七ノ四 「合同練習」
どれだけこの日を待ちわびただろう。
昨日は遠足前の夜のように、興奮してなかなか眠れなかった。寝付いたのは、きっと日が変わってからだ。
それでも寝過ごすことはなく、四時に起きてシャワーを浴び、念入りに髪型を決め、制服にアイロンをかけ、万全の準備をした。
ここ最近で、一番可愛く前髪が決まった。コウキからもらったヘアピンも、右耳の上につけている。制服には、皺一つ無い。
今日は、東中吹奏楽部全員で花田高に出向き、合同練習をする。華の提案で実現したことだった。
コウキもそこに通っている。会うのは、本当に久しぶりだ。
高校生との練習が本来の目的だけれど、それ以上に、洋子はコウキと会えることを楽しみにしていた。
早く着きすぎて、音楽室には一番乗りだった。
ずっと胸がざわざわとしていて、落ち着かない。深呼吸をしても、心臓は高鳴り続けている。
どんな顔をして会おう。第一声は、何てかけよう。そもそも、話す時間はあるのだろうか。
次々と浮かんでは、消えていく。
椅子に座って、じっと待った。
ずっと待ち続けたのだ。この程度の待ち時間は、何でもない。
徐々に部員が集まり始め、何人目かで、華が入ってきた。眠そうな顔で手を振ってくる。
「洋子ちゃん、おはよー」
「おはよー、眠いの?」
「んー、寝付けなかった」
「私も」
「だよねぇ、楽しみすぎてさー……んー? 洋子ちゃん今日はなんか凄いバッチリじゃん。めっちゃ可愛い」
華が、洋子の顔をまじまじと見つめて言った。
褒められると、恥ずかしくなる。顔を伏せると、にやにやしながら華が覗き込んできた。
「先輩に会えるからでしょ?」
「う、うん」
華が口元を手で隠しながら、目を細めている。
「だ、だって、ほんとに久しぶりなんだもん!」
「分かってるって~。何も言ってないじゃん。ま、絶対先輩もドキッとしちゃうよ。私もちょっとドキッとしたし」
「うぅ、もういいからっ」
「はーい」
ひらひらと手を振って、華はトランペットパートの元へ向かって行った。
ほどなくして顧問が入ってきて、今日の段取りが説明された。
部員は副顧問が引率して、公共バスで移動する。大物の楽器と打楽器は、顧問がレンタルしてきた大型の自動車で運ぶ。それ以外の楽器は、全て自分達で持ち運ぶことになった。
「道やバスでのマナーを守るように。伊藤は、しっかり全員を見ろよ」
部長の隼人が、返事をした。それで解散となり、全員で移動を開始した。
まずは最寄りのバス停まで向かい、次の便が来るのを待った。一台のバスに、全員で乗る。楽器もある分、かなり狭くなるだろう。
案の定、やって来たバスに乗り込むと、東中の部員だけで、すし詰め状態になった。座れた子は、強制的に膝の上に鞄などの荷物が載せられていく。洋子は、立ったままだった。
「発車します」
乗務員の声で、バスが動き出す。
「きついな……」
たまたまそばに立っていた隼人が、ぼそっと呟いた。身動きが取りづらく、互いの肩が触れ合うほど近い。
「これで四十分は、大変ですね」
思わず答えると、隼人が舌を出した。
「時間を言うなよ、絶望する」
がたん、とバスが揺れた。
これから花田高に向かうという高揚感からか、部員は饒舌になっていて騒がしい。
副顧問が静かにしろ、というと、一瞬静まる。けれど、またすぐに騒ぎ出す。途中からは、副顧問も注意をすることを諦めてしまった。
途中の各バス停に止まっても、他の客が乗れるスペースはなく、アナウンスをして、バスはまた走り出した。
「洋子ちゃんは、コウキ先輩と連絡取ってたん?」
隼人が話しかけてくる。
「あ、はい。メールでなら」
「変わってるんかね、先輩」
「どうでしょう、メールじゃ分からないです」
「五月に会った時は、そんな変わってませんでしたよ」
洋子と隼人の横に座っていた華が言った。荷物を大量に膝に抱えている。
フレッシュコンクールの後、華は自宅にコウキを招いたのだという。合奏や練習メニューの改善について、直接相談したそうだ。だから、直近のコウキのことも知っている。
その話を聞いたは、羨ましくて泣きそうになった。
次からは洋子も呼んでくれるらしいけれど、まだ、その機会は来ていない。
「そっか、中村さんは会ったんだっけ。緊張するなぁ。高校生と練習とか初めてじゃんな」
「ですねー。私的には、学生指導者っていう人達に、指導の仕方とか沢山聞きたいです」
「そんな人いるんだ。コウキ先輩は何て?」
「すごい人達だよ、って言ってました。特に三年の学生指導者は、演奏も指導も上手だ、って」
「へー、そりゃ着いてからのお楽しみだな」
高校生ともなると、次元の違う上手さなのだろうか、と洋子は思った。
一年前まで初心者だった自分が、足を引っ張らないかと、急に不安になってきた。少しはマシになったとはいえ、自分がどれくらいのレベルにあるのか、まだよく分かっていない。
そのまま談笑しているうちに、バスは目的の停留所に到着した。全員が降り、バスが走り去っていく。
「よし、列を作って歩くから、はぐれないように。隼人は一番後ろだ」
「はい」
バスを降り、副顧問を先頭に、花田高へ向かう。
初めて歩く土地だけに、洋子はわくわくとした。
自分の住む町より、大分田舎だ。土曜日の朝なのに、道を車が走っていないし、人の姿も無い。
「のどかだね」
「ほんと、静か~」
「あ、あれじゃない?」
バス停から五分ほどで、花田高は見えた。ちょっとした高台のようになっている。正門の先は急坂になっていて、両側に、桜の樹が植わっている。春は、綺麗に咲くのだろう。
手前の校舎の四階の窓が開いていて、そこから、吹奏楽部の音が聞こえてくる。
周りの部員を見回すと、不安と期待が入り混じったような、複雑な表情を浮かべていた。
高校生と初めて一緒に練習するのだから、当然だ。洋子も、似たようなものである。
一人、華だけは、平然とした顔をしていた。
「華ちゃんって緊張することあるの?」
坂を登りながら、洋子は言った。
「え、何急に。あるよーそりゃ」
「だって、今から高校生と会うのに、緊張してるように見えない」
「あー、んー……私より上手い人いないだろうなーって思ったら、別に」
からからと笑っている。自分に、絶対的な自信があるのだろう。
実際、華ほど綺麗に音を吹くトランペット吹きには、コンクールでも出会ったことが無かった。
実力に裏打ちされた自信。分けて欲しいくらいだ、と洋子は思った。
生徒玄関から校舎に入り、用意されていた来客用スリッパに履き替える。
下駄箱を上がったところに、三人立っていた。綺麗な女の人と、背が高い男の人と、先生らしき男の人。脇に、東中の顧問もいた。先に到着していたようだ。
先生らしき男の人が、両手を広げながら言った。
「皆さん、ようこそ花田高校へ。吹奏楽部顧問の丘金雄です。この二人は三年生で、部長の藤晴子と、学生指導者の相沢奏馬」
「よろしくお願いします」
晴子と呼ばれた綺麗な人と、奏馬と呼ばれた背が高い男の人が、笑顔で頭を下げてくる。
華が、あの人か、と小さく呟いたのが聞こえてきた。
「それでは早速、音楽室へ」
三人の先導で、隣の棟へ移動する。階段を一段上るごとに、楽器の音が大きくなってくる。
皆が、黙りはじめていた。顔も、強張っている。
四階に着くと、まず総合学習室という部屋に案内され、そこで楽器を取り出した。打楽器は、すでに音楽室に運ばれているらしい。
準備が出来ると、今度は音楽室に移動した。
丘が扉を開けると、聞こえていた音が、一斉に止んだ。中へ入ると、高校生が、全員立って出迎えていた。
洋子は、すぐにコウキを見つけた。トランペットパート五人の、中央。コウキも気がついたようで、笑いかけてきた。それだけで、鼓動が早くなった。手を振りそうになるのを、こらえた。
サックスパートには、智美もいた。吹奏楽部に入ったことは、聞いていた。
「では、早速東中の皆さんにも中に入っていただきましょう。席は用意してあります」
それぞれ、自分のパートのところへ向かう。洋子も、打楽器のところへ移動した。
「まずは互いに自己紹介をしましょうか」
ざわざわと会話が始まる。
高校生が三人、前に立った。
「おはようございます。打楽器のパートリーダーで二年の、星野摩耶です。よろしくお願いします」
眼鏡をかけ、きりっとした目つきの女の人が、頭を下げた。右目の泣きぼくろが、印象的な人だ。整った顔立ちをしているけれど、真顔のせいで、どことなく冷たい感じがする。
「二年の織田純也っす」
「一年の成端陸です~」
純也と名乗った二年生は、頭をワックスで派手にセットしていて、ズボンも若干腰履き気味だ。その外見のせいで、少し怖い。
陸は、にこにこと優しそうな顔をしているし、一番話しやすそうだった。
洋子達も、一人ずつ名乗った。東中の打楽器パートは、二年生三人と、一年生二人だ。
「東中も三年生いねーんだ」
純也が前髪をいじりながら言った。
「あ、はい。今年辞めちゃって」
「マジ? 駄目だなぁ」
いきなりの失礼な物言いに、洋子はむっとした。辞めたのは確かだけれど、良く知りもしないで、先輩達を駄目と言わないで欲しかった。
「ちょっと純也、理由があるかもしれないんだから、そういうこと言わないの」
「ふん、うっせ」
純也は悪態をついて横を向いた。
「ごめんなさい、こいつちょっと頭弱いから」
「はぁ!?」
「ちょっと先輩達、中学生の前でやらないでくださいよ~」
陸が、にこにこしたまま眉は八の字にして、二人の間に割って入った。
摩耶と純也は、睨み合っている。二年生同士、仲が悪いのか。
なんだかやりづらい相手だ、と洋子は思った。
洋子以外の子も、どういう反応をすればいいのか分からず、戸惑っている。
パンッ、という乾いた音が何度か聞こえて、室内が静まった。丘が、手を叩いたようだった。
「大体終わりましたね。では早速練習しましょうか。今日はせっかく来ていただいたのですから、まずは我が校の基礎練習を、東中の皆さんに一緒に体験していただきましょう」
そういって、丘が大きなメトロノームのねじを回しだした。
「最初は、ソルフェージュから」
打楽器パートの位置からだと、全体が見渡せる。丘の言葉に、東中の部員の視線が泳ぎ出した。聞き慣れない言葉に、皆周りを窺っている。
「ソルフェージュというのは、とても簡単に言えば、楽譜通りに歌う訓練です。楽器で演奏する上で、楽譜に書かれた音を頭の中にイメージする能力は必須であり、音程、リズム、強弱やアクセントなど、書かれたことを正確に読み取り表現出来なければ、良い演奏にはなりません。それを可能にするために行う訓練が、ソルフェージュです。まずは実際にやってみましょう。手本として高校生が最初にやりますので、東中の皆さんは良く聞いていてください」
丘がそう言うと、高校生が全員立ち上がり、晴子の隣にいたクラリネットの女の人が、ピアノまで移動した。リボンの色が、晴子と同じ色だ。三年生なのだろう。
「ピアノの伴奏ありで歌います」
丘がメトロノームを鳴らすと、女の人がピアノを弾き始めた。それに合わせて、高校生が楽譜をドレミで歌い始める。
吹奏楽部なのに歌うのか、と洋子は思った。
打楽器なのに、摩耶達も歌っている。
最後まで終わると、丘が、では全員で、と言った。
全員立ち上がり、ピアノが再び伴奏を弾き始める。
洋子は、歌を歌うのがあまり好きではなかった。人に聴かせられるほどの声ではないし、恥ずかしさを感じてしまって、小さい声になってしまうのだ。
ただ、何となくソルフェージュの意味は分かった。歌で音程などを掴むことで、楽器でも合わせやすくなるのだろう。
最後まで歌い終わると、丘が頷いた。
「皆さん、声が小さいですね。歌うのが恥ずかしいという気持ちはわかりますが、その恥ずかしさは、楽器を吹く時にも出てしまいますよ。下手でも、音がずれていても良いのです。上手になるための練習なのですから。初めから上手く歌える人はいませんから、まずはしっかりと声を出すことが大切です」
丘は、優しい口調とは裏腹に、容赦のない指導をする人だった。ソルフェージュだけで三十分近くかけ、普段歌う機会の少ない洋子は、苦戦させられた。
他のメニューも全てがその調子で、基礎練習だけで二時間近く、みっちりと叩き込まれた。
花田高の基礎合奏は、東中のそれとは、まるで質が違うものだった。きちんと合奏が上手くなるための基礎練習といった感じで、音を聞くとか、音を合わせるとか、バンドとしてまとまった音を出せるようになるために必要な練習ばかりだった。
ふと、華の言葉を、思い出した。
洋子は、二年生でも華と同じクラスになれた。教室で、華はよく生徒合奏を変えたいと言っていた。バンドのレベルが上がるような生徒合奏がしたい、と。
これまでの東中の生徒合奏は、教本をただこなすだけのものだった。生徒合奏のおかげで部員の技術力が上がっていると感じたことも、ない。むしろ、生徒合奏に時間を使うくらいなら、一人でリズム練習をしているほうがよっぽど良いのではないかと、洋子はいつも心の中で思っていた。
花田高の基礎合奏は、何となく良い練習だ、と感じる。こういう練習なら、全員でやる意味もあるだろう。
華が求めている生徒合奏は、こういうものなのかもしれない。
「では、基礎練習はこれくらいにして、『架空の伝説のための前奏曲』をやりましょう」
丘が言った。
吹奏楽コンクールの課題曲は、東中と花田高は同じ曲だった。だから、合同練習が実現したとも言える。違う曲では、合同練習にならない。
「まずは全員で通してみますか」
丘が構え、指揮棒が、振られた。
『架空の伝説のための前奏曲』は、題名の通り、実在しない空想の伝説をイメージして作られた曲だ。一曲の中で目まぐるしく曲調が変わるため、その変化の付け方が難しい。
序盤にはトランペットのソロがあり、東中は当然華が吹く。高校生は、一番左のトップの席に座っている、髪が凄く長い女の人が吹くらしい。華と女の人が、二人で吹いた。
その瞬間、思わず、洋子は演奏の手を止めそうになった。
今まで、華のソロは文句のつけどころのない完璧なソロだと思っていた。けれど、華の音が、女の人に飲み込まれたように、洋子には感じられた。
二人で吹いているはずなのに、女の人の音だけが、やけにはっきりと聴こえる。
曲は止まらず、進み続けた。最後まで演奏し終わって、構えを解くと、中学生組のほとんどが、うつむいていた。高校生とのレベルの差を、隣で聴いて、嫌と言うほど思い知らされたのだ。
洋子も同じだった。摩耶も純也も、自己紹介の時の険悪な雰囲気はどこへいったのか。曲になると、見事な一体感だった。
「高校生のレベルに、打ちのめされましたか? とても、このレベルは無理だ、と思いましたか?」
丘が言った。
誰も、何も答えない。東中の顧問も、下を向いている。
「はっきりと言っておきましょう。皆さんでも、このレベルの演奏は可能です」
その言葉に、洋子は顔を上げた。
「一人一人の力量は、高校生と中学生で差があったとしても、バンドに合奏力があれば問題ないのです。コンクールはソロコンテストではありません。いかに合わせるか。一体感を高めるか。バンドとして、表現したい演奏を実現するか。大切なのは、そこです。そこが出来れば、皆さんにもこの演奏は可能です。そして、それを可能にするために、基礎合奏があり、合奏練習がある」
洋子達に、これほど明快な演奏が、出来るようになるのだろうか。
「コンクールまでひと月もありませんが、皆さんは若い。一週間もあれば、大きく変わることだってありえます。今の段階より、さらに上を目指す。全員がそれを願えば、必ず変わりますよ。では、細かいところをやっていきましょうか」
午前練習の残り全部を使って、課題曲の合奏が行われた。
要所となるポイントを、丘は的確に指摘して、東中の演奏の課題を浮き彫りにしていった。
ここに来るまでは、洋子の頭のなかは、コウキのことでいっぱいだった。始まってみると、それを考えている余裕は無くなっていた。演奏についていくのにただ必死で、よそ事など、考えている暇もなかった。
普段、自分達で練習しているだけでは気づけなかった多くのことを、高校生との合同練習で気づかされた。きっと、洋子以外の中学生組もそう感じただろう。
合同練習が終わる頃には、皆の顔つきが変わっていた。
「さて、練習はこれで終わりですが、せっかくですからこどもたち同士でお昼ご飯を楽しんでください。それから解散ということで、打ち合わせてあります。私達教師は、外でゆっくり良いものを食べてきますから」
笑い声が上がった。
「では、お疲れさまでした」
全員で立ち上がって、礼をした。丘と東中の顧問が、退室する。張り詰めていた空気が緩み、音楽室は急に賑やかになった。
洋子は、握りしめていたスティックを台に置いた。そして、息を吐き出す。緊張していた身体から、力が抜けていく。
たった半日。わずか数時間だった。それでも、濃密な時間だった。
これほどに濃い練習は、初めてだった。ちょっとした興奮すら、感じる。
ここに来て良かったと、洋子は思った。




