七ノ六 「プールコンサート」
梅雨明けはまだ先で、雨にならないかと心配されていた天気は、無事に快晴となった。
空梅雨はジメジメとした日が少なくてありがたいが、農家や自然界にとっては水不足の原因となって後々困る。
全体で考えると、ありがたがってばかりもいられないのが真実だ。
とはいえ、今日に限って言えば快晴で助かるというのも、本音である。
今は、市民プールに向かって皆で歩いているところだった。十一時半からのプールコンサートに向けて、事前入りしておくのだ。
すでに楽器を積んだトラックは、先に到着しているだろう。楽器を下ろした後は、事務棟の小さな控室でリハーサルを行う。
昨日は東中との合同練習で、今日はプールコンサート。忙しいが、花田高の七月は毎年そんなものだ。プールコン、夏の合宿、コンクールと毎週何かしらイベントがある。この忙しさに慣れる頃には、一年生も花田高の部員として落ち着いてくるようになる。
本来なら、毎年プールコンが初心者にとって最初のデビューイベントとなるが、今年はデイホームでのミニコンがあった。そのおかげで、初心者の七人も特に気負った感じはない。
「終わった後泳いでいいらしいけど、コウキは泳ぐ?」
隣を歩く智美が言った。
「いや、泳がんよ。水着持ってきてないし」
「私も。絶対裸見せたくない」
「そういや、智美って肌の露出嫌うよね」
「うん。何か、見せるの苦手で。ほんとは制服のスカートも嫌だよ」
「ふーん……? スタイル良いから、恥ずかしがらなくて良いと思うけど」
「何言ってんの」
智美が肘で小突いてくる。
実際、智美は陸上部だったということもあるからか、すらっとしている。女性が気にする足も、智美は細い方だろう。そこまで気にする必要は無いように思うが、何か心理的な抵抗があるのかもしれない。
「そんなことより、洋子ちゃんとは昨日はしっかり話せた?」
「ちょっとだけだった。他の子につかまって」
「もったいないなぁ。せっかく会えたのに」
「俺だって、もっと話したかったよ」
「また、うちで集まる? 前言ってたでしょ。洋子ちゃんも呼ぼうって。帰りはお母さんが送ってくれるし」
「ああ……良いね。迷惑でないなら」
「ん、じゃあ言っとく。メールでまた日にち決めよ」
「おっけー」
昨日、久々に会った洋子は、また一段と可愛くなっていた。態度もしおらしくて、そのせいで、妙にどきどきさせられた。
平静を装ったが、普通に話せたかは、分からない。
本当はもっと洋子との時間を取りたかったが、練習中から華と逸乃の様子が気になったし、その話の後は他の後輩や、何故か広まっていたファンクラブの話を聞きにきた高校生組に囲まれて、洋子と話す暇がなかった。
コウキは高校生になってから、部活にのめりこんできた。そのせいで、洋子や拓也との時間を犠牲にしてきたところがある。
拓也もサッカー部で一年ながらレギュラーになったらしく、忙しいというのもあるが、穏やかだった三人の時間が懐かしい。
この部も、二人も、コウキにとっては同じくらい大切なのだ。
「なあ、その」
「ん?」
「拓也も呼んじゃダメかな」
「拓也君? どしたの急に」
「いや……俺と拓也と洋子ちゃん、よく三人で遊んでたんだ、中学まで」
「うん」
「けど高校上がったら全然会う時間なくなっちゃってさあ……また、会いたいんだよね」
洋子の家は、両親が朝早いため、遅くまで騒ぐことは出来ない。必然的にコウキか拓也の家でとなるが、二人とも親が送りの車を出してくれないため、洋子を連れてこれない。それで、今まで会えなかったのだ。
洋子を車で送ることが出来るのなら、大学生の兄が起きているから良いと、洋子の親も言ってくれていた。
「んー……私は良いし、多分お母さんも良いっていうけど、そんなに三人の仲が良いなら、私と華がいないほうが良いじゃん?」
「いや、俺は、智美ももう同じくらい大事な人だと思ってるよ。華ちゃんだって俺にとっては特別な子だし」
「またそーやってすぐ……そういうこと、洋子ちゃん以外の他の女の子にも言うからいけないんだよ」
「え……そういうつもりじゃないけど」
智美が、はあ、と息を吐いて、頭をくしゃくしゃとかきあげた。
「誘ってみなよ。拓也君が良いなら、うちはおっけー。なんなら奈々も来たがったら連れてきていいから」
「あ、ありがとう」
「コウキはさ、自分では上手く女の子に意識されないように接してるつもりだろうけど、勘違いさせてるよ。あほ」
智美はそう言って、コウキの頬を指で弾いた。
それから、つい、と顔をそむけて、他の子のところへ行ってしまった。
「さて皆さん、準備は良いですか」
全員を見回して、丘が言った。いよいよプールコンサートの時間だ。
普段はきっちりした格好の丘も、今日はアロハシャツにハーフパンツというラフな格好をしている。
部員は全員、白のティーシャツにジーンズ。丈の指定は無いので、短パンだったりハーフだったり、まちまちだ。
「今回も、皆さんはよく頑張って練習しました。あとは、楽しんで吹くだけです。ラジオ体操組も、緊張せず、いつも通りに」
桃子、万里、智美、綾が返事をした。
毎年演奏するラジオ体操では、誰かが前に立ち、演奏に合わせて観客と一緒にラジオ体操をする。今年はこの四人だった。
「では、行きましょう」
控室を出て、事務棟からプールサイドへ移動する。日差しが強いため、木管楽器は布をかけている。木で出来ているし繊細な作りだから、なるべく日に当てたくないのだ。強い日光に当たると、下手をすると木が割れることもあるという。
まだ本格的な夏前ではあるが、日曜日ということもあり、客の入りもかなり多い。日によっては駐車場に長蛇の列が出来ることもあるというから、今日はまだ少ないほうだろう。
セッティングを終えると、館内アナウンスが入って、周りに人が集まりだした。
係員からマイクを手渡され、晴子が前に立つ。
「皆さんこんにちは、花田高校吹奏楽部です。今日は天気に恵まれ、良いプール日和ですね! 今年もプールコンサートに呼んでいただけて、とても嬉しいです」
晴子が、客を見回す。
「皆さんに楽しんでもらえるよう、今日は全部で四曲、ご用意しました! 朝から泳いできた皆さん、ちょっと疲れた頃ではありませんか? 私達の演奏を聴きながら、一休みしてください。これから入る皆さん、準備体操はお済みですか? 最後にラジオ体操を演奏しますので、一緒に準備体操して、プールを安全に楽しんでください! それでは、早速一曲目をお届けします。花田高吹部プールコンサートの定番、『シンクロBOM-BY-YE』です」
拍手が起こる。晴子が席に着き、丘が頷く。
「笑顔で」
丘が、口の動きだけで言った。そして、指揮棒が振られた。
『シンクロBOM-BY-YE』は、男子高校生がシンクロナイズドスイミングをするというストーリーで大流行した、青春ドラマのテーマ曲だ。
はじめは手拍子が繰り返され、それから、だんだんと音が重ねられていく。
何かが始まりそうな、期待を感じさせる導入部。トランペットの華やかなメロディと高音が心地良い、夏にぴったりの爽やかな曲である。
客の反応は良い。演奏も、実力が出せている、とコウキは思った。
デイホームのミニコンから、二週間ほどしかなかった。その短期間で、よく仕上げられたと思う。二、三年生にとっては、この曲とラジオ体操は毎年の定番だから、比較的すぐ仕上げられたというのもあるだろう。
一曲目が終わって、拍手が沸き起こる。
晴子の司会を挟んで、二曲目三曲目は、日曜朝にやっている、子ども向けの特撮番組と魔法少女アニメのテーマ曲。
子ども達の反応が、すこぶる良い。歌い出している子もいる。
トランペットを吹きながら、笑みが浮かんでくる。
ステージと客席の境界が曖昧で、客が自由に見ているコンサートでは、客との物理的な距離も心理的な距離も近くなる。それが、コウキは好きだった。
演奏を聴き入っている客。ビーチチェアで体を休めている客。売店で飲食をしている客。それぞれの日常に、バンドの音楽が華を添える。特別ではない、ちょっとした彩りだ。
こういうところに、吹奏楽の醍醐味はある。舞台に上がって演奏するコンクールや定期演奏会も勿論良いが、客との生のやり取りができるコンサートこそ、吹奏楽の一番の良さだろう。
「さあ、いよいよ最後の曲です。最後は勿論、ラジオ体操。そろそろ皆さん、泳ぎたくなってきた頃ではありませんか?」
元気の良い、子ども達の返事。
「そうだよね。じゃあ、今から可愛いお姉さん達と一緒に準備体操して、怪我しないようにプールに入ろうね!」
笑いが起きて、ラジオ体操を踊る四人が照れながら前に出た。
「ラジオ体操第一!」
智美のよく通る声。それを合図に、演奏が始まった。曲に合わせて、こども達が元気よく身体を動かしている。
万里と綾は、前で演技するのをかなり恥ずかしがっていた。今は、表情はかたいが、ちゃんとやれている。桃子と智美は、満面の笑顔だ。
無事に四曲全てが終わり、拍手が起きた。
「皆さん、今日は私達のコンサートを聴いていただき、本当にありがとうございました。この後も、プールを楽しんでください! 私達花田高校吹奏楽部は、毎月一回、花田町や近隣の市町のどこかでコンサートを行う予定でいます。是非、また聴きにいらしてください」
「花田高校吹奏楽部の皆さん、ありがとうございました。午後三時から、二回目のコンサートもあります。引き続き、プールをお楽しみください」
アナウンスが入って、客が泳ぎに散っていった。
「では、戻りましょう」
丘の指示で、立ち上がる。比較的軽いトランペットパートとホルンパートは木管セクションに楽器を預け、打楽器パートと一緒に打楽器を事務棟裏に運んだ。あまり長時間日に当てていて良いものでもないため、速やかに日陰に入れるのだ。
陰に入ると、さっきまでの暑さが少し和らいだ。プール利用者のはしゃぎ声は、事務棟の裏まで聞こえてくる。
プールコンサートは、毎年午前と午後の二回行う。その間は自由時間で、プールに入りたい部員は無料で入らせてもらえる。
「お昼行くか」
奏馬が言った。
「私達打楽器パートは、楽器番するからここで食べます」
「そっか、了解」
トランペットとホルンで、控室に戻った。中では、片づけを終えた他の部員が、座り込んで休憩していた。
「打楽器以外全員集まったね」
晴子が手を叩いた。
「皆お疲れさまでした。良いコンサートに出来たと思う。二回目も頑張りましょう。じゃあ、今から準備開始の二時半まで休憩です。お昼ご飯食べて、しっかり休んでください。泳ぐ子ははしゃぎ過ぎないようにね」
「はーい」
解散となり、持ってきた弁当を取り出す。午後はさらに暑い中で演奏になるし、軽く済ませようと思っておにぎりだけにした。
「コウキ、あっちで食べよーぜ」
コントラバスの勇一が近づいてくる。
「分かった」
移動すると、同期のユーフォニアムの久也と、チューバの三年生の安野太がちょうど弁当を開けているところだった。
「お疲れー」
「お疲れ様です」
「いやあ暑いなしかし。コンサートは成功だけど、もう一回これはキツイわ」
勇一がタオルで汗を拭きながら言った。
確かに、今日は日差しが強く、かなり暑い。この後、少しでも仮眠を取るなりして休まないと、倒れてしまいかねない。
「うおっ、太先輩、凄い量ですね」
「え、そう?」
見ると、普通の三倍はありそうな大きさの弁当箱に、白米とおかずがみっちりと詰まっている。今日の暑さでそれだけ食べたら、自分なら吐き出してしまいそうだ、とコウキは思った。
「これくらい食べないと午後までもたんよ~」
「そんな食べてるからこのお腹なんすね」
太は体格が横に大きく、名前にぴったりという感じの見た目をしている。
コウキがたるんだ腹の肉をつまんで言うと、太がくすぐったそうに身体をよじった。
「チューバ吹くにはこれくらいで良いの」
体格がチューバの上手さに関係があるのだろうか、と思ったが、突っ込まないでおいた。太の力強く豊かな音を聴いていると、全く関係ない、とも言えないように思える。
手を合わせてから、太が豪快に弁当を食べ始めた。
久也はコンビニのおにぎりらしい。
コウキと勇一も弁当を食べ始めると、奏馬と修もやってきた。
「たまにはここで食うかな」
「お疲れ様です、奏馬先輩」
「あ、なあ、修はプール入るの?」
「入るぜ、太。無料で入らない選択肢はないって」
「奏馬は?」
「入る」
「えー、なら俺も水着買おうかな」
「良いじゃん、泳ごうぜ」
「先輩達、元気ですね」
「ん、久也君たちは泳がんの?」
「いやぁ、キツイっす。疲れました。一日に二回本番は初めてなんで、体力残しておきたいです。泳いだら絶対二回目もたないっす」
「はは、俺らより若いのに」
和みながら昼食を食べ終わった後は、コウキは控室の壁にもたれて身体を休めた。
三年生の三人は、本当に泳ぎに行ったらしい。他に、桃子と幸と夕も泳ぎに行ったそうだ。後の部員は、寝たり、話をしたりと自由に過ごしている。
目をつむると、少しずつ眠気が襲ってきた。
昼寝をすると後が楽だ。少し、眠ろう。
そう思った途端、意識は不明瞭になり、一気に眠りの世界へと沈んでいった。
事務棟の休憩室からはプールの様子が見え、流れるプールを、桃子と幸と夕が浮き輪に乗って流れている。
万里は、売店で買ったアイスクリームを食べながら、その様子を眺めていた。
桃子達は、水着姿を他人に見られることに抵抗がないらしい。水着の上にティーシャツを着ているとは言え、万里には無理だ。
冷たいアイスが喉を通って、胃へ落ちていく。キン、とした冷気を、腹の中で感じた。
「隣良い?」
声をかけられて振り向くと、逸乃が立っていた。
「あ、どうぞ」
「美味しそう」
「一口要りますか?」
「良いの?」
スプーンですくって、アイスを差し出す。ありがと、と言って、逸乃がそれを口に含んだ。
「美味しいね」
「はい」
それきり、会話が途切れる。
万里は、逸乃とも良く話すようになってきたが、まだ自分からは話題を提供できなかった。何でも話せるのは、トロンボーンの咲くらいだ。咲とは、互いに大人しい性格が合うのか、仲が良い。
ちらりと横を見ると、逸乃は椅子にだらしなく座って、ぼんやりとプールを眺めている。その視線は、どこを見ているというものでもなく、定まっていなかった。
何かあったのだろうか。
聞こうと思うけれど、何と切り出せば良いのか分からず、結局言葉が出ない。
沈黙の気まずさを埋めるために、アイスを食べる手が早くなり、腹が一気に冷えた。
隣の椅子に座っている女性二人の話声が、こちらまで聞こえてくる。こどもを連れて来たママ友なのか、学校の教師の愚痴に花を咲かせている。
「万里ちゃんって、コウキ君のこと、好きでしょ」
「んぐっ」
唐突に言われて、むせかけた。何故、皆、万里が食べたり飲んだりしている時にばかり、驚くようなことを言うのか。ハンカチで口を抑える。
「何ですか……急に」
「見てれば分かるもん」
そんなに、分かりやすいだろうか。
「お似合いだね」
「そ、そうですか?」
恥ずかしさで、またアイスを食べる手が早くなる。カップの中のアイスは、もうあと一口、二口分になってしまった。
「うん。仲良いし」
仲は、良いと言えるのだろうか。
確かに、ペアを組んでいて、コウキが面倒を見てくれるおかげでいつもそばにいる。けれど、話すことは音楽の話ばかりで、まだコウキの私生活のことはあまり知らないし、中学生の頃の話も、ほとんど聞いたことが無い。
それでも、仲が良いと言えるのだろうか。
「うまくいくと良いね」
「あ、は、はい。頑張ります」
答えて横を見ると、逸乃の顔は、本当にそう思っているのだろうか、と疑問に思いたくなるほど、無表情だった。相変わらずその目は、何も捉えていないように見える。
「逸乃先輩……何かあったんですか?」
「ん……別に、何も無いよ」
優しさを感じない、冷たい口調。やんわりと拒絶された気がして、それ以上聞けなかった。
ふう、と息を吐くと、逸乃は立ち上がった。
「アイスごちそうさま」
そのままこちらを見る事もなく、控室に戻っていった。
本当に、どうしたのだろうか。いつもの逸乃ではなかった。
音を立てて閉まった扉を眺めながら、万里は最後の一口のアイスを口に含んだ。




