五話 美しい悪夢の始まり
「うわああああっ!」
「お? 目が覚めたか?」
「はぁ、はぁ……え?」
「悪い夢でも見たのか? まあ、元気そうでよかった。倒れたって聞いた時は心配したんだぞ。会社を早退して病院まで来たんだ」
私に対して、優しい声音で話しかけてくれるのは、素敵な男性だ。
素敵な男性? 私は何を言っているんだ。
そりゃあ素敵だけど、自分の夫の顔を一瞬でも忘れてどうする。
夫は、私の汗をそっと拭いてくれた。
「何があったか覚えてるか?」
「えっと、あんまり」
「出社直後に倒れて意識を失ったんだ。貧血だそうだ。命に別状はない。重い病気じゃなくて安心した」
貧血で倒れた?
ダメだ、全然覚えていない。
覚えていないけど、夫が言うには倒れたってことだ。
救急車で病院に運ばれて、ここは病室だ。私はベッドで横になっている。
腕には点滴の針も刺さっているし、病室ならではの機械も置かれている。
錯覚でも夢でもない。
錯覚? 夢? なんでそんな風に思うの?
「一応、検査入院をした方がいいとは言われたな。貧血だと思っていたのにもしかして、みたいなことがあるかもしれない」
夫の声で引き戻される。倒れたせいで弱気になっていたかな。
「不謹慎なこと言わないでよ」
「悪い悪い。でも、大丈夫だろ」
「本当に大丈夫ならいいけど」
夫と会話していると、ノックもなしに病室の扉が開かれた。
「ママ!」
駆け込んで来たのは、十歳くらいの女の子だ。オレンジ色のワンピースを着ていて結構可愛い。
手には、ワンピースと同じオレンジ色の花を一輪持っている。
女の子を見て、夫は相好を崩した。
「花もママのお見舞いに来てくれたのか?」
「うん! お見舞いのお花もあるよ!」
「いい子だ。でも、病室では静かにしような」
「はーい」
この子の名前は花というらしい。夫に注意されて声のトーンを落とした。
名前はいいけど、ママ? それって私のこと? 女の子は私の娘?
いや、でも。
「私って……何歳?」
「おいおい、自分の年齢も忘れたのか? 俺と同い年、つまり二十四歳だ」
「娘は……」
「こいつは十歳だろ」
二十四歳の私に、十歳の娘がいる?
絶対にあり得ない年齢差だとは言わない。産めるかどうかなら産める。
ただ、二十一世紀の日本で、義務教育の年齢で母になるかというと……
過去の私に一体何が?
「ママ、大丈夫?」
「……うん、大丈夫だよ。お見舞いに来てくれてありがとう」
起きたばかりで混乱していたらしい。なんで忘れていたんだろう。
この子は私と夫の娘だ。間違いない。
私がお礼を言うと、娘は嬉しそうに笑ってくれた。可愛い娘だ。
「お見舞いのお花、ママにあげるね。早く元気になって」
「可愛い花ね。なんて名前なの?」
「これはね」
娘は無邪気に笑ったままで、静かに告げる。
「キンセンカ」
すぅ、っと。
裂けた口の中は、血のように真っ赤だった。
「逃げられないよ、ママ。ううん、花ちゃん。美しい悪夢は、ここから始まるんだから」
次でラストです。