七ノ八 「気持ち、一つ」
ソロを、もう一度自分で吹きたい。逸乃は、その想いが強くなっていた。
『架空の伝説のための前奏曲』のトランペットソロは、今はコウキが吹いていて、日に日に良くなっている。
丘は、明後日から始まる合宿の最終日に、ソロの吹き手を決めると言っていた。それだけの時間を、丘は用意してくれた。
まこと話してから、少しだけ、音を取り戻せた。
けれど、まだ今まで出していた音とは違う。もっと、前は澄んだ音をしていた。
メトロノームが、規則正しく音を立てている。それに合わせて、ソロパートだけを何度も繰り返す。
今まで吹けていたのだ。何かが。ほんの少し、何かが変われば、元に戻れるはずだ。
何度目かのソロを吹き終え、楽器を口から離したところで、肩を叩かれた。振り返ると、学生指導者の奏馬がそばに立っていた。
「終わりだよ」
時計を見ると、最終下校の時間になっている。今まで、部活後の自主練習で、最後まで残ることはほとんどなかった。時間を忘れるほど、夢中になっていたらしい。
「片付けます」
トランペットの管の中に溜まった水を床の雑巾に捨て、メトロノームを最速で鳴らし始める。部で使うねじ回し式のメトロノームは、使い終わったら回した分を解放してあげるのが決まりだった。回したまま放置すると、機械に負荷がかかり、正確に動かなくなる。
「逸乃ちゃんも、音大目指してるんだったよな」
「あ、はい、一応」
「俺もだよ」
知っている。奏馬は、完璧な人だ。妥協が無い。技術に関して、今の部内で奏馬と並べる人は、オーボエのひまりぐらいだ。奏馬の技術力なら、きっとプロになれるだろう。
「俺も、不安がある。プロとしてやっていけるのかって」
「先輩なら、大丈夫ですよ。上手いですもん」
「いや、上手いだけではやっていけないのがプロの世界だ、ってレッスンの先生もよく言ってる」
「上手い以外に……何が要るんですか?」
「それが、分からないらしい。上手いだけの人間ならゴロゴロいる。その全員が音楽で食べていけるわけじゃない。上手さだけじゃない、何かがいるんだってさ」
「上手さだけじゃない、何か……」
「まあ、お互い頑張ろうぜ」
「……はい」
鳴り終わったメトロノームを、奏馬が片付けると言って手に持ち、そのまま部屋を出て行った。
プロの楽団に入るためには、オーディションを受けたりすると聞いた。そこでは、上手さが求められるはずだ。他に、何が要るというのか。
考えても、分かるわけが無かった。
総合学習準備室に戻り、楽器を片付ける。もう他の部員はほとんどおらず、数人だけしかいない。
「あ、逸乃先輩」
「コウキ君」
「最後までいるところ、初めて見ました」
「うん、音取り戻したくて」
「じゃ、せっかくだから一緒に帰りましょ」
「え」
コウキに誘われたのは、初めてだった。
「嫌ですか?」
「あ、ううん」
「じゃ、行きましょう」
家は高校から徒歩で七、八分ほどと近い。だから、今まで人と帰宅することは無かった。
自主練習も、ひたすら練習するよりも短い時間で集中して行うほうが性に合っていたから、あえて最後まで残ることも無かった。それで、帰宅時間が他の部員と合わなかったというのもある。
コウキが誘ってきたのは、ただ話すためだろう。それでも、男の子と帰るのは初めてだ。年下とはいえ、何となく、緊張する。
靴を履き替えると、外でコウキが待っていた。自転車だ。
「行きますか」
「うん」
コウキが自転車を押しながら、逸乃の隣を歩く。
逸乃は、背は低い方ではない。それでも、コウキは少し見上げる形になる。いつも合奏で横に並ぶ時は意識しないのに、今はそれが妙に気になった。
「先輩って、どうしてプロを目指そうと思ったんですか?」
「え、あー……どうしてかな。吹いてるうちに上手くなっていって、皆が認めてくれるようになって……親も、トランペットでプロを目指すなら……応援するって言われて」
そう、それからだ。プロを意識するようになったのは。
「なら、音大行ってみようかな、って」
「そうだったんですね。じゃあ、ご両親のためにプロになるんですか?」
「え、いや……それは違う、かな」
「じゃあ?」
聞かれると、何故だろう、と逸乃は思った。
「何となく……かも」
「何となく。良いじゃないですか」
そう言って、コウキは笑った。
「何となくから、いつのまにか本気になって、ってよくありますもんね」
「そう、かなあ」
「はい」
何となく、なんて軽い気持ちでプロを目指して良いのだろうか。
街灯が少ないため、夜道は暗い。必然的に、コウキとの距離が近くなる。
自転車のタイヤが回る音が、やけにはっきり聞こえる。
「トランペットは、何で始めたんですか?」
「小学校で、マーチングバンドに入ったからだよ」
「へー。俺は、楽器クラブが最初でした。じゃあ、マーチングが一番好きで?」
「うーん、どうかな。もうずっとやってないもん。あ、でも、行進曲は確かに好きかな」
「一番好きなのは? 『星条旗よ永遠なれ』?」
「あれも好きだけど、『聖者の行進』が好き。ジャズのバージョンも良いけど、行進曲の時も良いよね」
「まじですか、俺も『聖者の行進』好きですよ。聞き飽きない」
「うん。聞き飽きない」
コウキと、互いのことを話すのは、初めてだった。
「逸乃先輩は、トランペット吹いてる時、普段どんなこと考えて吹いてますか?」
「どんなこと? んー……」
聞かれて、腕を組んだ。
上手く吹こう、とか、こういう音を出そう、とか、そういう感じだろうか。
「逆にコウキ君は? 何考えてる?」
「俺ですか? 俺は……身体が自由に動くように、かな」
予想していない答えだった。
「……どういうこと?」
「例えば、間違えないようにしなきゃ、とか、上手く吹かなきゃって考えると、身体が固くなるじゃないですか。俺は、自分の身体も楽器の一部だと思ってるんです。その身体が緊張してたら、絶対良い音なんて出ないと思ってて。だから、間違えないようにしなきゃ、とかじゃなくて、身体が自由に動くように、委縮しないようにっていうのを考えてます」
「身体も楽器の一部、かあ。言われてみれば、確かにそうかも」
唇だけで楽器を吹くわけではない。息を吐き出すための身体の中の力。楽器を支えるための腕。姿勢を保つための筋肉。意識していないだけで、楽器を吹くときには、全身を使っているとも言えるのかもしれない。
「それと、心の中のことも」
「心の中?」
「先輩は、誰かを好きになったことってありますか?」
「な、何急に」
「いや、好きな人を目の前にすると、緊張して、うまく話せなくなったりしません?」
「んん……まあ」
「それって、その人のことを意識しちゃうから、平常心でいられなくなって、顔が赤くなったり、ガチガチになっちゃったりするんだと思うんです。意識しちゃうから、心が乱れて、それが身体にも影響する。楽器で言うなら、心が乱れて、身体が固くなって、楽器が上手く鳴らなくなる」
「なるほど?」
「だから、俺は心を落ち着ける、っていうことも意識してますね。気にしない、って言うとちょっとおおざっぱすぎるかもしれませんけど、何が起きても、それは自分の外側で起きていることであって、自分という楽器には関係がない。だから、それに心を乱される必要はない、っていう風に」
「はー……凄い事考えてるね、コウキ君」
思わず、拍手してしまう。楽器を吹く時に、身体のことまで考えるという発想が、逸乃にはなかった。
「それで、気を悪くしたら、ごめんなさい。逸乃先輩は、今その状態なのかな、って俺は思います」
「えっ……私?」
「はい。今までの逸乃先輩は、何となくプロの世界を目指して、トランペットを吹く時は、こうしよう、っていうイメージがあって吹いてたんですよね」
「……うん」
「今はどうですか? 上手く吹かなきゃとか、元に戻さなきゃとかって考えてませんか?」
言われて、はっとした。確かに、ここ最近、以前のように吹けるようにとか、もっと良くしなきゃとか、そんなことばかりを考えていた。
「何々しなきゃ、って考え出すと、心が緊張して、身体が固くなってきます。身体が固くなってくると、音も上手く出なくなる。多分ですけど、今逸乃先輩は、その状態なのかなって」
「……もし……もしそうだとして、どうすれば良いの?」
「簡単ですよ。いつも通り。難しいことは考えず、前までトランペットを吹く時に考えていたことを考えれば良いんだと思います。だって、今まではストレスなく吹けてたんですよね」
「う、ん」
「なら、それが一番逸乃先輩の心理状態として、良いんだと思いますよ。何でプロになるんだろうとか、本当にプロになれるんだろうかとか、元に戻さなきゃ、上手く吹かなきゃ。そうやって自分に悩むのは大切なことですけど、楽器を吹く時だけは、そういうことを考える必要はないんじゃないですかね。楽しく吹く。それが一番じゃないかと」
「楽しく……吹く」
「はい。小学校の頃、マーチングバンドは楽しかったですか?」
「え、うん」
「吹いてたら、いつもわくわく?」
「かなあ」
マーチングバンドの頃は、今よりもずっと下手だったのに、毎日が楽しかった。もっと吹きたい、もっと歩きたい。その気持ちで、どんどんトランペットにのめりこんでいった。
考えてみれば、いつから楽しいと思わずに吹くようになったのか。
こうしなくては、こうしたい、こうしよう。そういう想いが増えてきて、楽しいと考えながら吹く余裕が、無くなった。
「その気持ちがあったから、逸乃先輩は上手くなったんだと思います。楽しく吹く。それで良いんじゃないですか。吹いてる人が楽しそうにしてると、観てる人も楽しくなりますし」
楽しく吹く。
その言葉が、逸乃の中で、はまった。
思い出した。マーチングバンドで吹いていた時の感覚が、急に頭と心に、浮かんできた。毎日、高揚しながら吹いていた。きたない音なのに、それが出るのが楽しかった。
そうだ。その気持ちがあったから、逸乃はトランペットが好きになった。もっと吹きたいと思うようになった。上手くなりたいと思うようになった。
あのテレビで見たプロの奏者のように吹けたら、どんなに楽しいだろう。そう思った。生でコンサートを見て、彼が笑顔で吹く姿に、魅了された。あんな風に、楽しそうに吹けるようになりたいと思った。
「楽器、吹きたい」
「え?」
「今なら良い音出せそう。いや、出るかも。どうしよ、あー、学校しまっちゃったよね……」
「んー、じゃ、忍び込みますか」
「……は?」
「戻りましょう。もしかしたらまだ丘先生いるかもだし、いなくても、何とかなりますよ」
「え、いや、でも」
あたふたとしていたら、コウキが、手首をつかんできた。
「今、良い音出せそうなんでしょ? なら、吹かないともったいない。行きましょう」
コウキの真剣な顔に、思わず頷く。帰り道は半分近く過ぎていたが、小走りで、学校まで戻った。
まだ、門は閉じていない。急坂を上がると、職員室に明かりがついているのが見えた。
「やった、先生まだいますよ」
コウキが自転車を職員玄関の前に止めた。二人で、職員室へ向かう。
中では、丘が仕事をしていた。
「三木。古谷も、どうしましたか。もう下校時刻は過ぎているのに」
「先輩」
コウキが、そっと背中を押してきた。丘の前に立つ。
怒られるだろうか。
でも、今のこの感覚で、早く吹いてみたい、という気持ちのほうが勝った。何かが、逸乃の中で変わったのだ。
ぐっと手を握りしめ、丘を見据える。
「あの、先生。すみません、もう時間過ぎてるからダメかもだけど、少しだけで良いんです、今から楽器吹かせてもらえませんか」
「……今から?」
「はい。今なら、吹ける気が……するんです」
丘が口元に手をあてて、考え込むような表情をする。言葉を、待った。
しばらくして、丘が言った。
「……良いでしょう。ほんの少しですよ。あと、他の先生や生徒には内緒です」
「! は、はい!」
「ついてきなさい」
部室の鍵を棚から取り出し、懐中電灯で足元を照らしながら丘が歩き出した。コウキと二人で、後をついて行く。
廊下の電気を点けていないため、丘の持つ懐中電灯を頼りに階段を上がった。
「何か、きっかけがつかめたのですか?」
「あ、はい。何となく、ですけど」
「そうですか」
四階に上がり、部室を開ける。
「電気をつけたり、窓を開けるとばれるかもしれないので、暗いままでも良いですか」
「はい、構いません」
この暗さが、ちょうど良い。自分の心に、向き合える。
トランペットの棚に向かい、自分の楽器を取り出した。マウスピースをつけ、部室の中央に立つ。
楽しく吹いていた、あの頃の自分。
こうしたいという想いで、トランペットに向かっていた自分。
いろんな考えにとらわれて、固くなっていた自分。
どの自分も、今なら分かる。
想いを持ちながら、固くならず、楽しく吹くこと。
楽器を構える。息を吸い、音を出した。
伸びやかで、今まで聴いたこともない、自分でも驚くような美しい音が、トランペットから放たれた。まるで自分の音ではないかのようで、驚いて一瞬呆けてしまった。
思わず、扉の前に立つコウキを見る。薄暗いけれど、コウキが頷いたのが分かった。
頭に、課題曲のソロを思い浮かべる。
もう一度、息を吸い込み、吹いた。
音が、はっきりと、澄んでいる。音の粒が、気持ち良い。今までにないくらいの、完璧なソロだった。
吹き終えて、そっとマウスピースを唇から離した。
「古谷」
「はい」
丘を見る。丘も、こちらを見ているだろう。静かに、丘が言った。
「あなたが、ソロを吹きなさい」
「……はい」
「三木も、良いですか」
「はい」
取り戻せた。音が、戻ってきた。いや、良くなった。
「逸乃先輩」
コウキが言った。
「良い音ですね」
「……うん」
気持ち、一つ。些細な、たったそれだけのこと。
音がおかしくなっていたのは、自分自身がおかしくなっていたからだった。
気持ちが乱れて、身体が乱れて、音が乱れる。
コウキの言う通りだ。出したい音を、出したいように吹く。それだけで、こんなにも気持ちよく、楽に、綺麗に出せる。
「ありがと、コウキ君。もう、大丈夫な気がする」
「どういたしまして」
「また、三木が何かうまいことやったんですか?」
「うまいことって、大したことしてないですよ」
「さて、どうだか」
丘が、消していた懐中電灯をつけた。
「さあ、帰りますよ。ばれたら怒られるのは、私です」
「あ、はい!」
急いで楽器を仕舞い、部室を出た。
「鍵は私がしておきますから、二人はもう帰りなさい。ついでに戸締りをして、私は戻ります」
「無理を聞いてくださって、ありがとうございました」
「気をつけて帰るように。階段を下りる間だけ、電気を点けて良いですよ」
「はい、さようなら」
コウキと、職員玄関まで戻った。
「コウキ君、ほんとにありがとね。こんなあっさり元に戻るなんて、思わなかった」
「いやいや。すんなり取り戻せたのは、それだけ逸乃先輩が普段から正しく吹けてたからですよ。だから、イメージするだけで、戻った」
「……私が、ソロ、吹いて良いの?」
「勿論です。今の俺が吹くより、逸乃先輩が吹いたほうが、絶対に良い。俺は、実力つけてから先輩に挑みますよ」
コウキが、ぐ、と親指を立てた。
「……ははっ。負けないから」
コウキが後輩で、良かった。
普通なら、ソロを貰えたのだからそのまま自分が吹きたいと思うはずだ。それなのにコウキは、逸乃のために動いてくれた。
コウキとの会話が無かったら、逸乃はコンクールまでに自分を取り戻せていたか、分からない。
不思議な子だ。無私、とは違う。人のために動ける子なのだろう。
「コウキ君に、助けられたね」
「助けたなんて。俺は、思ったことを言っただけです」
「ううん、確かに助けられたよ、私は」
コウキが、はにかみながら笑った。
「明日からも頑張りましょう! 逸乃先輩が元に戻ったなら、トランペットパートはもう万全です」
コウキが、拳を出してくる。首を傾げると、拳を目の前でちょっと動かされた。それで分かった。自分の拳を出して、コウキの拳にぶつける。
「うん!」
顔を見合わせて、笑いあった。




