七ノ二 「表と裏」
紺野星子は、二年生のオーボエである佐方ひまりを尊敬していた。
この地区の高校生のオーボエ奏者で、ひまりのことを知らない人はいない。ひまりが吹けば、周りが黙る。それくらい、ひまりの音は、聴く者を魅了する。
星子も、ひまりと同じプロ奏者の先生からレッスンを受けている。中学の時に、そこでひまりと出会った。
レッスンの順番を先生の家で待っている時に、時折ひまりの音が聞こえてくることがあったのだ。すぐに、ひまりの音に惚れた。この人の隣で吹きたいと思うようになった。
それから何度かレッスンで行き会うようになり、花田高に通っていることを耳にした。
だから、家も近かったし、高校はここに選んだ。
星子は、自分では同学年の奏者と比べても、オーボエの腕は高いと思っている。
それでも、ひまりには叶わない。たった一年の差なのに、埋められない差があると感じてしまう。
『歌劇「トゥーランドット」より』。今年の花田高の自由曲だ。中国の架空の国の姫、トゥーランドットを中心として巻き起こるストーリーを描いた歌劇で、その中の一曲、誰も寝てはならぬ、はあまりにも有名だ。
その曲で、オーボエのソロがある。顧問の丘は、ひまりがいるからトゥーランドットを選んだのではないか、と星子は考えていた。
ひまりの吹くソロには、痺れた。すべてが完璧だった。少しの無駄も無い、美しい音色。それなのに、吹けば吹くほど、進化していく。まだ良くなっていくのかと驚かされる。
彼女の才能に、限界はないのではないか。そんな気すらしてくる。
ひまりの音と星子の音を比べたら、大人と子どもだ。
自室で、星子はオーボエを構えていた。
目の前には、トゥーランドットの楽譜。オーボエのソロ。
息を流した。リードが振動し、音に変換される。思い浮かべるのは、ひまりのソロ。
「違う」
止めて、呟いた。
こんなものではない。このソロは、もっと異次元のものでなくてはならない。
何度吹いても、薄っぺらいソロにしかならない。譜面を、なぞっているだけ。これでは、意味が無い。
星子は、負けず嫌いだった。自分が下手なのは許せないし、他人のほうが上手なのも嫌だった。
ひまりのことは尊敬している。同時に、負けたくない相手だった。
その態度を表に出したことは無い。だから、ソロも家でこっそり練習している。
ひまりのように吹きたい。その気持ちでは、ひまりを超えることは出来ない。それは分かっている。それでも、今の星子は、ひまりの足元にも及ばないのだ。追いつこうと努力するだけでも、精いっぱいだった。
オーボエを、もう一度構える。
遅くまで練習しても、部屋が防音室のおかげで怒られない。親は、星子のために防音室を作り、星子のためにオーボエを買ってくれた。レッスンも好きなだけ行かせてもらえる。
最高の環境で、練習できる。
もう一度、ひまりの音を思い浮かべた。
「ひまり、タバコ買ってきなさい」
「はあ? 自分で行けよ」
母親が、テレビのリモコンを投げつけてきた。それを躱して、読んでいた雑誌を投げつける。
口論になり、ひとしきり罵り合った後、ひまりは自室に閉じこもった。
ぐちゃぐちゃになった雑誌の折り目を整えて、続きから読む。容姿の優れた俳優が、着飾ってポーズを決めている。
これを眺める時間が、ひまりにとって至福の時間だった。顔の良い男は、どれだけ見ても見飽きない。
家の中は、最悪だ。
本当は一秒だって居たくない。あの母親と一緒に居ると、常に黒い感情に支配される。それが嫌で嫌で、せめてもの抵抗として、自室の扉に自分で鍵を付けた。案の定、その時も母親は怒鳴り、殴ってきた。殴り返して、口論になった。そのときにつけられた額の傷は、まだ消えておらず、前髪で隠している。
中学で、父親が浮気をして出ていった。
人間の滓を集めて出来たような男だった。働かないし、母親に手を上げるし、ひまりに無茶を要求する人間だった。警察も、何度も来た。
いなくなって、ひまりは嬉しかった。それなのに、今度は母親がおかしくなった。
父親と同じように暴力をふるい、怒鳴るのだ。外では良い母親で通っているが、家の中では、最悪だった。
世間体が大事だから、ひまりの身体の見えるところに傷を作ろうとはしないし、ひまりが吹奏楽で活躍するのも、自分の評判につながるから止めない。
「あんたの価値なんてそれだけよ。私のために吹きなさい」
母親はそう言って、ひまりがオーボエを吹くことを認めた。
怒りが、常にひまりの中に渦巻いている。常にだ。それをオーボエで音に変換する。不思議とそうすると、誰もがほめたたえた。
ため息をついた。雑誌を閉じて、目を瞑る。
ひまりは、母親のような人間になりたくない。そう思っていても、いつか自分もあんな風になるのではないかと、怖くなる。
心はざわついたまま、いつしか眠りについていた。
翌日は、早めに家を出て朝練に参加した。すでに、一年生の星子が来ていて、席に着いて練習している。
「星子ちゃん、おはよ」
「あっ、おはようございます!」
可愛らしくぴょんっと立ちあがって、頭を下げてくる。
なんて可愛らしいのだろう、とひまりは思った。
まるで、星子は天使だ。ひまりとは大違いである。
中学の時から、星子のことを知っている。同じ先生のレッスンを受けていた。その時から、星子は異彩を放っていた。
「今日も早いね」
「先輩こそ! 最近早いですね」
「んー、ちょっとはやる気になってきたかな?」
嘘だ。早く出るのは、家にいたくないからでしかない。けれど、本当のことは、言わない。
星子の隣に座って、軽く音を合わせる。星子は、ぴたりとひまりに合わせてくる。入部してすぐの頃からそうだったが、今では瞬時にだ。完璧に、ひまりに合わせようとしてくる。
彼女の才能が、恐ろしい。
初めは、結構上手い子が入ってきて良かった、くらいの気持ちだった。ひと月もすると、追い付かれるのではないかという恐怖が沸き上がってきた。今では、彼女を引き離すために、常に先を目指し続ける必要があった。
油断すれば、立場が逆転してしまいかねない。星子は、それほどに才能がある子だ。
ひまりを慕ってくれているのが分かる。良い子だし、好きだ。けれど、彼女に追い抜かれるのは、我慢ならない。
「あんたからオーボエを取ったら、何が残るのよ」
ある時、母親の投げつけてきたこの一言が、ひまりの心にこびりついている。重く、鎖のようにひまりを縛り付け、支配している。
ひまりには、オーボエしかない。
「おっ、ひまり先輩、おはようございます」
コウキと万里が、音楽室に入ってきた。二人の音は、校門の急坂を登っている時から聞こえていた。それは、いつものことだった。毎日必ず、ひまりよりも先にいる。
他にひまりより早く登校しているのは、一年生のアルトサックスの智美と、三年生のクラリネットの未来、それと星子くらいだ。あとは皆まちまちで、早く来ることもあれば遅い時もある。
「おはよ」
「? 先輩、何か元気なくないですか?」
コウキが近づいて顔を覗き込んでくる。どくん、と心臓が音を立てた。
「……そんなこと、ないけど?」
「ほんとですか? 無理してないっす?」
「してないしてない」
無理やり笑顔を作って、手を振る。
なおも疑うような目をしていたが、コウキは、そうですか、と言って離れていった。
ひまりは、家庭の事情を部の誰にも話していない。ずっと秘密にしてきた。
当たり前だ。話せるわけがない。話すつもりもない。勘づかれるわけにも、いかない。
ひまりにとっては、母親のことも父親のことも、誰にも知られたくない汚点だ。
だから、部では二人のことも、自分の本性もバレないよう、気を付けていた。
それはまるで、外面だけは良い母親と同じだ。そのことに、ある時から気づいてはいた。けれど、変えられない。
ますます母親に近づいていくのではないかという恐怖が、日に日にひまりの心に蓄積していた。
トランペット二人のロングトーンが響く。
万里とはあまり会話をしたことがないけれど、上級生の間では、有望な初心者だと評判だ。実際、万里はかなり上達している。ミニコンでのソロも、初めて二ヶ月ちょっとの初心者とは思えない悪くないものだった。
今年の一年生は、何なのだ、とひまりは思った。
オーボエの星子とトロンボーンの美喜という、化物級の腕を持つ子が二人もいるし、コウキやコントラバスの勇一、ファゴットの中野ゆかなど、十分ソロを担えるレベルの人間もいる。そのうえ、初心者七人の上達速度が、異常なほど早い。
どうせ今年の吹奏楽コンクールは、地区大会で終わりだと思っていた。二、三年生の数が少なすぎて、上位大会に行くことなど無理だろうと。
それが、もしかしたらいけるのではないかと思えるほど、部の合奏のレベルが上がっていた。
理由の一つは、一年生の伸びが凄まじいからだ。
初心者の出す音がぶつかって、不協和音になりやすいのが、人数の少ないバンドの弱点であり、花田高もそうだった。
それが、次第に解消されつつある。
その中心に、あのコウキがいるらしいという話は、リーダー達から聞いていた。
昼に、コウキが主催して初心者のための昼練をやっていて、それに初心者全員が参加するようになってから、伸びが早くなったのだという。
コウキは、上級生とも気さくに話すし、パートの違うひまりにも遠慮なく話しかけてくる、人当たりの良い子だった。
「先輩、どうしたんですか?」
演奏が止まっていた。星子が首を傾げている。星子は、あまりコウキのことを良くは思っていないらしい。
「何でもない。続きやろ」
「はいっ」
音を出す。星子が、合わせてくる。
周りがどうであれ、ひまりはここでオーボエを吹けているなら、それで良かった。吹奏楽部が、ひまりにとって、唯一の逃げ場なのだ。
あの家から離れられる。オーボエを吹いていられる。それだけで、良い。
朝練が終わり、授業はだらだらとやり過ごし、夕練になった。
いつものように基礎合奏の後、今日は曲の合奏の日だった。
「トゥーランドットを」
顧問の丘の指示で、自由曲を合わせる。
劇の第三幕で歌われる、『誰も寝てはならぬ』。吹奏楽用に編曲されたこの曲にも入っている。そして、ひまりのオーボエソロがある。
それを、歌い上げた。
オーボエだからこそ出せる、繊細で胸に来るような音を、頭の中に作り出し、現実の音にする。
吹き終えたところで、丘の指揮が止まった。
「ソロからの切り替えがまだ上手くいきません。がらりと曲調の変わるところです。全員、その緩急を意識して」
「はい!」
最近は、合奏も詰めの段階に入ってきていて、丘は細かい点を指摘することが増えていた。まだ全体的に粗い箇所はあるけれど、それでも最初に比べると、格段に良くなっている。
ひまりがソロを吹く時の伴奏も、最初は酷い出来で、耐え難い演奏だった。それが、今では心置きなくソロに集中できる程になった。
丘の指導は、段々と厳しくなっている。
吹けていないパートは容赦なく合奏から外し、出来るまで戻ってくるなと言うことが増えた。いつまでも戻ってこないと、呼び戻して、出来るまで繰り返す。
他の部員は待ち時間が面倒に感じるが、そうすることで、どんどんバンドの質は上がってきた。
丘がすべてを見るのではなく、部員同士で出来ないところを出来るようにする。どうしても出来なければ、丘も見る。
その流れが整っていることで、合奏では、音を合わせることに集中出来るようになっていた。
曲の中には、クラリネットとユーフォが一緒に吹くとか、オーボエとサックスが一緒に吹くというように、違う楽器同士が同じリズムやフレーズを奏でることもある。その表現や吹き方を統一するために、合奏があるのだ。
合奏外の時間は個人練かペア練かパート練で、そこで最低限のことを仕上げ、合奏で曲を作り込む。
ひまりにとっては当たり前のことだったけれど、他のパートはその認識が不足していた。個人練習でもやれるようなことを、合奏の時間にやっていた。
やっと、全員の意識が変わったことで、合奏の効率があがってきた。
流れが、変わってきていると、ひまりは感じていた。
一人でオーボエを吹くのが、好きだった。バンドの中で吹くのも、好きだった。一人であれ、大勢であれ、良い演奏が出来ると、それだけ気持ちが良くて、嫌なことを忘れられる。
演奏に身も心も任せている間だけ、ひまりは現実から逃れられるのだ。




