六ノ二十三 「きっかけ一つ」
「モッチー、はよ!」
美喜の呼ぶ声。
いつも通り機嫌が悪そうだ、と久也は思った。
譜面台と楽器を持って、久也は総合学習室の端に向かった。
トロンボーン、ユーフォニアムパートが勢ぞろいしている。
すぐに、よしみの隣に腰を下ろした。
「遅くなりました、すみません」
夕練の後、パートで練習をすることになっていた。
「良いよ良いよ。じゃ、全員そろったから始めよっか。いつものリップスラーからね」
二年生のトロンボーンで、パートリーダーの遠山理絵が言った。全員で楽器を構える。
よしみがメトロノームを動かし、理絵の合図で吹いた。
トロンボーンとユーフォニアムは全く別の楽器だが、音域が近かったり曲中で似たような動きをすることもあり、また人数も少ないため、一緒のパートとして花田高では扱われている。
どちらの楽器も、きちんと楽器を鳴らせられないと、ふわふわとした気の抜けた音が出やすい。楽器や身体のコントロールを良くするために、リップスラーは重要な練習だ。
一言でリップスラーと言っても、簡単なものから複雑な跳躍をするものまで様々な型があり、一種類ではなく複数の型を練習する。
「咲ちゃん、音もっと出して」
理絵の指摘に、小さく咲が返事をした。
咲の音は、ふわふわとはしていないが、小さい。普段から自信のなさそうな雰囲気をしている子で、それが音に表れている。
合奏で丘に指摘される時も、咲はいつもそれだった。
常におどおどしていて、音を改善する気があるのかないのか分からないところが、見ていて少しイライラさせられる。
気が強いのが難点だが、まだ美喜の方が音楽面では合う。
「咲ちゃんは常にフォルテ気味に吹いて」
「はい」
咲が、音を強めた。それでも、ようやく普通くらいの音量しか出ていない。
「あんた、体幹トレーニングちゃんとやってんの?」
美喜が、じろりと咲を睨んだ。楽器を構えたまま、咲が眉を下げてうつむく。
二人は、完全に上下関係のようなものが出来ているようだった。それでも、仲が良くも見える、不思議な間柄だ。
「してないでしょ」
部では、春までは腹筋や坂道ダッシュなどが休日練習に取り入れられていた。
今は、体幹トレーニングという体内の筋肉を鍛える練習が採用されている。
楽器は腹筋だけで吹くのではないという考えから取り入れられているが、これが意外と出来ない女子が多い。咲もその一人だ。
「まあまあ美喜ちゃん。責めない責めない」
「……はい」
「よし、もっかいリップスラーやるよ。手を抜いて吹いても意味がないから、しっかり集中してね」
理絵の合図で、もう一度合わせた。
咲はお世辞にも上手いとは言い難いが、下手でもない。他の四人は、上手い方だ。久也も、自分ではそれなりだと思っている。
合奏でも他と比べて、トロンボーンとユーフォニアムはあまりつかまらない。基礎練や曲のさらいに力を入れているからだろう。
どちらかというと基礎力よりも、表現力のほうに課題がある気がする。久也自身もそうだ。
パート練習ではそちらを練習したほうが良いのではないか。そう思ってはいるが、わざわざ言ったりはしない。
上級生に意見をするつもりは久也にはなかった。それをして険悪な雰囲気になるほうが、よほど面倒くさい。
基礎練の後は、デイホームでのコンサートで吹く『アルセナール』という曲に取り掛かった。
吹奏楽のコンサート用に書かれた行進曲だ。華やかな曲調で人気が高い。
花田高校吹奏楽部の定番曲として使っていくらしい。
久也もこの曲は好きだった。
行進曲なので全体的に金管が目立つし、中間には木管がメロディをしっとりと歌い上げるトリオがある。
ユーフォニアムにも見せ場があるため、一度は吹いてみたいと思っていた。
「楽譜の音量記号に気を付けてね。コンサートホールで演奏するんじゃないからね。小さなデイホームで演奏するんだから、普段のつもりで吹いてたら、お客さんにうるさがられるよ」
何度も言われたことだった。
音量は、吹く場所によって気を付けないと、全体とのバランスや聴こえ方などがおかしくなって、聴く人の耳に不快になる。
楽譜に音を強めるフォルテの指示があったとしても、ただ鳴らせば良いわけではない。
狭い室内で金管が鳴らせば、それだけで木管とのバランスはぐちゃぐちゃになってしまうのだ。
しばらく曲の練習が続いて、休憩になった。
「咲、お茶飲みに行こ」
「うん」
美喜と咲が立ち上がって、鞄のほうへ向かった。
久也は、特にすることもなく、『アルセナール』のメロディを吹いた。
ユーフォニアムはメロディや、その裏で流れる対旋律を吹くことが意外と多いから好きだ。音色は柔らかい中に金管らしい力強さもあって、目立たないが吹奏楽の花形楽器の一つだと思っている。
ソロも、いずれは吹いてみたい。中学でもソロを任されたことは一度か二度だった。
「がんばるねぇ、休憩しなよモッチー」
「あっはいっ」
三年生のバストロンボーンの神田瑠美が、後ろに立って肩を揉んできた。
驚いて上ずった声を出してしまってから、恥ずかしさを感じた。
「『アルセナール』良いよねぇ。私、演奏してみたかったんだー」
「俺もです」
「モッチーも? 一緒じゃーん」
なぜか、よしみ以外のパートのメンバーからは、モッチーと呼ばれている。元口だからモッチー。初めて呼ばれるあだ名だった。
「はい」
短い会話。それだけでも、久也にとっては心が弾まずにはいられなかった。
瑠美は、あまり身長の高くない久也より、さらに低い。顔も童顔で、中学生と言われても納得してしまいそうな容姿をしている。ちょっと、好みのタイプだった。
ただでさえ女子とは慣れていないのにそうだから、余計に緊張してしまって、瑠美とはうまく話せない。
久也の肩を二、三度軽く叩いて、瑠美は総合学習室を出て行った。
トイレから出ようとしたところで、ちょうど入って来た桃子とぶつかりそうになった。
お互いに避けようとして、同時に右に行ったり左に行ったりして、見合ってしまう。
「あっごめん」
桃子が、後ろに下がって道を空けた。
「ううん」
美喜が廊下へ出ると、ちょっと目を合わせて、それで桃子は中へ入っていった。
四月の楽器決めの時に、トロンボーンを希望した美喜、咲、桃子の中で、桃子だけがホルンに転向になった。それから、桃子に避けられていた。そのことで、三週間ほど前に智美と喧嘩をした。
コウキが間に入ってきて、咲とコウキと三人で話をした。
自分でも意外だったが、コウキの話はすんなりと聞き入れることが出来た。
調和という部訓の意味。自分ではあまり考えていなかったそれを、コウキが深くまで考えていたことに驚いた。
そして、納得した。
人と人の、調和。その先にある、音の調和。
言われてみれば、その通りだ。よく考えられた部訓だと思う。
智美との諍いがあってからコウキに聞かされたことで、すんなりと部訓の意味を考えられるようになった。
これが、入部の時に顧問の丘からいきなり答えを聞かされていたら、聞き流していたかもしれない。
それから、桃子とは挨拶程度はするようになった。
もともと向こうが勝手に避けていただけで、別に嫌ってはいなかった。一度挨拶してしまえば、それで避けられることは無くなった。
ただ、親しく話したりはしていない。咲は少しずつ話すことも増えているようだが、美喜はまだ、そこまで打ち解けていなかった。
コウキからは智美とも話してみろと言われている。けれど、智美とはまだ口を利いていない。咲は、話したらしい。
喧嘩をしたし、初心者として見下した相手だったから、何となく気まずくて、美喜から話かけることが出来なかった。智美も無理に話そうとはしてこない。
きっかけ一つだろう。
ただ、そのきっかけが無かった。
総合学習室に戻ると、咲の隣に、タイミングが良いのか悪いのか、智美がいた。
「あ、美喜~」
気付いた咲に手招きされた。無視するわけにもいかず、仕方なく席まで向かう。
「座ろ」
隣の椅子を、咲が叩いた。
智美が、頬杖をつきながらこちらを見ている。無言で、腰を下ろした。
「今ねぇ、海原中の定期演奏会の話聞いてたんだ」
美喜の母校だ。昨日が定期演奏会だった。
部の新しい方針で、他校の演奏会を積極的に見て部員同士で共有することになり、それで智美が行った。
美喜は先週、安川高校の定期演奏会に行った。チケットが取りづらいほど人気の演奏会だが、丘が伝手で部員数人分を確保してくれた。ジャンケンで勝ったことで運よく行けたのだ。
「私は、自分で出てたから海原中はどんなのか知ってるし」
海原中はマーチングもする学校だ。だから、ステージドリルという、コンサートホールの舞台で演奏しながら隊列移動をするパフォーマンスが、毎年人気となっている。
「めっちゃ上手かった。熱量が違う感じだったなー」
「当たり前でしょ。ガチの部活だし」
何となく、智美と言葉を交わした。意外と、何ともなかった。
智美も、気にしている風はない。
「でもね、いっこ気になったのが」
「?」
「演奏会って初めて見たけど、皆顔が暗いんだよね。笑顔が無いって言うか。あと、目が合わない。お客と演奏者に、距離を感じた」
美喜は、そんな風に考えた事はなかった。中学校では吹いている最中に笑顔をつくる余裕なんてなかった。そんな顔をしていたら、顧問に怒鳴られたかもしれない。
「どういうこと?」
咲が尋ねると、智美が考える仕草をした。
「皆、楽譜とか指揮者しか見てないんだよね。お客さんは目の前にいるのに、目を合わせないの。例えるなら今こうやって話してる私と咲が、お互いに目を合わせずに会話してるようなものじゃない? それだとお互いの感情とかも分かりづらいし、盛り上がりにくいよね。私達はあなたを観ていますよ、伝えようとしていますよっていう気持ちが、目を合わせることでお客さんに伝わるんじゃないのかなって思うんだけど」
「なるほどねー」
咲が、何度も頷いている。
吹奏楽に触れたばかりの智美だからこその視点かもしれない。吹いている時に、そんなことを考える余裕はなかった。それに、演奏会とはそういうものだという意識が美喜にはあった。
思い返してみると、安川高校の人達は、皆とにかく笑っていた。入場する時、立った時、吹いている時。常に笑顔を絶やしていなかった。ポップスステージでのスタンドプレイなども、楽しそうに動く姿が印象的で華やかだったし、観ているこちらまで高揚してくる演奏だった。
「……その意見、リーダーにも言ったほうが良いかもね」
「美喜がそう言うなら、言ってくる」
「!? 何、いきなり呼び捨てしてんの?」
「駄目なの?」
「駄目、とは言ってないけど」
「咲、岸田さん、じゃおかしいじゃん。私も智美でいいよ」
気恥ずかしくて、答えずに美喜はそっぽを向いた。いきなり距離を詰められると、どう反応して良いか分からなくなる。
苦笑しながら、智美が離れて行った。
「話すと、良い子でしょ」
咲が窺うようにこちらを見ている。
美喜はそれには答えず、濁すように茶を一口飲んだ。




