木美里としての私と関わろうとする人は誰一人いなかった。

私の中身を知ろうとせず理想を押し付け勝手に盛り上がる。その盛り上がりに水を差さないために私はそれに合わせる。私は周りの人間が作り上げた偶像だったのだ。それは本当の私ではなかった。 周りは私を崇拝し、私は偶像のふりをする。そこには何一つ真実はない。このような関係性に一体何の意味があるのだろうか。私には分からなかった。





十一

千春が学校を休んだり早退したりする日々は続いた。そして私は、周りとの空っぽの関係を依然として続けている。

その頃から私は少しずつ壊れていった。

私は、周りにいる人間を人間として見ることが出来なくなってしまった。

皆同じような髪型や格好をして、私とは決まったやり取りしかしない。私の方からは心の内が見えないし、相手も私の心の内を知らない。人間が生み出す複雑な感情はそこには存在しない。

彼女たちはただの人形だ。決まった動きしかできない無機質な存在なのだ。

そう考えるようになってから、この世界は一気に色褪せたように見えた。同じ場面を繰り返す人形劇にどうして興味がそそられるのだろうか。それを考える方が難しかった。

ただ、このような考え方をする私自身も、ただの人形に過ぎなかった。周りの人間とやっていることは一切変わらない。私自身も人形で替えがきくのだ。だからこそ、私と周りの人間の関係には一切意味がない。私も彼女たちも、小さな歯車に過ぎない。

この考えに陥る度に、千春だけは違うのだと思う。千春だけは、心と心で接し合うことができる。思ったことを言い合える。私も人間になることができる。

そんな千春は、今、私の隣にはいない。きっと何かに苦しんでいる。ただ、私も周りの人間に合わせて人形でいることで精一杯だった。人形を演じるのを止めることで、必要のない歯車になってしまうのが怖かった。

結局私も、変化を恐れる人形にすぎないのだ。





十二

窓は秋の夕暮れに染まっていた。放課後の教室には、部活動をする生徒たちの声が微かに響き渡る。その中にぽつんと立つ人影は、つかもうとすれば消えてしまいそうな儚さを持っていた。

「千春・・・?」

「ん。久しぶりだね、美里ちゃん」

私が急に現れたことに特に驚くこともなく、千春は私の方を見る。

「どうしたの?」

「体操着忘れて・・・。千春こそ、なんで・・・」

「ふふ、ちょっとね」

千春は笑っていたが、その笑顔にはどことなく寂しさを感じた。

「でも、本当に久しぶりだね」

「うん・・・」

私は言葉に詰まった。

「ごめんね、私が学校休んでるからだよね。ちょっと意地悪だったね」

千春は私が言い淀んでいるのを見て、眉の端を少し下げて言う。その顔を見た私は、思わず涙をこぼしそうになった。

「何か、結構難しいよね」

千春は窓の方を向き、茜色の空を見つめる。

「変わらないって思ってたものも簡単に変わっちゃうんだもん」

千春はそれが何かは言わなかったが、私には分かった。言葉に出さずとも、お互いに思っていることだろう。

「中学校に戻りたいな・・・」

遠くを見つめる千春に、私は何も言うことが出来なかった。今ここで何を言っても嘘になってしまうような気がした。私はもう、生身の人間と話すことが出来なくなってしまったのだ。

ただ、私も同じだった。中学校のころに戻ってかつての日常を取り戻したい。何も考えず、ただ毎日を生きたい。

そして、卒業したら、また記憶をなくして一年生からやり直す。それならば、変わるものは何一つない。そんなくだらないことを、私は本気で考えていた。

「美里ちゃん、何か変わったね。お嬢様みたい」

千春は振り返り、今度は私を見つめた。千春がときどき言う冗談のような響きだったが、その言葉は私に突き刺さった。

「でも、美里ちゃん、喋らないとほんとにお嬢様みたいだよね。かわいいし」

「喋らないと、って何よ」

私はようやくかつてのように言葉を返すことができた。一瞬だが昔に戻れたような気がした。千春も「ふふ」とかつてのように笑う。

ただ、私は気づいてほしかった。私は変わったわけではなく、そういった振りをしているのだと。周りに合わせて偶像を演じているのだと。

千春がそれに気づけば、また昔のように戻ることができるかもしれない。変わってしまったものを元に戻せるかもしれない。私がまた人間に成れるかもしれない。

この意味のない日常を、かつての意味のあるものに戻すことができるかもしれない。

ただ、その一縷の望みは叶わなかった。

「私とはいないほうがいいよ、美里ちゃんは」

言っていることはきつくても、その声は震えていた。

「多分もう戻せないと思う、色々」

私を見つめる千春の目には涙が溜まっていた。必死に零れ落ちないように瞼を震わせている。

私は千春の言葉に何も返すことが出来なかった。私もどこかで分かっていたのかもしれない。分かっていたからこそ、そうならないことを願っていたのだろう。

「バイバイ、美里ちゃん」

教室から出ていく千春に替わって、瑠璃色に染まりかけた空を見つめる。その色は少しずつ滲んでゆく。

それから半年後、千春は自ら命を絶った。





十三

時計を確認すると、十二時を過ぎていた。真っ暗な窓に目をやり、伸びをする。ノートを閉じたあと、息を吐いて天井を見つめる。

千春は吹奏楽部の先輩にいじめを受けていた。それが原因だと、学年中には噂が流れた。あのときは分からなかったが、恐らく、千春は私をいじめに巻き込まないように遠ざけていた。そうであるとしたら、千春は私が演じていたことに気づいていたのだろうか。私があのまま演じ続ければ、私が千春のいじめに巻き込まれることはない。それが「もう戻せない」の本当の意味だったのかもしれない。ただ、二人の間に大きな溝ができてしまっていたことも事実だった。そのため、真相は分からない。

その後も私は周りの人間の偶像であり続け、どんどん壊れていった。

最期に千春の顔を見て、涙を流すことができなかったとき、私は完全に壊れてしまったのだと確信した。偽りの自分を演じた末路は、本当の自分の破壊だった。

そして、私は今もまだ、壊れたままで演じている。千春がいなくなってから、私を理解することが出来る人間は誰一人いなくなった。私が元に戻ることはもうないだろう。

こうして生きてきたが、将来のことを考える時期になって、私の存在意義を考えるようになった。全てが偽物の私が生きている意味は果たしてあるのだろうか。

ただ、そのような疑問と死が直結する訳ではない。私は壊れていると言いながらも、死を恐れる気持ちは確かにあった。だからこそ、自分の生きる意味を見い出せないからといって、死を選ぶということはない。

それでも、私は死んでしまえれば良いと思った。私の疑問が死に直結しないのは死への恐怖故だ。それがなければ私はとっくに死んでいるだろう。それだけは、理屈でどうこうなる話ではなかった。

千春は何を思ったのだろうか。千春を忘れたことなど一度もないが、最近は特に思いを馳せることが増えた。ただ、深く考える前に辛くなり、大抵は途中で考えるのを止める。

一度だけ、私はこの部屋の窓から飛び降りようとした。しかし、やはり恐怖心が勝って、気づいたら壁によりかかって座っていた。そのときだけは、辛くても千春が死を目の前に何を思ったのか考えた。しかし、どうしても分からなかった。

そこでこの部屋に来たのが同じゼミの木嶋秋だった。同じゼミでも特に関わりはなく、印象も大してなかったが、時刻が時刻だけに気になった。それに、彼女は嘘をついた。あの日、この部屋で勉強していたのは私だけだ。それにもかかわらず、彼女はこの部屋に忘れ物をしたと言った。

その嘘が気になり、帰るふりをしてもう一度戻ったら、彼女は窓枠に座っていたのだった。

自ら死を選ぶ人間の気持ちが分からないときに、その当事者が現れたのだ。正直なところ、この巡り合わせには運命を感じた。

多少手荒な真似をして、彼女に色々聞いてみたが、千春とは少し違う境遇にあった。むしろ、私の方に近い。

ただ、彼女は死に対する恐怖が希薄だったように思う。それが私とは違うところだろう。

彼女は、生きてて後悔したかという問いには首を縦に振らなかった。なぜあのような質問をしたのかは自分でもよく分からないが、恐らく千春には後悔していてほしくはなかったのだろう。

結局、千春は自ら死を選ぶ前に何を思ったのだろうか。いじめに耐えきれず、この世界を捨ててしまいたくなったのだろうか。

そうであるとしたら、少しでも私のことを思い出してくれていたら良い。ただ、思い出してなお死を選んだのだとしたら、私は千春をつなぎ留められる程の存在ではなかったということだ。そこだけはどうしようもなく悲しかった。

私も私で、もう投げやりになっている。嘘で塗り固められた私とその世界の中から、真実など見つかるはずがないのだ。考えるだけ無駄な気がした。それならば、いっそ千春に直接聞いた方が早い。

そう思うと、体が少し軽くなった。もう今のまま生きていくのは疲れた。いっそここで終わり、千春また会えてたらそれで十分だった。

理屈を超えた瞬間だった。椅子から立ち上がり窓を開ける。湿った生ぬるい風が入り込んでくる。

不思議と恐怖はなかった。今までは理屈で死を考えていたが、今は「千春に会いたい」という本能で動いている。それは、死の恐怖さえも凌駕するらしい。

彼女がやっていたように窓枠に腰をかける。体重を後ろにかければすぐさま落ちる体勢になっても恐怖心はなかった。

彼女は確か父親と母親の顔が思い浮かんだと言っていた。私の場合は・・・。

真っ先に千春の顔が思い浮かんだ。記憶の中の彼女は笑っていた。その幼い笑顔が好きだった。

「ほんと、上手くいかないもんだよねぇ・・・」

ここにはいない千春に同意を求める。きっと千春は「だねえ」と、眉の端を下げながら笑ってくれるだろう。

どうやら、走馬灯というものは存在するらしい。千春との思い出が頭の中を駆け巡った。自分でも驚く程に、昔のことまで思い出すことが出来た。普段引っ張り出さないだけで、奥底にはしっかり残っていたのだろう。

もう何もかもが終わってしまえば良い。

「あーあ・・・」

自然と出た言葉には、今までの苦しみが染み込んでいた。

もう思い残すこともない、と覚悟を決めた瞬間だった。

入口に人影が見えた。

「なに、してるの・・・」

そこには、木嶋秋が立っていた。





十四

彼女の顔は青ざめていた。何しているかを私に聞いた後、すぐさまこちらへ来て私の手を引っ張り、窓枠から引きずり下ろした。あまりに急だったため、二人して倒れ込んでしまった。

「いった・・・」

膝に鈍い痛みが広がる。私は現実に引き戻された。

なぜか彼女の息は上がっている。

「何であなたがそんな焦ってんのよ」

「焦るでしょ、人が死のうとしてたら・・・」

思いも寄らない返答に、私は吹き出してしまった。

「自分だって死のうとしてたくせに」

「死のうとしてる人の前でにやにやできるあなたがおかしいんだよ」

正論だった。あのときは、単純に千春の気持ちが少しでも分かるのではないかと期待したのだ。彼女がどうにかなったところで、私は何とも思わなかっただろう。ここまで考えて、やはり自分はもう駄目なのだと思う。

「結局、木嶋さんも生きてるじゃん」

「私は・・・」

彼女そう言ったっきり、黙り込んでしまった。

「別にいいよ、本気で知りたいわけじゃないし」

「八木さんはなんでそんなことしたの」

助け船を出した瞬間、なぜか反撃を受けた。

「あなたには関係ないでしょ」という言葉が喉元まで出かけたが、それは彼女が私に言ったものと全く同じだった。それでも私は無理に聞き出した。ここで私がしらばっくれるのは恐らくフェアではない。

私は全てを彼女に話した。彼女は聞いているのか聞いていないのかよく分からなかったが、話し終えた後、「そっか」と一言だけ言った。

理解してもらうつもりはない。ただ単に、義理を果たしただけだ。

「自分のままで生きるのって難しいんだね」

彼女は誰に向けて言う訳でもなく、そう呟いた。





十五

日は既に暮れかけていた。空は瑠璃色に染まり、ひんやりとした風が頬をなぜる。

私は墓地に来ていた。四年ぶりくらいだろうか。私の目の前には千春の墓石が立っている。

結局、私はこうして生きている。あのときは本気で死ぬつもりだったが、今はやはり死に対して恐怖心を抱いている。

なぜあのときはあんなにすんなりと受け入れられたのだろうか。「千春に会いたい」という思いがそれほど強かったのだろうか。

この感覚は、恐らくだが、彼女も味わっているのだろう。彼女が今もなお生きているのが証拠だ。

ただ、問題が解決した訳ではない。私は壊れたままで、存在意義がないのは依然として変わらない。

『自分のままで生きるのって難しいんだね』

彼女が呟いた言葉が、頭から離れなかった。

首を縦に振りかけたが、果たして本当にそうなのだろうか。私は、高校生になるまでは素の自分のまま生きていた。高校で全ての歯車が狂ったのだ。

周りの人間の理想を押し付けられて、私は偶像でい続けた。私は偶像を演じなければならなかった。

ただ、千春が居ればそれでも良かった。私の本当の姿を知っている人がいるだけで十分だった。しかし、それすらも叶わなかったのだ。

千春は私から離れていき、最終的には自ら死を選んだ。そして、私は、死ぬまでこうして偶像として生きるしか道はなくなった。

なぜ私だけがこんな目に合わなければならないのか。なぜ壊れてもなお、壊れたことを言えずにそのまま演じ続けなければならないのか。

周りの人間は理想を押し付けるだけで、私のことは一切見ていなかった。誰か一人でも、私の中身を見ようとしていれば、私が苦しんでいることにも気づくことができたのかもしれない。

だからこそ、千春さえ私の近くにいてくれたのなら・・・。

『美里ちゃん、何か変わったね。お嬢様みたい』

違う。私は変わってない。

『私とはいないほうがいいよ、美里ちゃんは』

今まで胸の中に溜め込んでいたものが弾ける音がした。

「あんたが私から離れなければこんなことにはならなかった!」

誰もいない墓地に叫び声が響き渡る。今まで胸の奥底に押し込んでいた思いが溢れ出る。

「何がお嬢様みたいだよ!私が演じてるのに気づかなかったくせに!」

持っていた花を地面に叩きつける。目頭が熱くなる。既に視界は滲んでおり、墓石の輪郭がぼやけて見える。

「あんたが近くにいれば私はこんなんにならずにすんだ・・・。あんただって・・・」

私はもう、答えが分かっていた。

「あんたが私から離れなければ・・・あんただって・・・死なずにすんだんでしょ・・・?」

膝から崩れ落ちた私は、コンクリートに散らかった花を握りしめる。

「何で私を頼ってくれなかったの・・・何で・・・私といれば・・・あんただって・・・」

何年かぶりに口にした本音は、あまりにも重かった。

「ごめんね・・・千春」





十六

辺りはすっかり暗くなっていた。墓地からの帰り道は田んぼくらいしか見当たらない。良くも悪くも変わらない町だ。

結局、私の存在意義は見つからないままだ。ただ、今私が死ぬのは間違っている。少なくとも今はそう思う。

何が正解かは分からないが、私はこれからも生きていかなければならない。今度は間違えないように。

いつかは千春に会うことになる。そのときは、たくさんの話を聞かせてあげなければならない。今のところ、千春と私の思い出は、量的な差がほとんどない。これからは、私のまま生きて、その過程を千春に報告出来れば良い。

少なくとも、今はそれくらいしか思いつかない。今後、もっと生きる意味が見つかれば、それもまた良いだろう。

千春は、謝ったら許してくれるだろうか。ただ、千春のことだから私をかばうのだろう。それでも私は、千春に謝らなければならない。そこからまた、千春と共に歩いていくのだ。

これから先、どうなるかは分からない。ただ、それまでは、どんな展開になろうとも、もう少し生きてみようと思う。



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