七ノ七 「まこの優しさ」
小学生の時に入団したマーチングバンドで、初めてトランペットを手にした。
入ったきっかけは何だったのか、今でははっきりとは覚えていない。
初めはスカスカとした空気混じりの音しか出ず、いつまで経っても上手くならなかった。
身体は小さいし、肺活量も無い。歩きながら吹く以前に、まともに音が出せない。そんな状態でも、逸乃は楽しかった。
人生で一番最初に取り組んだ曲は、『鉄腕アトム』だ。
アニメ自体は見たことは無かったけれど、名前だけは知っていたこの作品のテーマ曲が、何となく好きになった。
次に吹いたのは『海兵隊』という行進曲。そうやって、マーチングバンドでは、様々な行進曲を吹いた。どれも明るく、時に物悲し気な、心がワクワクするような曲ばかりだった。
そのうち、歩きながら音もかすれずに吹けるようになった。
ある時、テレビで美しい音色で吹くトランペット奏者を見る機会があった。画面の向こうの彼は、同じ楽器を吹いているとは思えないような未知の音を奏でていた。
その音と比べて、自分の音はペラペラと薄っぺらく、ただ鳴らしているだけなことに、逸乃は初めて気がついた。
それ以来、あのテレビで見た音を思い出しながら吹くようになり、そうしているうちに少しずつ音が綺麗になっていった。
中学に上がってからはマーチングバンドを辞め、吹奏楽部でトランペットを続けた。そんなに裕福な家庭ではないため、周りの子のように楽器を買ってもらったりは出来ず、学校の備品を使い続けていた。
担当は、一年間ずっとサードだった。
負けず嫌いな性格が良かったのだろうか。誰よりも練習して、二年生の頃にはセカンドになり、三年生ではファーストを担当するようになった。ソロも任されるようになり、マーチングバンドで一緒だった子達からは、あの逸乃がね、とよく笑われたものだった。
その頃に、昔テレビで見たトランペット奏者が、日本にコンサートに来ることを知った。母親に頼み込み、お年玉貯金でチケットを手に入れてもらって、聴きに行った。
生で聴く彼の音に、痺れた。脳も、心も、身体も、全てが震えた。
あんな音を出したいと、更に強く思うようになった。
逸乃がトランペットを吹き続けられてきたのは、自分が頑張れば頑張った分だけ、トランペットは応えてくれるからだった。
自分が変われば、トランペットの音も変わる。
吹き続ければ、誰よりも先に進める。自分より上手い人は多かった。それでも、その人達も抜いていった。
花田高に進学して、同期に一人、上手い子がいた。ファーストはその子と上級生が担当し、逸乃はセカンドだった。
悔しかったけれど、いずれは追い抜くつもりでいた。
ところが、追い抜く前に、逸乃よりも遥かに上手かったあの子は、問題を起こして退部した。
それで、いつの間にか逸乃がファーストを担当するようになっていた。
それからはずっと、誰もがトランペットのファーストは逸乃だと言った。ソロの度に、頼んだぞ、と言われ、その期待に応えてきた。
常に、一番であり続けようとしてきた。
いつしか、親も逸乃のトランペットに期待してくれるようになってきて、音楽大学に行きたければ、行けと言ってくれるようになった。
プロ奏者の道。逸乃も、ぼんやりとそれを考えるようになっていた。
けれど。中村華。あの子は、そんな逸乃の努力の数年間を、いとも容易く踏み越えてきた。
華は、中学二年生で、今の逸乃とほとんど変わらない技術を持っていた。
今まで、上手い人は同期や年上には何人もいた。それは、全て経験の差だった。焦らずにやっていれば、自然と追いつき、抜いていけた。
あの子は、違う。
いずれ、逸乃を追い抜いていく。確実に、逸乃よりも高い場所へ行く。
あんな子もいるのだ。プロの世界でも、輝けそうな素質を持つ子。
いや、もしかしたら華でさえ、プロの世界に入れば石ころの一つかもしれない。
逸乃もプロを目指したところで、その石ころの一つとして、消えていくのかもしれない。
そう思うと、今まで抱いていたささやかな誇りは、崩れ去った。自分に、自信が持てなくなった。
そして、自分の音が、分からなくなった。
「古谷、ソロをもう一度」
プールコンサートも終わり、今週末にある合宿前の、詰めの合奏中だった。
丘に指摘されて、楽器を構える。そして、吹く。
何度も吹いてきた課題曲のソロ。今まで、丘につかまったことはなかった。
「どうしました、古谷。乱れていますよ」
「すみません、もう一度お願いします」
再度、ソロを奏でる。けれど、思い通りに音が出ない。
「何かありましたか」
「……いえ、すみません」
「もとに戻りますか?」
じっと、逸乃を見据えてくる。部員の視線も、逸乃に絡みついてきた。心臓が、ぎゅっと掴まれたように痛い。冷や汗が、背中を流れる。
「……分かりません」
音楽室が、ざわつく。顔を上げていることが出来ず、手元のトランペットに目線を落とした。
入部してから、ずっとこのトランペットで吹いてきた。楽器の隅々まで把握していて、まるで自分の手足のように自由に動かせていた。今は、それがひどく異質なものに思える。こんな楽器だっただろうか。息が、素直に管の中を通らない。
丘が、指揮台を叩き、静める。細く長い息を吐き、衝撃の言葉を放った。
「三木、ソロを吹いてみなさい」
放たれた言葉が、逸乃の心を刺す。トランペットを握る手に、力がこもった。
思わず、血が出そうなほど唇を噛み、胸の中に生まれた黒い感情を、必死で抑えた。
「いや、すみません、練習してないです」
「構いません、吹いてみなさい。ゆっくりから」
「はい」
隣で、コウキのソロが鳴っている。真っすぐでコウキらしい、芯のある音。
「……しばらく、三木のソロで行きます。三木、練習しておきなさい」
「分かりました」
「古谷」
「……はい」
「音を取り戻せたら、言いなさい」
返事は、出来なかった。
職員棟の東端の外にある、非常階段。花田高の敷地は、少し周りより高くなっているため、町が少しだけ遠くまで見渡せる。
夕暮れ時で、赤くなった町。逸乃は、生まれてからずっと、この町で過ごしてきた。この町のことなら、ほとんど分かっているつもりだ。何もない、けれど、それが良い、のどかな町。
自然と、ため息が漏れた。
四日前の合同練習の後から、音が、上手く出せなくなっていた。
自分が、分からなくなったのだ。
華という圧倒的な才能を前にして、自分の凡庸さを自覚した。
上を目指して、どこまで自分は行けるのか。あの子よりも、輝けるのか。あの子より、もっと上がいるのではないか。
その全員を、超えていけるのか。
コウキは、逸乃は逸乃の音を磨けば良い、と言った。
その通りなんだろう。けれど、自分の音に、一体どれほどの価値があるのか。
もっと上手い人間に、逸乃の音は飲み込まれるのではないのか。埋もれて消えゆくだけではないのか。
がちゃ、と扉が開く音がした。誰かが出てきたらしい。
足音が、逸乃のそばまで来る。
「よっこいしょ」
おやじくさい掛け声とともに、隣にまこが座ってきた。逸乃がここにいると、どうして分かったのだろう。
その手に、ドライフルーツの袋を持っている。まこがよく食べているものだ。無言で一つ手渡され、ちょっとかじった。甘みの凝縮された、ねっとりとした食感と味。何という名前の果物だっただろう。
「逸乃ちゃん。何があったの?」
聞かれて、ドライフルーツを食べる手を止めた。うつむいたまま、答えられない。
「……逸乃ちゃんが一年生の時も、こんなことがあったね」
「……そうでしたっけ」
「忘れた? あの子がまだいた頃、逸乃ちゃんはずっとこんな調子だったよ」
同期に、今の逸乃よりも、もっと上手い子がいた。同い年なのにあの子と技術の差があることに、悩んでいた時期があった。
けれど、いずれ追いつけると思っていた。だから、頑張れた。あの子は途中でいなくなってしまったけれど、今の逸乃なら、あの子と同じくらいのレベルにあるはずだ。
「……華ちゃんに出会ったから?」
言い当てられて、身体が固くなった。図星だったことを悟られたくなくて、ドライフルーツを口に放り込み、顔を膝と腕にうずめた。
今はまだ逸乃のほうが優れていても、華には、いずれ抜かれる。一度抜かれたら、追いつける気がしない。それほど、華の才能には光るものがあった。同じトランペット同士だからこそ、余計に分かる。
後頭部に、何かが触れた。それが、まこの手だと気づいた。
何度も、撫でるように優しく触れてくる。
「自分の音に、自信が無くなっちゃった?」
「……はい」
「もう、吹きたくなくなっちゃった?」
言葉が、勝手に漏れようとする。
「……音大に」
「うん」
「音大に、行こうと思ってました。プロを目指そうかなって。でも……華ちゃんみたいな子が、いっぱいいる世界です。そんなとこに私が行っても、埋もれるだけなのかもしれないって、思っちゃいました」
思ったら、身体が、言うことを聞かなくなった。意識せずに吹けていたトランペットが、意識しないと吹けなくなって、意識すればするほど、理想の音からかけ離れていった。
「あんな凄い子がごろごろいて、私は、目指す意味があるのかなって……考えたら、何のために吹いてるのか、分からなくなっちゃいました」
まこの手が止まり、肩を触られた。ぐい、と身体を引き寄せられ、身体を包み込まれる。
抱きしめられていた。
「不安になっちゃったんだね」
甘い香りが、まこからふわりとした。
「簡単に、逸乃ちゃんなら出来るとか、きっと大丈夫とか言えないけど……私は、逸乃ちゃんの音が好きだよ。私の、目標の音でもある」
「……まこ先輩の?」
「うん。去年逸乃ちゃんが入部してきて、その音が凄く、好みだった。だから、ずっと逸乃ちゃんの音を目指して吹いてきたんだ。悔しくて、そんなこと言ってこなかったけどね」
ペア練習を逸乃とまこが組んだときも、逸乃が教える側になって、まこは悔しそうにしていた。まこが、自分の音をそういう風に聞いていたなんて、思いもよらなかった。
今まで、邪険にされたことは一度もない。けれど、どこか対抗心のようなものをまこが感じているような気がしていて、いつも踏み込めなかった。
「逸乃ちゃんより上手い人がいるとか、才能のある人がいるとか、そういうの、悔しいと思う。でも、少なくとも逸乃ちゃんには、もうファンがいるんだよ」
思わず、顔を上げていた。まこの顔が、近くにある。白くて滑らかな肌。桃色の唇。うらやましいほど長いまつげが揺れて、まこが笑ったのだと気づいた。
「私が、逸乃ちゃんの音楽のファン第一号。自称だけどね。逸乃ちゃんの音を、好きだと思ってる人がいる。もっと聞きたいと思ってる人がいる。それは、逸乃ちゃんが、凄いからだよ」
「私の、ファン」
「うん。そりゃあ、もっともっと大勢の人に届けたいとか、誰よりも成功したいとかって気持ちは、あると思う。でも、目の前の一人にまずは届けて、その人に届いたら、次の人に届けて、ってやっていけば、きっといつか逸乃ちゃんの周りには、逸乃ちゃんを好きな人であふれると思う。そしたら、逸乃ちゃんなりの音楽の道が出来上がるんじゃないかなあ。私を虜にしたみたいにさ」
まこの言うことは、何となく、心に響いてくるものがあった。
目の前の一人に届ける。自分は、今までそれをしてきただろうか、と逸乃は思った。
もちろん、聴く人に音楽を届けようという想いはあった。けれど、それが、本当に目の前の一人に届ける、ということだったのか。
一番には、自分が上手くなるために、という気持ちで吹いてきたように思う。
「絶好調の時の逸乃ちゃんの音も、悩んでる時の逸乃ちゃんの音も、全部、私の好きな音だよ。逸乃ちゃんは、逸乃ちゃんにしか出せない音を貫けば、もっとたくさんの人が好きになってくれると、私は思うな」
そう言って、まこは逸乃の頭をぽんぽんと二、三度軽くたたいた。
「音楽のことでは、私じゃ力になってあげられないけど、泣きたい時とか、愚痴を言いたい時は、いつでも頼ってね。仲間、でしょ」
まこは照れ臭そうに微笑んで、それから立ち上がると、ぐっと伸びをして息を吐き出した。
「偉そうに言っちゃった」
夕陽を横顔に受けながら笑いかけてくるまこの姿が、綺麗だった。
それで思い出した。同期のあの子との実力差で悩んでいた時、同じようにここで拗ねていたら、まこが来て、ドライフルーツをくれたのだ。同じように夕暮れ時だった。その時のまこは、何て言ってくれたのだったか。
ちょっと頭を回転させて、記憶を引っ張り出す。そうだ。あの時は、まこは何も言わず、頭を撫でてくれたのだった。
「……まこ先輩」
「ん?」
「もう一回、頭……撫でてくれませんか?」
「うん」
一歩近づいてきて、さらさらと、逸乃の頭を撫でてくる。前もこうして頭を撫でて励まされて、もう少し頑張ろう、と思えたのだ。
思えば、あの時から、まこを尊敬するようになった気がする。トランペットの技術の上下ではなく、人として、まこに憧れた。
当時の三年生は、逸乃と同期のあの子をライバル視していて、落ち込む逸乃を慰めるなんてことはしてくれなかった。
二年生だったまこだけが、逸乃を、言葉ではなく態度で、励ましてくれた。
今は、態度でも、言葉でも、逸乃の心を少しだけ穏やかにしてくれた。




