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青春ユニゾン  作者: せんこう
高校一年生・夏編
91/444

七ノ一 「上手くなるために」

 もっと、上手くなりたい。

 日に日に、夕の中で、その気持ちが強くなっている。

 早く、未来や晴子のように吹けるようになりたいのだ。


 どれだけ練習しても足りなくて、コウキの主催する昼練にも参加しているし、授業中でも家でも、クラリネットの指使いの練習に費やしている。集中しすぎて、授業中に先生に頭を叩かれたことも何度かあった。

 

 いつのまにか、夕の生活の全てが、クラリネットを中心に回っている。

 初めは、幸に誘われて何となく入部しただけだった。楽器を決める前のテストで、クラリネットを吹いて、たまたま良い音が出た。それを丘が褒めてくれて、クラリネットに配属された。

 それだけだったのに、気が付いたら、完全に熱中している。


「今日も最後まで残ってくの、夕?」


 廊下で自主練習をしているところだった。綾が、鞄を持って隣に立っている。


「あ、うん。綾は、もう帰る?」

「うん、ちょっと体調悪くって」

「大丈夫? 気を付けてね」

「ありがと、ばいばい」


 手を振って、綾を見送った。

 夕と綾と和。三人が一年生のクラリネットだ。綾と和は、中学が同じらしい。和に誘われて、綾も吹奏楽部に入ったと言っていた。


 三人とも初心者で、最初は全然駄目だった。それで、クラリネットが弱いと言われるようになった。

 だから三人で、上手くなって皆を見返そう、とクラリネットになってしばらくした頃に、誓いあった。


 けれど、綾が辞めると言い出した。いつまでも部に迷惑をかけ続ける自分が嫌になって、自ら身を引こうとしたのだ。

 夕には、それを止められなかった。未来や晴子が止めてくれなかったら、綾は本当に退部していただろう。


 もっと自分が上手ければ、あんなことにならなかったのに。先輩にも、綾にも辛い思いをさせなかったのに。

 あの日以来、夕の中で、クラリネットを吹く事は、楽しいとか楽しくないとか、そんな次元の話ではなくなっていた。

 もっと上手くなること。それが、夕の中の絶対になっていた。










 

「鈴木! もっと集中しなさい! 一つ一つの音を丁寧に!」


 翌日。五月に続いて、二度目の蜂谷のレッスンだった。ひと月弱の間、蜂谷から出された課題は、ミニコンやコンクール練習の合間を縫って続けてきた。そのテストをしている。

 

「そう! 一度出した音は、やり直せない! だからこそ常に良い音を出そうとしなさい!  そう!」

 

 吹きながら、耳元で蜂谷の大音量の声を聴かされる。

 その熱量と、レッスンのスピード感が、夕の気持ちを高ぶらせていく。綾が、和が、智美が、耳元で叫ばれている。


 綾と和は、家が遠いため電車通学で、自主練は最後まで残れていない。だから最近は、練習時間を確保するために、平日の昼練にも参加するようになっていた。他にも時間さえあれば目いっぱい練習して、部活になんとかくらいついている。

 

「もう、逃げ出さない。一度逃げようとして、戻ったんだから、もう泣き事言わないね」


 退部宣告を取り消して、部に戻ってきた日の帰りに、夕と和に向かって綾が言ったことだ。


「三人で、乗り越えよう。絶対に、足手まといなんて言われないようになろう」


 三人で、二度目の約束をした。

 約束を果たしたい。早く、上手くなりたい。


 そのためには、蜂谷のレッスンに真剣に取り組むことが、一番だと夕は考えた。

 怒鳴る蜂谷は嫌いだ。それでも、指導の腕は確かだとも感じている。


一時の感情に負けて蜂谷から逃げることは、自分が上手くなることから逃げるということでもある。それは、嫌だった。だから今、夕は真剣だった。


「君たちに必要なのは、確かな基礎力だ。表現力は心の育て方で、いくらでも伸びる。だが、基礎はどれだけやったか。集中して吹いたか。それ次第だ」


 休憩になると、蜂谷は様々なことを語る。


「心の育て方って、どうやればいいんでしょうか」

「良い質問だ、藤。先月、良い演奏を聴けと言ったのは覚えているか?」

「はい」

「どれだけ聴いた」

「他校の定期演奏会を皆それぞれ観に行きました。今は、週に何度か、全員で丘先生の持つCDやDVDを視聴して感想を言い合う時間も作っています。初心者の子は、授業がある日のお昼にもそれをしているらしいです」

「素晴らしい! ただ、生が少ないな。もっと生の演奏にも触れなさい。そして、音楽だけでなく、様々なものに触れなさい。豊かな経験が、豊かな表現力を生む。何も知らない人間が、どれだけ吹き続けても表現力は得られない。だから、様々な経験をして、心を育てろということだ」

「先生。最速で上手くなるには、どうすれば良いですか?」

「おお、やる気に満ちているな、鈴木は」

「早く、上手くなりたいんです」

「誰もが、そう思う。だが、上達に近道はない。上手くなるには、もっと多くのことを知ることだ。例えば、今フランス料理のフルコースを作れと言われたら、作れるか?」

「えっ、無理です」


 当たり前だ。


「だが、フランス料理について知り、フルコースの内容を知り、作り方を知った後ならどうだ」

「……形だけなら、何度か練習すれば出来る、かもしれません」

「そう。何かを出来るようになるためには、そのための知識について熟知し、練習すること。無知の状態では、何をしても上達への道のりは遠い。知識を得て実践すれば、型を身に着けるのが早くなる。型を身に着け、それを深めるのには、修練が必要だがな。最速で上手くなりたいならクラリネットのこと、音楽の事、自分の身体のこと。全てについて学びなさい」


 結局、行きつくところはいつも、考えろ、だった。

 それが、真実なのだろう。

 頭を使わないで吹いて、上手くなれるわけがない。人の間で差がつくのも、頭をどれだけ使っているかの差なのかもしれない。


「上手くなりたいと思うのは良いことだ。だがそればかりに囚われると、大切なことも見失う。それを忘れないように」

「はい」


 蜂谷の指導は、ただ楽器を吹かせることだけではなかった。

 吹いている時間が六割で、話す時間が四割というくらい、意外なほど吹いていない時が多い。

 音楽をする上での考え方や生き方の話が多く、そういったことを意識せずに吹いても意味は無いというのが、蜂谷の口癖だった。


 一度に二時間のレッスン。長いようで、短い。

 クラリネットについて知るためには、蜂谷の指導をもっと受けたいと思ってしまう。けれど、丘から、大事なことは一度に教わっても覚えきれないものだから、一つ学んだらそれを実践して自分の糧にし、また一つ学ぶ、ということを繰り返しなさい、と言われた。

 そのためには、月に一度のレッスンくらいがちょうどいいと。


 逆に、月に一度のレッスンで学んだことを、ひと月も間があるのに、何も活かせていなかったら、レッスンを受ける意味など無い、何度受けても同じだ、とも言われた。

 

「なんかさ、吹部に入ってから、頭使えばっかり言われるようになったよね」


 和が言った。レッスンが終わって、綾と和と話していた。


「丘先生も蜂谷先生も言うし、コウキ君も言うね」


 綾が答える。


「皆そんなに頭使ってるのかな?」

「どーなんだろ。でも実際、そういうこと言う人達って、ちゃんと使ってるんだろうなって感じするし」

「コウキ君、同い年でしょ? 頭どーなってんだろ」


 和と綾の言う通り、コウキは同じ十五歳とは思えないほど、しっかりしている。自分の練習をしながら、初心者を七人教えているし、上級生や丘とも積極的に部活動の運営などについて話をしているという。

 どう生きてきたら、あんな風になるのか。


 二人と別れた後は、もう少し残って練習するつもりで音楽室へ向かった。扉から入ろうとしたところで、コウキと行き会う。


「お疲れ、レッスンどうだった?」

「お疲れ。また、考えろって言われた。もっと、楽器の事や自分のことを知りなさいって。でも、吹いてるだけじゃ全然分からないんだよね」

「考えろ、か」

「コウキ君もよく言うよね。でも、何を考えれば良いんだろう。吹くので精一杯だよ」


 コウキが、考え込むような仕草をした。


「……今日まだ時間ある?」

「? うん、あるよ」

「よし、じゃあ図書館行こうか」

「えっ、今から?」


 コウキが頷いて、音楽室にいた万里に、今日は先に帰る、と告げた。

 いつもなら自主練習を最後まで残っていくのに、珍しい。

 二人で、部室に入る。


「図書館に行って、どうするの?」

「知りたいんでしょ、いろんなこと」


 トランペットをケースにしまいながら、コウキが言った。


「うん」

「行ったら分かるよ」


 促されて、夕も楽器を片付けた。残っていた他の人に先に帰ることを伝えて、学校を出る。夕は徒歩通学だったため、一度家に戻り、自転車を取ってきた。

 花田町の図書館は、高校から自転車で十分ほどの距離にある。訪れるのは、小学生低学年の頃、親に連れられて来た時以来かもしれない。本とは無縁の生活だった。


 自転車を駐輪場に止めて中に入ると、図書館独特の香りと静寂に包まれた。

 本の頁を繰る音。棚に本を戻す時のかたん、という音。そこにいるすべての人が、目の前の本と向き合っている。この静かすぎる雰囲気が馴染めなくて、足を運ぶことがなかった。

 

「こっち」


 コウキが、奥の方へ迷わず進んでいく。立ち止まったところは、音楽関係の棚だった。


「何かについて知りたいなら、本を読むのが一番だ。本には、今まで生きてきた人達が集めた膨大な知識が収められてる。それを読めば、短い時間で自分もその知識を学べる。読めば読むほど、それは深くなるし、学んだことを実践することで、確かな力になる」


 言いながら、一冊の本をコウキが棚から抜き取った。題名に、クラリネット解説、と書かれた本。

 他にも何冊か取り出した。クラリネット関係の本、吹奏楽の指導者の本、音楽のジャンルについて書かれた本。


「最初は、棚をざっと見て、目に留まったものを選びなよ。自分が興味を持てた本が、一番読みやすい。時間がかかっても、それを読みきる。空いた時間を使えば、一頁くらいは進むでしょ。一日に十頁読めば、十日で百頁だ」

「本を読むと、上手くなれる?」

「本を読んだだけじゃなれない。読んで、それを自分なりに考えて、行動に移すんだ。それが正解か間違っているかじゃなくて、自分で判断する、っていう行為が大切だよ」


 コウキが、本を棚に戻していく。

 さあ、選んでみて、と言われた。

 棚を、上から順番に眺める。背表紙の題名が、目から滑り落ちていく。どれも、つまらなそうに見える。

 端から端まで見終わるかという時、一冊の本が目に留まった。


「初めての、吹奏楽」


 手に取った。可愛らしいイラストに、大き目の文字。題名を読み上げる。


「良いじゃん」

「これ、読んでみようかな」

 

 本を読むのは、教科書と漫画と雑誌くらいだった。いきなり難しい本は、読める気がしない。何となく、これは題名から簡単そうな本に思えた。ぱらりと中をめくると、大き目の文字とイラストが目に飛び込んでくる。


「あと、こっちにも来て」

 

 コウキがさらに奥へと入っていく。ついていくと、そこには、CDやDVDがずらりと並んでいた。


「わ、すごい」

「全部貸出可能だよ」

「え、これも?」

「そう。ここはクラシックとかジャズとかのCDが多くて、好きなだけ借りられる」

「コウキ君も、ここで借りてるの?」

「ここか家の方の図書館でね。検索すると、県内の図書館にあるものは取り寄せてもらえるから、調べて予約して受け取るってことが多いかな」

 

 県内すべての図書館にあるものを借りられるなら、相当な数だろう。昼練で使うコウキの音楽プレイヤーには、大量の曲が詰まっていた。どこにそんなお金が、と思っていたけれど、こういうことだったのか。


「まだ、夕さんは音楽に触れた回数が少ないでしょ。だから、一杯聴くと良い。DVDもあるから、演奏会とかミュージカルとか、そういうのも良いと思う」


 ゆっくり見てみて、と言われ、棚を眺めていく。田舎の図書館にしては量が多く、ジャンル分けも細かくされている。都会の図書館がどうなのかは、知らないけれど。

 クラリネット専門の棚まである。タイトルは日本語のものもあるものの、英字のほうが多くて読めない。

 何枚か手に取ってみて、その中で、名前の聞いたことがある曲の入ったCDをいくつか選んだ。


 三十分ほどかかって、その頃には閉館の時間になっていた。借りるための貸出証を作って、本を一冊とCDを三枚借りた。

 いつの間にかそばにコウキがいなくなっていたので、館内を探した。音楽関係の本棚の前で、静かに本を読んでいる。

 その姿が妙にはまっていて、どきりとした。本が、空間が、似合っているとでも言うか。


「あ、終わった、夕さん?」

「う、うん」


 こちらに気づき、本を棚に戻すと、コウキはいつものコウキだった。さっきのコウキは、なぜかとても大人びて見えた。今は、普通だ。

 片づけをしている職員に挨拶をして、図書館を出る。


「本を一冊読むだけでも違うけど、何冊も読めば読むほど、いろんなことが頭に浮かんでくると思う。CDも同じ。大事なのは練習と一緒で、読んで、聴いて、それでどう思ったか自分で考える事だと思う」

「わかった。案内してくれて、ありがと。時間かかるかもしれないけど、読んでみる」

「頑張って」

「コウキ君は、ずっとこういうことを続けてきたの?」

「ん? うん、まあそうだね」

「すごいなあ……私も、コウキ君みたいになれるんかな」


 コウキが笑いだした。きょとんとして、その顔を見つめてしまう。


「なれるよ。俺、初めの頃はド下手だったからね。今でこそまあマシなレベルだけど、最初は酷かったよ。なのに、努力も全然しなくてさ。夕さんは、初めて二ヶ月ちょっとなのに、めちゃくちゃ努力してるじゃん。技術も、確実に上がってる。自分では不安になる時もあるかもしれないけど、安心して。間違った努力はしてないよ、夕さんは」


 照れ臭くて、顔をそむけた。


「嘘でしょ。コウキ君が努力しない人なわけないじゃん」

「ほんとだよ。俺は、どうしようもない人間だったからね」


 ふと、声色が暗くなった気がして、コウキの顔を見た。何かを後悔しているような、苦しんでいるような、そんな表情を浮かべている。


「……大丈夫?」


 コウキははっとして、次の瞬間には、元に戻っていた。


「ごめん、何でもない。とにかく、夕さんなら大丈夫だ。明日からも頑張ろうぜ」


 何となく、触れてほしくないことなのかもしれない、と夕は思った。


「うん。ありがと。じゃあ、またね」


 手を振りながら、コウキは走りだした。暗闇の中に、コウキの姿が消えていく。


 夕は、鞄の中に詰め込んだ本とCDを眺めた。

 コウキが教えてくれた方法は、時間がかかりそうだ。けれど、蜂谷も言っていた。上達に近道はないと。

 昔のコウキが、本当に言うほど下手だったのだとしたら、そこからあの上手さまで向上したということだ。だったら、夕も、同じことをしよう。

 出来ることは、何でもしてみせる。

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