六ノ二十四 「退部宣言」
ミニコンサートが今週末に控えている。もう、時間がない。
あと合奏が出来るのは、前日の土曜日と当日の午前中だけだ。それまでに曲の出来ていない箇所をさらえてなかったら、まずい。
それなのに、後輩の井口真が部に来ない。
朝練はもともとほとんど来ていない。家が遠すぎると言い訳をしていたが、栞は気に食わなかった。
往復三時間の距離が大変なのは分かるけれど、それなら授業後の活動時間くらいは真面目に来るべきだし、コウキが昼練を開催しているらしく、それに参加すれば良い。真だけが、初心者で昼練に参加していないのだという。
そうしたこともせずに言い訳をされても、納得しろというほうが無理だ。
「ちょっと、もういい加減無理なんだけど。あいつ」
栞の言葉に、正孝が腕を組んで唸っている。
「でも、まだ二ヶ月ちょいだし。見限るの早すぎないか?」
「あいつに時間割いてらんないでしょ。ミニコンだけじゃなくて、コンクールもあんだよ? あいつ全然吹けるようにならんじゃん」
真は、音は出せる。けれど、それだけだ。
入部してようやくひと月ほど経ったばかりの智美のほうが、もう真より伸びている。
才能があるとかないとかではない。真は努力を全くしていないのだ。
「岬先輩、そろそろ決めてください。もう、我慢の限界です」
隣で黙っていたパートリーダーの脇田岬を睨む。困ったような表情をして、岬が答えた。
「栞は、井口君がいないほうが良いと思うの?」
「はい。部にとって、マイナスにしかなりません」
「少ない後輩なのに?」
「人数が少ないから、なんて言ってたら、うちの部はどんどん劣化していくと思います」
岬が、ため息をついた。
「分かった。パートリーダ―会議で言ってみる……ただ、栞ちゃんもあまりその態度は表に出さないでおいて。井口を責める空気になるかもしれないし」
「……はい」
真を辞めさせるか続けさせるか。
そのことについては、三人で話し合い続けてきた。
最初は、真一人しかアルトサックスに配属されなかった以上、真を育て上げるしかないという考えで一致していた。遅刻はするし、自主練はしないし、部活中も集中力が足りていない。それでも、唯一の一年生だった。
けれど、智美が入ってきた。そして、アルトサックスになった。
真の何倍も努力し、分からないことはなんでも聞いてくる。貪欲に成長しようとしている姿は本物で、誰も遅れて入ってきた智美を悪く思わなかった。
智美が入ったことで、サックスパート内では智美の育成に力が注がれるようになった。
それを真がどう思ったかは分からないが、比例するように、真はさらに部に来なくなりだした。
真をないがしろにしていた訳ではない。真が、こちらの熱に応えようとしてくれなかったのだ。
真がこのままの態度で部に居続けるのは、栞には我慢できないことだった。
栞自身も言うほどやる気に満ち溢れているわけではない。ほどほどで良いと思っているし、最近の部の練習量はきついと思うこともある。
それでも、今までとは部が変わり始めているのだ。だから、ついていけるだけついていくつもりでいる。
部が前に進もうとしている時に真の見せる姿勢は、他の部員にとって悪影響となる。
部のことを思うなら、気持ちを改めるか、潔く辞めるか。真が選ぶべきなのはその二つのどちらかではないのか。
日に日にその思いが強くなっていたところでの、今日、何度目か分からない無断欠席だった。
「メンバーが減るのは痛いかもしれないけど、でも逆に、真がいても困ると私は思う。合奏で、サックスがつかまりやすい。音も合わない。ハーモニーぐっちゃぐちゃ」
「それは、まだ初心者だしな」
「初心者は言い訳だよ。初心者なら智ちゃんやクラ三人組みたいに努力すれば良い。努力してるなら、たとえ伸び悩んでいても、誰も文句言わない。教えることだって出来るし、支えることだって出来る。でも、頑張ろうとしないなら、初心者だろうと経験者だろうと、邪魔じゃない?」
正孝も岬も、下を向いている。
「本気でやってくって決めたんでしょ。先生もリーダーも。ならさ、ちゃんと決断してよ。中途半端な姿を見せられても、うちらはついていけない」
真のことは、いつまでも引き延ばしにして良い問題ではない。
他人に影響されて自分まで腐るのは間違っているというのは、誰に言われなくても分かっている。それでも、このままだと真のせいで栞までイライラしたり、やる気がなくなりそうだった。
実際、真に腹を立てて集中できない日も増え始めている。
栞は、真に辞めて欲しい。
吹部には、必要のない人間だ。
智美は、盗み聞きをするつもりはなかった。
たまたまトイレに行こうとしたら、東階段でサックスパートの上級生が会話している声が聞こえてきたのだ。
聞いてはいけないと思いつつも、耳を澄ませてしまった。それで、上級生が真について話していることに気づき、内容からして、辞めさせるかどうかについての話題だと分かった。
すぐに部室のほうに戻って、廊下で談笑していたコウキに駆け寄った。
「やばいよコウキ」
袖を引っ張って、振り向かせる。
「え?」
コウキの耳元に手を当てて、他の人に聞こえないように囁く。
「真、辞めさせられるかも」
さっ、とコウキの顔色が変わった。
「どういうこと?」
部室の中に移動する。
「サックスの先輩達が真のことを話してた。多分、辞めさせるかどうかの話だと思う」
具体的に辞めさせるという言葉は出ていなかった。けれど、間違いない。真は、真面目に部に来ていない。最近は栞との仲も険悪だった。
そういう話が出ても、不思議ではない。
コウキが口元に手を当てて、考え込むような仕草をした。
「まずいな、早過ぎる」
「え?」
「いやっ、何でもない」
コウキは智美の肩に手を置くと、真っすぐに見据えてきた。
「動いてみる。教えてくれてありがとう」
「う、うん」
いつになく真剣な表情で、コウキが言った。
「他の人には言わないで。広まったら、余計に井口君が来づらくなる」
「分かった」
頷いて、コウキは部室を出ていった。それを見送った後、智美は言いようのない不安に襲われて、胸を抑えた。
真は、どうなるのだろう。
今、部内で一番浮いているように見えるのは、真だ。他の人とやる気に差があるように、智美には感じられる。
それは他の部員も同じように感じているだろう。
一年生の中でも、真は男子以外だと、同じサックスパートの智美や幸とくらいしか話していない。
真自身が部のことをどう思っているのか。
続ける意志はあるのだろうか。
今の出席状況だと、そうは思えない。
このまま辞めてしまうのではないか。
智美は首を振って、浮かんできたその考えを振り払った。
真がいない。
教室も探した。駐輪場も端から端まで確認した。真の自転車が無かった。すでに帰宅したらしい。
携帯を取り出して真にかけてみたが、どれだけ待っても出ない。
「何でだっ!?」
自分の自転車を駐輪場から出して、学校から出た。
真の家のほうに向かってみるしかない。
真は前の時間軸でも部員だった。だが、一年生時の定期演奏会を最後に退部した。
部への参加態度が悪く、その件で二年のアルトサックスの栞との仲が悪くなり、丘からも続けるか辞めるか決めろと言われ、辞めてしまったのだ。
あの時、コウキは止めた。丘にも真が続けられるよう、懇願した。それでもダメだった。
この時間軸でも同じことにならないよう、注意はしていた。
だが、綾の時と同じだ。万里や智美達の練習を見ることを優先していて、真まで手が回っていなかった。
「なんでこんなに早まった?」
誰に言うでもなく、呟いていた。
真が辞めるかもしれないタイミングが、以前よりはるかに早まっている。
真は、少しずつ変わっていくと思っていた。まだ時間はある、と油断していた。
部が、変わりだした結果なのか。全体の本気度が増した分、周囲との温度差がある真が、以前より早く周りと合わなくなってしまったのか。
とにかく走った。最短距離で、真の家まで向かった。
前の時間軸では卒業してからも何度か真とは遊んだ。それで、家の場所は知っている。
一時間ほどで真の家に着いた。自転車がある。寄り道せずまっすぐ帰宅したらしい。
呼び鈴を鳴らして、真が出てくるのを待った。その間に、呼吸を整える。
「はい」
玄関を開けて、真が出てきた。コウキを見て、目を見開いている。
「なんでいるの?」
「いや、井口君こそ、部活は?」
尋ねると、真は目線を彷徨わせ、鼻先を触りながら言った。
「用事が、あって」
真のその仕草は、嘘をついている時の動きだった。前と、変わらない。
「……先輩達が、井口君を辞めさせるかもしれない」
「えっ」
「このままの練習態度だと、井口君は確実に退部させられる。それは嫌だ。今からでも遅くない。部に行こう」
手を差し出した。
まだ間に合う。誠意を見せれば、上級生だって真を見捨てはしないはずだ。今からでもつきっきりで真を見れば、コンクールまでにある程度の形はつくれるはずだ。真には、全く才能がないわけではない。
だが、真はその手を見つめるだけで、握ろうとはしない。
「……いや、やめとく」
言って、真がぎこちなく笑った。
「なんで?!」
「吹部さあ、ついていけないんだよね。練習量多すぎて。朝練だって参加はしたいけど、朝早すぎて無理。夕練の後も残ると帰り遅くなるし。そしたら何となく部員の見てくる目も悪い感じだし、行きづらくって」
「なら、限られた時間で集中して吹けば良い。俺も教えるから、一緒に頑張ろう」
「いや……良い機会じゃないかな。多分俺がいても迷惑でしょ」
「迷惑なんかじゃない! 迷惑なやつなんて一人もいないっ」
「三木君は聖人だから」
言って、真が笑った。
「全員が、三木君みたいな人間じゃないぜ」
「そんなの……まだ皆井口君と話してないからだ。打ち解ければ誤解だって分かるし、一緒に頑張る方法だって見つけられるよ。まだお互いのことを分かってないから、意見や態度の違いで反目しちゃうだけだって。今からでも変えられる」
「うーん、気持ちはありがたいよ」
サンダルをつっかけて、玄関から出てくる。
「でも、ぶっちゃけパソコンを使う時間が無くなったのがきつい」
そのまま真は、どこへともなく歩き出した。
促されて、後についていく。
住宅街で、細い路地が入り組んでいる。この辺りは昔からの家が多く、それで複雑な道になっている。
「吹部に入ってから、深夜にしかパソコン触れなくなったんだよね。やりたいこといっぱいあるのに。俺にとってはパソコンが一番大事だから、その時間が減ったのはマジできつい」
路地を、あてもなく歩く。この時間だと周辺は静かだ。細い道だから、車通りも無い。
民家の塀の上にいる猫が、こちらに向かって歩いてきている。ちょっと目が合うと、猫は動きを止め、次の瞬間には塀の向こうに消えていた。
「サックスはまあ楽しいけど、ガチでやりたいわけじゃなかったから、吹部のハードさは正直予想してなかった。辞めさせられるっていうなら、ちょうど良いと思う」
「でも……せっかく入ったんだ、諦めずに頑張ろうよ! 近藤さんだって辞めなかった。一人も欠けずに、皆で続けたいじゃん」
真が、冷たい目を送ってくる。その冷ややかさに、コウキはぞっとした。
「一人も欠けずにって……それは、三木君の自己満足だろ。辞めたい奴だって、いるよ」
その言葉が、コウキの心に刺さった。
自己満足。
衝撃を受けて、言葉が出せない。
「とにかくさ、良い機会だって。ありがとな、構ってくれて。でも、明日自分で丘先生に言うわ。辞めるって」
振り向いた真の顔は、もう決意した表情だった。
真自身が吹奏楽部に見切りをつけている。そうなった人の心を変えるのは、不可能に近い。
真とは家の前で別れた。
結局、コウキには何も出来なかった。
もっと、早くから動いておくべきだった。
一人も欠けさせたくない。
それは真の言う通り、コウキの自己満足だったのだろうか。望まない子も、いるのか。
全て順調に行っていると思っていた。
だが、真も綾も、退部という選択肢を抱かせてしまった。そして真は、辞めようとしている。
同期の二十一人全員で、三年生の定期演奏会まで進みたかった。最後の舞台に、全員で立ちたかった。
それなのに。
暗くなりだした空を見上げて、やり場のない気持ちを押し殺すことしか、コウキには出来なかった。




