七ノ五 「合同練習 二」
練習が終わって、音楽室は和やかな雰囲気に包まれている。
「洋子ちゃん!」
コウキが、手を挙げながら近寄ってきた。
向かい合う。手を挙げると、コウキがハイタッチしてきた。
「久しぶり。元気そうだね」
「コウキ君も、久しぶり」
一言目は、何を話そうかと色々と考えていたのに、いざ向かい合うと、そんなものは全て忘れてしまった。
にこりと笑いかけられて、顔が熱くなる。
「なんか洋子ちゃん、更に可愛くなったね」
嬉しいけれど恥ずかしくなるようなことを、コウキは平然とした様子で言う。
思わず、顔を手で隠してしまった。絶対に真っ赤になっている。
前までは毎日のように会っていたから、こうして向き合っても平気だった。今は、久しぶりすぎて、普通が分からなくなっている。
「? 元気ないの?」
「う、ううんっ、違うよ」
「なんだ、照れてんの?」
笑いながら、コウキが頭を撫でてきた。髪が乱れないよう、気を使ってくれているような、優しい撫で方。
こうしてほしいと思うことを、コウキは言わなくてもしてくれる。触れられて、心が満たされていく。
「会いたかったよ」
「……私も」
「なかなか会えなくなっちゃって、ごめんな」
「ううん、忙しいんだもん、仕方ないよ」
「お盆に会えるの、楽しみにしてるから。その前に智美ん家で会えるかもだけどさ」
「あっ、智美先輩も吹部入ったんだよね」
「そう。智美」
コウキが呼ぶと、サックスパートで話し込んでいた智美が振り向いた。洋子を見て、手を振ってくる。振り返すと、後で話そ、と言われた。
智美ともメールはしていたけれど、顔を合わせるのは久しぶりだ。
「メールだけじゃ、寂しかったね」
「……うん」
「弁当食べたらさ……」
「コウキくーん、来て来て」
「あっ、はい」
トランペットパートの人に話しかけられて、コウキの言葉が遮られてしまった。何と言おうとしたのか。
振り向いて、コウキが悲しそうに笑った。
「後で、また話せたら話そ」
「……うん」
もっとコウキと話していたい。いや、出来るなら、ずっと話していたい。
けれど、コウキはトランペットパートに戻っていった。
「ねー、コウキ君と洋子ちゃん、どういう関係?」
陸が近づいてくる。それにつられて、他の人も寄ってきた。
「え、どういう、って……」
同期の文が、にこにこしながら答える。
「洋子ちゃんはコウキ先輩ラブなんですよ」
ねー、と史に振る。黙ったまま、史が頷いた。
陸が身体をくねらせて、黄色い声を上げた。
「何それ~やばーい! 可愛い~! 応援しちゃう!」
「マジかー、三木は手強いぞー。あいつモテ男だしな」
純也が言うと、文がすかさず言った。
「皆知ってますよ! 東中にはコウキ先輩のファンクラブだってありますから。今日は合同練習だけじゃなくて、コウキ先輩に会えるのを楽しみにしてた子もめっちゃ多いんですよ!」
「ファンクラブって……」
唖然とした表情で、摩耶が呟いた。純也も、口をあけっぴろげて固まっている。
「私達も後で話したいよねー。優也君とさやかちゃんも紹介したいし」
文が言うと、中学生組の一年生二人が、照れ笑いを浮かべた。
「噂の三木先輩と、まともに話せる気がしません……」
「私も、絶対無理ですぅ、オーラが凄すぎます……」
直接関わりのない一年生にも、コウキの話は広まっている。会ったことがないのに、ファンクラブに入会している子もいるらしい。確か、さやかもそうだったはずだ。頬に両手をあてながら、うっとりとコウキの姿を見つめている。
摩耶が、咳払いをした。
「まあ……三木君のことは置いといて、お弁当、食べよっか。総合学習室のほうに行こ」
「はーい」
気づいたら音楽室は人が少なくなっていて、打楽器とトランペットと金管低音しか残っていなかった。皆、すでに移動したらしい。
高校生の後に続いて音楽室を出ようとしたところで、洋子はふと気になって、華のほうを見た。
談笑しているトランペットパートの中で、ぽつりと華だけが浮いていた。酷く、沈んだ表情をして。
トランペットパートは、英語室という部屋で弁当を食べることになった。
マウスピースを洗って楽器を片付け、母親の持たせてくれた弁当を持って英語室へ入ると、すでに華以外の全員が集まっていた。
机をくっつけて、向かい合っている。廊下側の列が中学生組の、華を除いた五人。外窓側が、高校生組の五人。最後に入って来た華の机だけ、列の端っこの、一人だけ黒板を向く誕生日席の位置だ。
「お、来た来た。よっしゃ食べよう」
三年生の、修と言ったか。華が座ると、コンビニの袋から焼肉弁当をさっと取り出し、割りばしを割った。
「いっただっきまーす」
蓋を開け、勢いよくかきこみだす。ご飯粒を飛び散らかしそうなほど豪快な食べ方で、女の子が全員眉をひそめた。
そちらは見ないようにして、華も、弁当を広げる。梅干しのおにぎりと、唐揚げと、沢庵。華の好きな組み合わせだ。
ただ、いつもなら嬉しいのに、今日は心が躍らなかった。
逸乃の存在を、知ってしまったからだ。
今まで、自分が一番だった。自分よりトランペットを上手く吹く人に、会ったことがなかった。だから、華は絶対的な自信があった。
けれど、逸乃は間違いなく、華より上手かった。
課題曲のソロは、常に完璧に吹けるよう努力してきた。実際、今日も良かった。それなのに、逸乃の音は、華のそれを飲み込むものだった。豊かでふくらみがありつつ、軽やかで輝くような音。完全に、華の音を超えていた。
自分のことだからこそ分かる。逸乃との差は、圧倒的ではない。わずかな差だ。けれど、その差が、あまりにも大きな隔たりに感じてしまう。
初めて自分よりも上手い人間に出会ったことで、華は平静でいられなくなっていた。
「それにしても、華ちゃんにはびっくりしたよー。めっちゃ上手すぎて」
修から目を逸らしてため息をついたあと、まこが言った。パートリーダーをしている人だ。髪をおだんごに結び、制服の着方はどことなく垢抜けている、お姉さんと表現するのがぴったりな印象である。
「華ちゃんは、うちのエースなんです」
中学生組の三年生の一人が、誇らしげに言った。
トランペットの三年生は二人いて、関係は良好だ。年下の華にパートリーダーもファーストも任せてくれているし、指示も聞いてくれる。
他の三年生の中には、華が生徒合奏を見ることやパートリーダーを務めることを、まだ完全に認めたわけではない人もいる。そうした人からも、二人は守ってくれる。
「まだ二年生でしょ? 凄いね、華ちゃん」
「ありがとう、ございます……」
「でもでも、逸乃先輩も凄かったです! すっごい音が綺麗で!」
「ん、私?」
「はい! 先輩の音、素敵です!」
「ほんと、凄かった~! 羨ましいですぅ。どうやったらあんな音になるんですか?」
興奮した様子で、三年生二人が逸乃に詰め寄る。
尋ねられて、逸乃が腕を組んだ。
「んー……どうやったら……何となく、かな」
「な、何となく、ですか……」
「逸乃先輩は感覚派だから、聞いても参考にならないぞ」
コウキが言った。
「ちょっとコウキ君、失礼なんですけど?」
「いやいや、先輩の説明は、俺分かんないですもん」
「はー? それはコウキ君の理解力が足りてないからですぅ~」
べ、と逸乃が舌を出して、両手を頭の横でぴろぴろと動かす。それを見て、皆が笑っている。けれど、華は、笑う気にはなれなかった。
「ま、私に聞くより、華ちゃんに聞いたほうが良いよ」
「え?」
「私と華ちゃんは、大した差じゃなかったし。三歳も離れててそれじゃ、実質私のほうが下手って言われたようなもんだもん」
逸乃が背もたれにもたれた拍子に、椅子が軋む音を立てた。それから、逸乃のまとう雰囲気がふいに冷たいものになった。
「あーあ。今まで、それなりに自信あったんだけど、まさか中二にこのレベルがいるとはなあ」
窓の外に目を向けて、逸乃が言った。
「なんだぁ、逸乃ちゃんが珍しく自信失くしてんじゃん?」
「そりゃあ、失くしますよ、修先輩。私、何なんって」
自分のことが話されている。けれど、華には何も言えなかった。何となく皆も黙ってしまって、沈黙が流れた。
隣の総合準備室から、和やかな笑い声が聞こえてくる。
「……逸乃先輩の音は、逸乃先輩にしか出せない音ですよ。逸乃先輩が出している音だから、価値がある。それは他の人と比べられるものじゃない」
コウキが、静かに言った。
「華ちゃんだってそうだ。華ちゃんにしか出せない音を目指せば良い。誰と比べて上手い下手よりも、それが大切だと俺は思う。自分なりの表現で音を出せば、それが他の誰とも違う、自分だけの色になる」
「私にしか、出せない音?」
「うん。たとえば、高音が出るとか、音が綺麗とか、指回しが早いとか」
コウキが、指を一つ一つ、折っていく。
「そういうことがどれだけ出来たって、それを使って自分なりの表現が出来なかったら、意味がないんだよ。技術を使って、自分だけの演奏を作り出し、聴く人の心に届ける。それが、上手い、ってことじゃないかな」
逸乃が、コウキの顔をじっと見ている。
「綺麗な音って、それだけで聴く人を圧倒するけど、音楽は状況によって求められている音が違うじゃないですか。クラシックの人からしたら、ジャズのトランペットの音は使い物にならないでしょうけど、ジャズの人からしたら、あれこそがふさわしい音で、伝えるべき音なんでしょう。全ての場面で正解なたった一つの音なんてなくて……だからこそ自分はどういう音を出したいか、どう伝えたいか、じゃないでしょうか。人と比べてどうかではなく、自分の音で、それを良いと思ってくれる人に、届ける」
「……そうかもね」
まこが、頷く。
「華ちゃんは華ちゃんなりの成長をすれば良い。逸乃先輩の音にショックを受ける必要はない。逸乃先輩は、すでに先輩にしか出せない音が作れてます。それを、もっと磨けば良いんじゃないでしょうか。俺は、逸乃先輩の音、好きですよ」
「……はは、年下のくせに、生意気言うじゃん」
「すみません」
「……謝んなくていいよ。コウキ君の言う通りだし」
さっきまでの影のある雰囲気が消え、逸乃が笑った。それで、場の空気がふっと軽くなった。
食べかけの弁当を仕舞って包みなおし、逸乃が立ち上がる。
「気、使われちゃったな。なんかごめんね、頭冷やしてくる」
手を振って、英語室を出て行った。
また、隣から笑い声が聞こえてきた。英語室は、静まり返っている。
コウキが息を吐いた。目が合う。
「自分の上手さに悩むのは悪いことじゃないけど、他人と比べて悩むのは、無意味だよ。他人より下手だからって、自分の価値が落ちるわけでもない。そういう悩みに頭を使うと、その分だけ演奏に使う頭が減って、成長が遅れるぞ」
コウキは立ち上がってそばに来ると、頭をぽんぽんと叩いてきた。
「自分は自分だ。華ちゃんはまだ伸びる。やってることも、間違ってない。逸乃先輩のとこ、行ってきます」
そう言って、去って行った。
自分は、自分。
その通りだ、と華は思った。
逸乃が華より上手かろうと、それで何かが変わるわけではない。今まで、たまたま会わなかっただけで、華より上手い人間は、この世界に溢れるほどいるのだ。
動揺してしまって、冷静になれていなかった。
背筋を伸ばして、ゆっくりと深呼吸をする。
身体の中の空気が入れ替わるのと合わせるように、乱れていた心が、落ち着いた。
「皆さん、空気悪くしちゃって、ごめんなさい」
頭を下げる。
まこが、きょとんとした顔で何度か目を瞬かせてから、ぶんぶんと手を振って笑った。
「華ちゃんのせいじゃないよ。それに、他人と比べて悩むのは、誰にだってあることだから。コウキ君が達観してるだけ」
「そうそう、気にしない気にしない。てか、なんかたまーに、妙に大人びて見える時があるよな、コウキ君って」
「分かります」
修の言葉に、万里が頷いた。コウキと同い年だったか。きりっとした目をしていて、どことなく近寄りがたい雰囲気をしている。声も、小さくて聞き取りづらい。
「コウキ先輩は、そこが良いんです! 会えて良かった~」
中学生組の三年生の二人が、うっとりとコウキの去ったほうを見て、悩まし気な息を吐いた。他の三人も、同意するように何度も頷いている。
この五人は、全員コウキのファンクラブに入っている。今日初めて会うはずの一年生もだ。
「何、コウキ君ってモテるの?」
「モッテモテですよ! 私達、華ちゃん以外は皆ファンクラブ会員です!」
「んぐっ」
弁当を食べていた万里が、何かを喉に詰まらせたのか、むせた。まこが慌てて背中をさすっている。
「大丈夫?」
「っ……は、い」
「なんかとんでもない言葉が聞こえたんだけど、ファンクラブとかマジ?」
「マジです、修先輩! 東中吹部の女の子の三分の二は入ってます」
それを聞いて、修が腹を抱えて笑いだした。
「これは、ビッグニュース!!」
言うが早いか、修は英語室を飛び出していった。他の人に、言いに行ったのだろう。
「そ、そ、それ、本当に、本当?」
「ほんとですよ、万里先輩。吹部だけじゃなくて部外にもいますよ。会員はコウキ先輩と同学年の人が多かったから、去年よりは大分減ったみたいですけど」
「どこの少女漫画……」
まこが呟いた。
華は、ファンクラブには入っていない。どうせ形だけのものだし、遠くから眺めて騒ぐだけのお遊びだ。それに、華にとって、コウキはただ憧れる対象ではない。師匠のような存在なのだ。トランペットの師匠というよりも、生き方の師匠といったほうが良いかもしれない。
考え方や行動は、コウキから学んできた。今も、コウキの言葉で、華は落ち着くことが出来た。華には無い視点の話を、いつもコウキは聞かせてくれる。それが、華の思考をより豊かにしてくれる。
小学校のクラブの頃から、コウキとは一緒だった。けれど、小学校ではコウキとはほとんど話すことはなく、実際に話すようになったのは、中学生になってからだった。
コウキと話すようになってから、さらにトランペットの腕が伸びた。特別、コウキから練習の指導のようなものは受けていない。ただ、会話をしてきただけだ。
それだけでも、華にとっては大きな経験だった。どんなことよりも、コウキとの会話の時間に、強い影響を受けてきた。
「はあ、やれやれ。凄い世界を聞いちゃったね。ファンクラブとは」
言いながら、まこが立ち上がった。
「皆、飲み物飲む? 奢るよ」
中学生組が、歓声をあげた。
「あ、私は、相沢先輩に学生指導者としてのお話を聞きたいです」
「そ? なら、万里ちゃん、食べ終わったら華ちゃんを奏馬のところに連れて行ってあげてくれる?」
「わかりました」
コウキから事前に、学生指導者の奏馬とも話すと良い、と言われていた。コウキの話だけを聞くより、いろんな人の話を聞いて考えを深めたほうが、思考が深まるから、と。
昼食時間が終わるまで、まだ時間はある。多少なら話してもらえるだろう。
奏馬に尋ねることを考えながら、華はおにぎりを口に運んだ。




