閏時 ~Leap at the time~ 第3話
皇夏音は不思議で仕方なかった。先生はどうしてこのとき、彼から懐中時計を取り上げなかったのか。
ラボにあるモニターを見る限り、時計の次の持ち主は明らかに、閏時をお金もうけのために使おうとしているのに。もし外の世界で閏時が悪事や私利私欲目的で使われようとしたらその時には、直ちに時計を回収するのではなかったのか。夏音には「問題ない」と言ってラボを後にした先生の考えが分からなかった。
* * *
休日の昼間。柏木和也は競馬新聞と赤ペンを放ったベッドに仰向けに寝転がって、誕生日に姉からプレゼントされたそれをじっと見つめていた。
それは、一見するとただの、古めかしい真鍮で出来た、鎖のついた懐中時計。ネジ巻き式で電力を必要としていなくて、カレンダーがついていて、ネジ巻きや時刻合わせなどで操作するツマミ、竜頭が『XII』の上ではなくて『III』の横についている。
姉はこれを、一種のタイムマシンだよと言った。
閏年や閏月、閏秒のような、閏時というものが、そういう呼ばれ方こそしないが現実にあるとは知らなかった。標準時の改正や夏時刻の実施にともなって、本来存在しなかった時が生じたり、本来存在した時が消滅したりすることが実際にあり、そうした時間は三十分やその他中途半端な時間である場合もあるが、一時間であることが多いのだそうだ。
この時計はその閏時を使い、一日のうちの一時間を巻き戻し、その日を二五時間にすることが出来るのだという。
しかしこの時計で本当に一時間とはいえ過去に戻れるのか。どうにも眉唾ものに思えるので試してみたいところだが、一人が閏時を使えるのは一度きりだという話なので試すこともできない。
だが姉はこれのおかげでとある悲しい出来事を無しにできたと言っていた。詳しいことは言わなかったが、間違いなく一時間、過去に戻れたのだそうだ。
和也はこれを、趣味の競馬に利用しようと考えた。
「レース結果が確定したあとに閏時を使って出走前に戻って、結果の通りに三連単の馬券を買う。一回しか使えないのなら、万馬券が出るまで待とう」
三連単とは、一着→二着→三着となる馬の馬番号を着順通りに的中させる投票法である。予想が難しく、それゆえに高額配当が期待できる。万馬券とは、的中時の配当が百倍をこえ、百円賭けた場合、的中すると払戻金が一万円以上になる馬券のことを言う。
そしてその日は、和也にとってはあまりにも想定外な日に訪れた。
五月の最終日曜日。第十一レース。「競馬の祭典」として競馬ファン以外にも広く知れ渡っている東京優駿競争。いわゆる、日本ダービー。本競走を優勝することは、日本の競馬に関わる全ての関係者が憧れる最高の栄誉とされている。
出走前の三連単での一番人気は馬番号で六番→十三番→七番だったが。
「何てことだ」
レースは荒れて、六番の馬は実力を振るえていなかった。
終わってみれば、十二番人気だった一番の馬が優勝し、三連単では一番→七番→十三番で決着した。六番の馬は四着に終わり、三連単では三五五番人気の着順で、配当の倍率は――
「……え、い、一九九〇.六?! てことはつまり払戻金が……十九万九千飛んで六十円。じゅ、十万馬券が出た!!」
ここで和也が閏時を使い出走前に戻って、この着順通りの三連単でたとえば千円賭ければ、一九九万飛んで六百円が払い戻される――はずだったのだが。
和也は自宅で興奮覚めやまないうちに、競馬中継を観ていたテレビを消して、スマホをベッドサイドに置き、姉から教わった通りに懐中時計を操作した。
「ええと、目を閉じて竜頭を、一番外側まで引き出して、カチッと音がするまで反時計回りに回し、元通りに押し戻して、目を開ける」
本当に一時間、過去に戻れたのかどうか、懐中時計の時刻と部屋にある目覚まし時計のそれとを確認する。三時五二分と、二時五二分。窓の外や部屋の中が明るいことから、昼間であることがわかる。念のためスマホの時計も確認したが、十四時五二分と表示されていた。閏時を使う前に消したはずのテレビでは、競馬中継の前番組のエンディングが放映されていた。
「どうやら本当に一時間、過去に戻れたようだけど……」
いまひとつ、時をこえた実感がなかった。
とりあえず、スマホでインターネットを介して、一番→七番→十三番の三連単に千円の一点買いで投票して、競馬中継が始まったテレビの前に座り、日本ダービーの出走を待った。
そうして、十五時四十分。出走時刻となり、ファンファーレが奏でられ、ゲートが開き、全十八頭、各馬一斉にスタート。異変はそこから始まった。
「おい、なんだこりゃ。どうしてこうなる? 俺か、俺のせいか?」
レース展開が、閏時を使う前のそれとまるで違ったのである。閏時を使う前には四着に終わった六番の馬が各馬を引っ張るような様相でレースは進み。結果、出走前に一番人気だった三連単、六番→十三番→七番の着順で決着した。
これには、和也はもちろん夏音も驚いていた。
***
「どうしてこんなことが……」
日本ダービーが決着、着順確定し、競馬中継が終わった後。和也は懐中時計を返却しに姉の店を訪れていた。
「――そりゃああんた、自業自得でしょ」
和也の姉、柏木弥那はカウンターでカフェラテを淹れながら、カウンター席に座った和也の話を一通り聞いたあと、一言で言って切り伏せた。
「自業自得ぅ?」
「そう、閏時を私利私欲目的で使ったから、馬券の代わりにバチが当たったんだよ。ねぇ達矢?」
「ああ、そうかもしれないね。はい、メイポロパンケーキお待ちどうさま」
弥那に呼ばれて、カウンターの奥にあるキッチンから住谷達矢が、手作りのスイーツを持って現れた。
今年の四月。弥那と達矢は円山に念願の、二人の店を持つことができた。弥那は勤めていたカフェから独立してバリスタとして、達矢は脱サラして店のオーナー兼調理担当として『カフェ・マティバレィ』を始めたのだった。
二人で切り盛りしていくために、店内は、カウンター四席と四人掛けのテーブル席が三つの、緑が見える南向きに窓がある、モノクロを基調とした隠れ家的なこじんまりとした空間だった。
流行っていないわけではないが、今は、和也の他に客は居なかった。
「どうも。いただきます」
達矢に短く礼を言い、胸の前で手を合わせて小さく首を縦に振った。
「どうぞ召し上がれ」
達矢の微笑みに促され、慣れない手つきで、三層のパンケーキにナイフを入れる。扇状に切り取ってフォークで刺して、口へ運ぶ。
「――うん、美味しい」
「そりゃあ良かった。メイポロの樹液を甘く煮詰めて、パンケーキの生地に練り込んでみたんだ。甘過ぎやしないかい?」
「ちょうどいい甘さですよ。だけど俺にはこの時計、他の使い方が思いつかなかったよ。姉貴たちは、自分のために使わなかったのかよ」
「少なくとも僕は、残業をこなした上で弥那との約束を破らない一心だったな」
「私は、相手を救いたい一心だったよ。はい、ホットカフェラテお待ちどうさま。ラテアートは、ソニックでよかったよね?」
出されたカフェラテには、青いハリネズミのキャラクターが泡で描かれていた。
「ああ、ありがとう。上手いもんだなー、ちゃんとソニックだ」
弟に褒められて、弥那は腰に手をあて、自信満々に胸を張った。
「一応プロですから。だいたいあんた、時計で過去に戻ったあと、何かした?」
カウンターに置いていた懐中時計を手にとって顔の横に掲げ、弟に問いた。
「戻ったあと? そりゃあ、レース結果で知った当たり馬券を買ったくらいだけど?」
「それだけ? 戻る前は? 自分で予想した馬券を買ったりしてたの?」
「いいや?」
『ああー、それだ』
和也の返事を聞いて、弥那と達矢の声がまるで示し合わせたように重なった。
「な、なんだよ二人して。何を納得したんだよ」
「懐中時計をプレゼントした時、弥那から聞いただろう、閏時がどういうものか?」
「どういうものかって……」
「覚えてないの? 言ったでしょう、(現実での閏時にあたる)標準時の改正や夏時刻の実施にともなって、本来存在しなかった時が生じたり、本来存在した時が消滅したりすることが実際にあるって」
「言われたような……気がする。でも、それが何?」
理解が追いついていない和也を見兼ねてか、弥那が言わんとしていることを汲み取って、達矢が後を続ける。
「つまり、戻る前にも馬券を買っていれば、それが外れても、閏時を使った時点で、本来存在した《和也が買った馬券が外れた》って時が消滅して、その代わりに本来存在しなかった《和也が買った馬券が当たった》って時が生じたかもしれないってことだよ」
「えぇ~?」
心底残念そうに情けない声を上げた和也に、二人がとどめを刺す。
「戻る前に馬券を買ってなかったから、消滅したり発生したりする時の対象が《十万馬券が出るかどうか》の方にいっちゃったんだよきっと」
「いずれにしても、自業自得だね」
「そんな~。二百万が手に入る千載一遇のチャンスだったのに~。俺のバカ」
和也は自らの浅はかさを悔やんで、頭を抱えて唸った。
***
「なるほど……でも、そうなのかしら」
「なかなか面白い見解だね」
「あ、先生。戻られていたんですか」
「ああ、つい今しがたね」
「そうですか。彼らの見解、どう思われます?」
「私もそう考えているよ。柏木和也の閏時の使用によって、十万馬券を対象に本来存在した時が消滅して、代わりに本来存在しなかった時が生じたんだ。ああいや、時というより、事象と言った方が分かりやすいかもしれないな」
「それは、この場合はやはり、彼が閏時を使ったことによって《十万馬券が出た》という事象が消滅してその代わりに《十万馬券が出なかった》という事象が生じた、ということですか?」
「まあ、そういうことだな。柏木和也には気の毒だが、彼が買った馬券が当たるかどうかについては、消滅したり生じたりする事象の対象にならなかったわけだ。彼らの見解通り、もし、閏時を使用する前にも自らの予想で何らかの馬券を買っていれば、結果は違っていたかも知れないがね」
「ですが、前の持ち主である、住谷達矢や柏木弥那は――」
「彼らの場合は運が良かったのだよ。もっとも、それを引き寄せたのは、閏時を使用した際の彼らの行動原理だ。私利私欲に走り、本来の当たり馬券を買う以外のことを何もしなかった柏木和也のそれとはまるで違った。住谷達矢は柏木弥那のために、柏木弥那は住谷達矢のためにそれぞれ行動して、閏時を使う前とは違う結果を自らの手で引き寄せたのだ。そもそも、閏時を操れるあの懐中時計は、どんな願いでも叶えられるわけでもなければ、必ずしも願い事が願い通りに叶うとは限らない。戻れるのは一時間に限られ、その一時間を如何に使うかによって結果は変わる」
「それじゃあ『悪事や私利私欲目的で使われようとした際には直ちに回収する』なんて保険、必要ないじゃありませんか」
「まあ、そうなるかな。それでもキカイであり、人が作ったものである以上、誤作動や不具合が起きる可能性は否定できない。だから、観察を怠るわけにはいかないよ?」
「わかりました。これまで通り、観察を続けます」