七ノ九 「合宿一日目」
花田高吹部にとって、今日から始まる三日間の合宿が、夏のコンクール前最大の山場となる。
本番一週間前に、山の方の宿泊施設に泊まりこんで集中練習をするのだ。今年は、七月第三週の土日と海の日の月曜日の三日間。月曜日の夕方まで、フルで吹き続ける。
空調の効いた広い講義堂を借りて、コンクールに向けた調整を行うこの三日間は、卒部生も大勢やってくるのが毎年の恒例だった。部員のケアやこまごまとした仕事に、卒部生は不可欠なのだ。
文字通り、この部に所属していた卒業生のことで、今は社会人だったり大学生だったり色々である。かつてこの部で活動してきた人達だけに、現役生の苦しみや悩みに寄り添える、貴重な存在である。
コウキ達現役生は、今まさにバスで宿泊施設へ向かっているところで、車内は気分の高揚している部員の話し声で騒々しかった。
「あ~あ~。部屋割り、コウキ君とが良かった~」
隣の席の陸が、合宿のしおりを眺めながら唇を尖らせている。
「なんで俺と?」
「だって恋バナとかしたかったし~。あと、大人数部屋嫌い」
男子は十一人いる。奏馬と正孝とコウキが三人部屋で、それ以外の男子八人が、大部屋の和室だった。
毎年合宿係がいて、部屋割りはその人達が決める。なぜコウキが三人部屋に配されたのかは、分からない。
「恋バナするかは知らんけど、遊びに来れば?」
「え~、行って良いのかな?」
「合宿の夜なんて、多分、皆ばれないように騒ぐと思う」
陸の目が輝き出す。
「じゃあ、お菓子いっぱい持っていく!」
「いらんし」
笑って、手を振った。
「それよりも、まずは練習に集中したほうが良いよ。かなりガチめな練習になるだろうし」
「あー……怒られるかなあ」
「どうだろね」
丘は怒鳴るような指導はしないが、出来ないところは容赦なくつかまえる。本番一週間前に出来ていないとなると、さすがの丘も、厳しい態度になる可能性はある。
陸は打楽器で、初心者である。合宿では指摘されることも多いかもしれない。
これまで、平日の昼練には陸も参加していたから、常にリズム感を一定でスティックを叩く練習を繰り返させてきた。
テンポ感を身に着けるため、時計の針に合わせて頭の中で数える練習も教えた。時計の針は、一分間に六十回動く。正確に覚えれば、テンポ六十が身につく。倍にすればテンポ百二十。三倍で百八十。それを半分にすると九十。この四つを感覚で覚えておくと、後は多少遅くしたり早くしたりで、大体の曲のテンポに合わせやすくなる。
頭の中に基準となるテンポがあることは、打楽器に限らず不可欠だ。陸はそれをちゃんと実践してくれた。だから、リズム感とテンポ感は最初の頃に比べて大分良くなっている。
ただ、それだけで打楽器が務まるわけではない。他にも多くの技術が要るし、スティックを使う楽器ばかりでもない。コウキは打楽器は専門ではないため、教えられることには限りがあった。
「頑張ろうな」
「うん」
バスは無事に宿泊施設に到着し、まずは施設の職員に挨拶をした。それから各部屋に荷物を置き、制服から動きやすい恰好に着替える。
学校に私服で登校するわけにはいかなかったから、わざわざ制服を着てきたが、施設内では私服で過ごして良いことになっている。コウキも白のティーシャツと綿素材の黒いパンツに履き替えた。念のため、薄手のグレーパーカーを持っていく。講義堂は、冷房が効きすぎて寒い時がある。
正孝と奏馬も私服に着替えたので、三人で講義堂まで移動した。
集まった人から、講義堂を合奏の形に整えるため動き出す。
講義堂の準備が出来た頃に、晴子が重たい扉を開けて、中に入ってきた。続いて、十人の男女が入ってくる。前の時間軸で見たことのある卒部生達だ。さすがに、一人も見知らぬ人はいない。
「先輩方が来てくれました」
三個上だと、コウキが小六の時に中三で受験。すでに目指す進路も決まっていて、自分の行動が変わった影響を受けなかったのだろう、とコウキは思った。
全員で、挨拶をする。
三日間、つきっきりで手伝ってくれるのがこの十人だ。後は、日によってぱらぱらと他の卒部生が来る。
男の先輩の何人かは、春に男子だけで親睦会が開かれた時に会っている。それ以外の人とは、初対面のふりをしなくてはならないだろう。部員と接する時と同様、うっかり前の時間軸で知り得た情報で話をしないよう、気をつけなくてはならない。
丘と晴子から合宿の説明がされた後、すぐに合奏に入った。まずは基礎合奏で、いつもなら学生指導者の奏馬が見るが、今回は丘が前に立った。
「普段皆さんが基礎合奏をきっちりやれているか、チェックしましょう」
そう言って、全ての内容を、細かく丘は見ていった。基礎合奏は、地味な練習が多い。だが、それをどれだけ集中して出来るかが、バンドの力に大きく影響してくる。音の出し方、形、音程、タイミング。様々な要素があり、そのすべてがきっちりと揃うことで、豊かな響きが生まれる。その基本を身に着けるために、基礎合奏がある。
午前練習の半分は、それで終わった。
「明日明後日は、相沢が基礎合奏を見なさい」
「分かりました」
「では、十分間、休憩。その後は課題曲を」
「はい!」
楽器を膝に置いて、腕を上に伸ばす。身体が伸びて気持ちが良い。良い具合のところで力を抜いて、息を吐き出した。
普段見ない丘が基礎合奏を見るというだけあって、さすがに緊張感が漂っていた。集中した疲れが、じんわりと全身にある。他の部員も、ほっとした雰囲気を放っている。
合奏中に抜けなくて済むように、トイレにでも行こうかと立ち上がりかけたところで、二個右隣に座る万里が腕をさすっているのに気がついた。可愛らしいプリントのティーシャツを着ているが、薄手のもので腕の露出範囲も広い。寒いのだろう、とコウキは思った。
「橋本さん、これ着る?」
持ってきていたグレーパーカーを差し出す。
「えっ、そんな、悪いから良いよ」
「いや、俺まだ着ないから、使いな。寒いと、どんどん体調悪くなるよ」
万里の肩にパーカーをかける。
「無理しないようにね。冷えて体調崩したら、練習にならなくなるから」
「あ、ありがとう……」
とはいえ、コウキも少し肌寒い気がしていた。楽器を吹いている間は良いが、合奏では他のパートがつかまっていて吹かない時間も増える。そうなると、身体を冷やしかねない。
空調の操作パネルのところまで行った。
「これから合奏になると冷える人が出るかもだから、温度変えて良いですか」
全体に向かって声をかける。返事があって、少しだけ冷房の設定温度を上げた。
毎年、合宿の度に、練習のハードさで脱落して外に出ていく子と、寒さに体調をやられて外に出ていく子がいた。今回は、寒さで無駄な脱落者を出したくない。
この三日間でどれだけ仕上がりに磨きをかけられるかが勝負なのだ。つまらないことで、時間を無駄にしている暇はない。
「丘先生、おひさです~!」
卒部生の一人が、満面の笑みで近づいてきた。座っている丘の後ろにまわり、肩を揉み始める。指揮で疲れた肩が、ほぐされていく。
「元気そうですね。大学はどうですか」
「勉強ばっかで、退屈~」
「それがあなた方の仕事ですよ」
「分かってまーす。先生相変わらずカタいですねえ」
からからと笑う卒部生。つい数か月前まで、教え子だった。黒髪で眼鏡をかけていた地味な印象の子だったのに、今は金髪になって、眼鏡もかけていない。恐らくコンタクトにしたのだろう。随分と見た目が変わった。
毎年、合宿の度に懐かしい顔ぶれが集まるが、大体卒業した年に女子は見た目がからりと変わる。花田高吹部は身だしなみもきっちりさせていたから、その反動だろうか。
「午後の合奏始まります」
晴子が講義堂から出てきて、ロビーにいる者に向けて言った。丘も、総譜と指揮棒を持って講義堂に戻る。
「では、次はトゥーランドットを」
「はい!」
「まずは通しましょう。録音もします」
録音係の卒部生が、機材を操作する。
「録音準備おっけーです」
頷いて、構える。部員も楽器を構え、丘を見てくる。
一度、。全員を見回し、指揮棒を振った。
『歌劇「トゥーランドット」より』。有名な歌劇を吹奏楽のためにアレンジした曲だ。
元の劇は三幕で構成されていて、その三幕目で歌われる名曲、『誰も寝てはならぬ』が、このアレンジには含まれている。劇では男性が歌うが、吹奏楽版では繊細な音色を特徴とするオーボエのソロとして書かれており、大きな聴かせ所の一つとなっている。
花田高には、卓越した技術力を持つ、佐方ひまりがいる。だから、丘はこの曲を選んだ。
佐方ひまりの才能は、天性のものだ。彼女の音は、聴く者を魅了する。
バンドのレベルにも、簡単すぎず難しすぎず、この曲はちょうど良いと思えた。
物語は、中国の架空の国に住む姫トゥーランドットに求婚を求めるダッタン国の王子カラフが、姫から出題された三つの謎かけを解き、最後に姫の愛を手に入れる話だ。
三つの謎を解いた後にも求婚を受け入れようとしない姫に対して、王子が「我が名を当ててみせよ」と謎を出す。姫は、その謎を解くため、国民に「王子の名が分かるまで誰も寝てはならぬ」と命令を下す。
そこで歌われるのが、『誰も寝てはならぬ』だ。
心を打つメロディは、一度聴けば忘れることがないような名曲と言える。アレンジ自体も実に素晴らしく、曲としての完成度が高い。
聴ける演奏を作り上げるのに、大分時間がかかった。だが、良い仕上がりになっている。
最後の一音が鳴り終わり、構えを解いた。
「では、今の演奏を聴き返してみましょう」
録音係に頼んで、今録ったばかりの演奏を再生してもらう。講義堂のスピーカーから、演奏が流れ出した。
演奏している最中では気づかないようなことも、録音して聴き返すことで発見することがある。何度も繰り返してきただけに、部員も全員それを分かっていて、真剣に耳を傾けている。
録音を聴き終えて、丘は全員を見た。
「どうでしたか」
部員達が、思ったことを発言していく。別の誰かがそれに答え、また誰かが発言をする。そうして、意見がどんどんと上がっていく。
丘は、決して答えや反論を言わないで、話を促すような言葉に徹した。議論をする場であり、影響の強い丘が発言すれば、その意見に流される者が出てくる。
まずは、自分達の意見を出し合うことが重要だ。
一通り出終わったところで、丘は手を挙げて静めた。
「皆さんの言う通り、大分仕上がってきましたが、まだ細かな点で粗いところがあります。そこを、さらに見て行きましょうか。長くなりますが、集中するように」
「はい!」
生徒は、丘の指示によく反応するようになった。
日に日に要求するレベルが上がっているが、部員は応えてくれて、演奏の質は向上している。
今なら、地区大会は確実に突破できるだろう。県大会も、代表になれる可能性は充分にあるレベルだと思われる。
去年は、東海大会で終わった。今年は、その先の全国大会へも行けるかもしれない。そう思う程に、今年の生徒は演奏で丘の求めに応じる。
必然、さらに良いものにすべく、丘の指摘も厳しくなっていく。
講義堂から外は見えないが、時間はどんどんと過ぎていった。途中、何度か休憩を挟みつつ、みっちりと合奏をして、終わった頃には、もう夕食の時間だった。
「今日の合奏はこれで終わります。夕食後は、架空とトゥーランドットのポイントを、セクションごとにおさらいしてもらいます。金管は相沢が、木管は一ノ瀬が見るように。私も交互に観に行きます」
それで、解散した。
毎年、初日は練習漬けにして、一年生に合宿が真剣な場であることを叩き込む。遊びに来ているわけではないのだ。
決まって、合奏中に泣いて抜け出す者がいる。合宿の時だけは、それほど生徒を追い込んでいく。
普段は決してそういう指導はしないが、この時だけは、生徒に厳しく接し、より高い次元の要求を求められていることを自覚させる。
とはいえ、それだけでは生徒のストレスが溜まる。だから息抜きに、二日目の夜にはレクでキャンプファイヤーも行う。それと夜の自由時間が、生徒にとってはささやかな憩いだろう。
本来は、施設のルールで夜十時に就寝となるが、毎年、生徒は施設側にばれない程度に、夜中まで遊んでいるようだ。気づいてはいるが、丘はそれを注意してこなかった。
合宿のもう一つの側面は、生徒同士の絆を深めてもらうことにある。普段しない共同生活で、それを体験してほしい。そのためには、ルールを守ることも必要だが、少しだけはめを外すこともあって構わないと丘は考えていた。
かくいう丘自身も、夜は副顧問の佐原涼子と卒部生と、静かに酒盛りをする。彼らとのその時間も、丘は楽しみの一つだった。
「では、食堂に移動しましょう」
晴子の号令で、生徒が動き出す。夕飯はカレーだという。
ずっと指揮で身体と頭を使ったからか、随分と腹が空いている。たまには、おかわりをしようか、と丘は思った。




