六ノ二十五 「一緒に」
部室に置いていた私物を片付けに来ていた。譜面や、リードや、細々とした物。もう使う事も無いが、置いておくわけにもいかない。
丘には、退部の意志を告げた。
「そうですか。残念です。ですが、こうなる予感もありました」
「すみません」
「謝る必要は無い。井口には、この部は合わなかった。それだけです。もしこの部が緩やかに活動する部だったら、井口にも合ったかもしれません。巡りあわせです。それに、吹奏楽がすべてではない」
怒られると思っていた。丘は、優しい口調で、真を見つめたまま話し続けた。
「やりたいことがあるのは良いことです。高校生活は、部活動が全てではない。やりたいことに、本気になりなさい」
「……ありがとうございます」
「たまには、顔を出しても良いですよ」
結局、非難されると思っていたが、そんな言葉は一切受けなかった。
部にとって、真は引き留めるほどの存在ではなかった、とも言われているような気がした。それでもいい。事実だ。
音楽室から、基礎合奏の音が聞こえる。
ほんのふた月程度ではあったが、真もあの一員だったのだ。悪い思い出ではなかった。
二年の栞には、悪いことをした。
真をどうにかしようとしてくれていた気配はあったが、折り合いがつかなかった。イライラもさせただろう。
それも、丘の言う通り、巡り合わせというものかもしれない、と真は思った。
だらだらと続けていれば、ますます迷惑をかけることになったに違いない。
早い段階で退部を決心したのは、間違いではなかったはずだ。
部室を出て、一度音楽室の方を見た。
挨拶は、していかない。
もう部員ではない。丘は顔を出しても良いとは言ったが、それはしないほうが良いだろう。
真は、逃げ出したようなものだ。そういう人間は、関わらないほうが良い。
それが、真なりの部への気遣いだった。
真が退部したことが帰りのミーティングで丘から告げられ、部が騒然となった。
「聞いてませんよ!?」
勇一が言った。
「今日決まったことです」
丘が答えた。
「井口なりに考えて出した結論だったようです。井口には井口の人生があり、吹奏楽部が全てではない」
結局、コウキには真を止めることが出来なかった。
今日も放課の度に井口のクラスまで出向いて説得したが、駄目だった。最後のあがきだった。
一人も欠けることなく、続けたい。
それが、自己満足だったとしても、コウキの願いだった。
最も辞める危険があったのが、真のはずだ。前の時間軸でもそうだったのだから。
それを、考えていなかったのではないか。
優先すべきは真だったのではないか。
部全体の技術向上を優先して、万里や桃子達の練習を見る事を先に選んだ。それは、真一人より、全体を選んだということではないか。
選択を、間違えたのではないか。
部活後の自主練習をする気が起きず、万里のペア練習の誘いを断って、学校を出た。
途中、亀がいる小川の堤防に寄って、座り込んだ。景色を観たいわけではなかったが、ただ、何となくここが良いと思った。
以前の時間軸でも、何かスッキリしないときは、ここに来ていた。
川の流れと、亀や鳥といった生き物たちの動き、遠くの電車の音。そうしたものに触れていると、一時でも心が落ち着くのだ。
田園地帯だから、川の向こうにもずっと田んぼが広がっている。その先に、線路が見える。
もうすぐ沈みそうな夕陽が、景色を赤くしていた。
綾も真も、結局コウキには止められなかった。
綾はクラリネットパートや友人達のおかげで止められたようなものだ。
コウキは、自分では上手くやれていると思っていた。
実際、初心者の子達の技術力は各段に向上してきた。部の雰囲気も運営も変わりだし、コンクールに向けて、順調に進んでいたはずだった。
そう見えていたのは、コウキが吹奏楽や部活の世界に慣れ切っていたからかもしれない。
そうでない子もいたのだ。
むしろ、全体が変わりだしたことで、ついていけない子が増えたともいえる。
音楽面でも生活面でも、部で要求される水準が上がってきているために、そこに到達できない子もいるのだろう。
電車の車輪とレールが鳴らす聞き慣れた音が流れてくる。田んぼの向こうの線路を、電車が走り去っていくのが見える。
「コウキ」
振り向く。いつの間にか、後ろに智美がいた。
「ここかなと思ったよ」
自転車を止めて、智美が隣に座ってくる。
「なんで、分かった?」
「勘。外れてたらどーしようかと思った」
言って、笑いかけてきた。
少しの間、二人とも黙って景色を眺めた。
陽がどんどんと落ちて、夜になっていく。蛙や虫の声が、そこかしこから聞こえはじめた。
「……真のことは、コウキのせいじゃないんだからね」
智美が静かに言った。
「……分かってる。でも、止められたかもしれない」
「もしもこうだったらを考えたら、キリがないよ。コウキは頑張ってた。私達初心者のことをずっと見てくれて、自分の練習もして、部のことも考えて。そのうえ、真を自分の力で止めるって、欲張りすぎだよ」
「そう、かもな。でも、同期の二十一人全員で最後まで続けたかったんだ。一人も見捨てずに」
辞めるつもりで入ってくる子など、一人もいない。
辞めてしまうのは、生活や部のことで、あるいは人間関係などで悩んでしまうからだ。
それは周りの支えがあれば防げるかもしれないことのはずだ。
「真は止められなかったけどさ……他の子はそうならないよう、これからは私達で皆を支えようよ」
智美を見る。思わず息を呑むような、凛々しい表情をしていた。風で、髪が靡いている。
「今までは、私も自分のことで精いっぱいだった。でも、もうそれじゃ駄目だね。コウキにばっかり負担をかけてる。コウキの協力をするって言ったのに」
「智美が駄目なんて、思ってない」
「知ってる。私が勝手に思ったの。一緒に頑張ろう、って言ってくれたじゃん。だから私も頑張る。もう、こういうことが無いようにしようよ」
「でも、井口君に言われた。辞めたい奴だっている。誰も辞めさせたくないなんて、俺の自己満足だ、って」
真の言葉が、まだ心に突き刺さっている。
その通りではないのか。
「自己満足は、いけないの? それを押し付けるのは駄目かもしれないけど、皆に部活を続けて良かったと思ってもらえるようになるなら、悪いことじゃないんじゃない?」
「そう、なのかな……俺がやってきたことは正しかったのか、分からなくなった」
うつむいて、足元に目をやる。街灯のない場所だから、太陽が消えたら真っ暗だ。先ほどまでは智美の顔も見えていたのに、今は目の前の地面ですら、はっきりと見えない。
「……コウキが、私を吹奏楽部に誘った。そのおかげで私は今、毎日が楽しい。音楽を始めて良かったと思ってる。それは、コウキのおかげだよ。コウキは間違ったことはしてない。少なくとも、私を助けてくれた。それは事実でしょ。正しいか正しくないかなんて、後にならないと分からないことだと思う」
智美が立ち上がった。コウキに手を差し出してくる。
「今度は私の番。これからは私がコウキをサポートする。どんなことだって、一緒に頑張れば出来る、でしょ?」
智美を吹奏楽部に誘った時、コウキがかけた言葉だ。
「間違ってるかどうかなんて、分からない。でも、私だって皆と部活を続けたい。あのメンバーで。だから、そのために頑張る。コウキも、一緒に頑張ろう」
自然と、コウキは微笑んでいた。
「……智美は、すごいな」
智美の手を掴む。引っ張られて、立ち上がった。
「また、気づかされた」
「またって、そんなに私何かしてる?」
「中学で文化祭のソロに悩んでた時も、智美の言葉で気持ちが変わったよ」
「ああ…そんなこと、あったね」
「助けられてるのは、俺の方だな」
「いやいや、お互い様だって。私も、一杯助けてもらってる」
「……これからは、もっと、部の皆と向き合う。悩んでる素振りとかを、見逃さないで済むように」
「私も」
頷いて、手を離した。
新たに始める高校生活が、すんなりと進み続けられるとは思っていなかった。簡単なことではないと、分かっていた。
案の定、真のことは失敗した。綾も瀬戸際だった。
これから、もっと色んな衝突や問題が起きるだろう。そのすべてを解決できるかは分からない。
それでも、智美が力を貸してくれるなら大丈夫だろう、と思える。
何の根拠も無いが、一人ではない。それだけで今までとは違う。
「智美となら、出来る気がするな」
「そう?」
歯を見せて、智美が笑った。
「これからもよろしく」
拳を差し出した。ちょっとそれを見つめてから、智美が拳をぶつけてくる。
「よろしく! 未来の部長もしくは学生指揮者さん!」
「は? 何だよいきなり」
「うちの学年を引っ張るのは、絶対コウキだよ。どっちかになってもらわなきゃ」
「……なら、もう片方は智美な」
「へっ!? 私は駄目でしょ、初心者だもん!」
「初心者かどうかは関係ないって、前も言っただろ。俺がどっちかになるなら、もう一人は絶対智美だ」
唸りながら、智美が腕を組んだ。
「うかつに言うんじゃなかったな……」
「もう決まり」
「ま、まあでも、皆に認められないとなれないし! 私より相応しい子がいるかもでしょ?」
「それを言うなら、俺だって同じ話だし」
言って、笑っていた。
「てか、何今決めようとしてんだろう」
「あはは、確かに」
大分ゆっくりしすぎた。
帰ることにして、二人で自転車まで戻った。
並んで、走り出す。
「コウキ…ちょっとはすっきりした?」
「ん、うん。ありがとう」
「良かった。明日からも…頑張ろうね」
「ああ」
悩んだ時、落ち込んだ時、苦しい時。そういう時には、いつも智美がそばにいてくれた気がする。
こうして気にかけてくれる人がいるだけで、もう一度頑張ろう、もう一度進もうと思える。
たとえ自分の中の問題が解決していなくても、前を向こうという気持ちになれる。
自分も、誰かにとってそうでありたい。
それでこそ、この時間軸に戻って来た意味がある。
身体に受ける風を感じながら、コウキはただそう思った。
夏編に移ります。
まだ登場していない人物も多いので、楽しみにしていただければと思います。
吹奏楽部にとって最も熱い季節がやってきます。コンクールという大きなイベントに向けて、どこの学校も部員同士でぶつかったりまとまったり、泣いたり笑ったりするものです。
それを濃く描けるよう、頑張ります。
お待ちください。
せんこう




