六ノ二十一 「自分のためのじゃなくて」
去年までは、クラリネットパートは弱いなんて言われなかった。上手い先輩達がいた。未来も晴子も、下手ではなかった。梨奈も、初心者とはいえ悪くなかった。
練習すれば、合奏についていけていた。
今は違う。合奏の度にクラリネットがつかまり、外に出されてしまうことも増えた。
指使いが早く難しい箇所を正確に吹くこと。楽譜に書かれた指示通りに吹くこと。そういうものは、合奏で一から教えてもらうのではなく、ひたすら反復練習で吹けるようにするものだ。
そういうところが、一年生の三人は吹けていなかった。
クラが弱い。足手まとい。未来の前では口に出さなくても、何となくそう思っているであろう人達がいることを感じていた。
だから、とにかく三人の練習を見た。そのために、自分の練習時間だって、削った。
すべては、今年のコンクールで上に行くためだ。それが、未来の全てだった。高校で、未来はクラリネットを辞める。もう、後はないのだ。
未来は進学クラスで、朝課外がある。早くに登校してきて少しは練習するが、普通クラスの子のように朝練に丸々出ることができない。そのうえ、夕練の後も三人に費やしている。
それでも、上手く行っていない。悪循環に陥っている気がした。
日誌で、丘にむけてそれを書いたことがある。
丘は、焦れば焦るだけ解決から遠のく、と短く答えてきた。
けれど、焦るなと言うほうが無理だった。
もうコンクールまでに残された時間は少ない。本番まで、ひと月と少しだ。そのうえ、ミニコンサートがある。
時間はいくらあっても足りなかった。
三人の姿を探しても、どこにもいない。他の部員に尋ねても、分からなかった。
「どこに行ったの、もう……」
練習を見ようと思っていたのに、と未来は思った。
鞄はあったから、帰ってはいないはずだ。
「未来先輩」
呼ばれて振り向くと、コウキが立っていた。
「どうしたの?」
「いや、未来先輩がどうしたのかなーと思って」
「クラの一年三人を探してるんだけど、どこにもいないの。見てない?」
「あー、見てないですね」
「そっか」
再び歩き出そうとしたところで、コウキが呼び止めてきた。
「あの、余計なお世話かもしれません。でも、良いですか?」
「何?」
「多分このままだと、三人のうち、誰か辞めるかもしれません」
「!? どういうこと!?」
思わず詰め寄っていた。
そんな話は初耳だった。あの三人が辞めそうな雰囲気は、未来は感じていなかった。
「……未来先輩が、三人を上達させたいと思って、自主練習の時間も削ってまで見てあげてるのは、知ってました。でも、それが結果的に、あの三人を追い込んでます」
「……どういう意味?」
「未来先輩が三人を教えている時の表情、怖いですよ。俺から見れば真剣な表情にしか見えないけど、初心者の子からしたら、未来先輩が怒っているかイライラしているように見えると思います」
「そんな顔……」
していたのだろうか。
「合奏中、クラリネットを責めるような雰囲気がある気がします。そういうの、きっと三人も感じてるはずです。そのうえ未来先輩まで怒らせてる、って三人が考えてたら、誰か一人くらいは迷惑かけたくないから辞める、ってなるかもしれません」
あり得ないと鼻で笑うことは、出来なかった。
思い当たる節はある。
「確かに最近、三人とも暗かったかも。私の前で、あんまり笑わなくなった」
「優しい言葉を、かけてあげてください。未来先輩の気持ちを、話してあげてください。三人とも、先輩に守ってもらえることが一番嬉しいはずです。すみません、偉そうなこと言って」
「……ううん」
コウキは頭を下げて去っていった。
三人を、守る。未来は、それをしてこなかった。
上達させるために、教えることはしていた。けれど、三人を周りの評価から守ることはしてこなかった。
責められているのはクラリネットパートだったが、三人が、もし自分達のせいで、と考えていたら。
そもそも、未来自身も、三人が足を引っ張っていると思っていなかったか。
嫌な予感がして、すぐに探そうと思った。
歩き出そうと振り向いたところで、向こうから、夕達が歩いてきているのが見えた。
和が、眼鏡をはずして涙を拭っている。綾が、うつむいている。夕が、唇を噛んでいる。
三人のその顔を見て、悟った。
コウキの言う通りだった。自分が、この顔をさせていたのか。
「皆」
声をかけると、びくっと反応して、三人がこちらを向いた。
「今日は」
「先輩っ」
遮るように、綾が声をかけてきた。目は伏せたままだ。
制服の裾を、握りしめている。
「……私、部活辞めます」
絞りだすような、綾の声。
「ごめんなさいっ」
頭を下げると、綾は未来の脇を通り抜け、総合学習室へ飛び込んでいった。すぐに、向こうの扉から、鞄を持って走り去っていった。
「ごめんなさい、先輩。止められなかったです」
夕が、唇を噛んだまま、涙を流しだした。和は崩れるようにその場にしゃがみこんで、涙をこぼしている。
何も言えず、未来は立ち尽くすしかなかった。
部内が、騒然とした。走り去る綾の様子で何かを悟ったのか、コウキが駆け付けてきて、未来達の姿を見て、すぐにどこかへ消えた。
それから晴子と梨奈が来て、夕と和の話を聞いた。そして、綾を追いかけていった。
音楽室で打楽器のパート練習に付き合っていた丘が、騒ぎを聞きつけてやってきた。
「一ノ瀬」
「……はい」
丘の顔を見ることが出来ない。
「近藤は、辞めたい、と言ったのですか? 辞める、と言ったのですか?」
「辞めます、って言われました」
「……なら、まだ近藤は引き留められるかもしれません。貴方も追いかけなさい」
「え、でも……」
「パートリーダーでしょう。彼女と一番長く接していたのは、貴方ではないのですか? 貴方の言葉をかけてあげなさい」
「……はい」
丘に頭を下げ、走り出す。階段を下りようとしたところで、コウキが呼び止めてきた。
「晴子先輩に携帯を持っていくように言っておきました。未来先輩も携帯を持っていってください」
「あ、私、持ってきてない」
「……じゃあ俺のを。晴子先輩の連絡先は聞いておきました」
コウキが、自分の携帯を差し出してくる。それを、受け取った。
「先輩。近藤さんにかける言葉は、慎重に選んでください。俺じゃ……引き留められない。先輩達にしか、無理です」
「でも、何て言えば良いのか……」
「未来先輩のためのじゃなくて、近藤さんのための言葉をかけてあげてください」
綾のための言葉。
頷いて、階段を駆け下りた。携帯で、晴子にかける。
「あ、晴子?」
「え、未来? コウキ君じゃないの?」
「借りた。今どこ? 綾ちゃんいた?」
「駅に向かってる。梨奈が見つけたって」
「わかった」
電話を切った。
「未来先輩!」
生徒玄関から飛び出したところで、コウキが音楽室の窓から手を振っているのに気づいた。
「自転車要りますか!?」
「要る!」
「鍵です!」
コウキが、ハンカチに包んだ自転車の鍵を投げた。地面に落ちたそれを拾い上げる。
「駐輪場の一番手前の青色の自転車です!」
駐輪場に行くと、コウキの言った通りの自転車があった。
未来には少し大きいが、無いよりはマシだ。
すぐに、駅に向かって走り出す。雨が降っている。全身が濡れていったが、構っていられない。貼りついた前髪を、横に流した。
立って漕いでいたが、すぐに息が上がってしまい、サドルに腰を落とした。
こんなことなら、運動もしておくべきだった。
晴子達は、間に合ったのか。電車に乗る前に綾を引き留められたのか。
信号で止まる。大きく息を吐き出した。呼吸が荒い。
それでも、一秒でも早く駅に着かなくてはならない。
再び走り出し、十分ほどで駅前に到着した。自転車を脇に停めて中へ入ると、改札の脇に三人がいた。
綾が、こちらを見ている。
晴子と梨奈が、綾の両手を握っていた。
「未来先輩……」
全力で漕いできたせいで、声が出せない。何度か呼吸を繰り返して息を整える。心臓が痛いほど鼓動を繰り返しているが、構わなかった。両膝についていた手を放し、身体を起こして綾を見据える。
「綾ちゃん、ごめんなさいっ」
勢いよく頭を下げた拍子に、水滴がぽたぽたと地面に飛び散る。
「私が、綾ちゃん達を守ってあげなきゃいけなかったのに……クラリネットを責める雰囲気から、私が……なのに、全然三人のこと見てなかった。演奏を教えて、それで見てる気になってた。私が、間違ってた。もっと、違うやり方があった。ごめんなさい。綾ちゃん達を傷つけてた。もう一度……やり直すチャンスをください。私達と一緒に、続けてほしい」
絞り出すような声で、綾が答える。
「……私が、一番下手なんです。いつまで経っても吹けるようにならなくて、音も外してばっかりで。私がいると、皆に迷惑です」
「そ、れは違う! 迷惑なんかじゃない!」
頭を上げて、綾を見る。綾は、顔を歪めながら首を振った。
「それに、吹いてて、楽しくないんです。怒られてばっかりで……初めは、三人で楽しく吹いてれば良かった。でも、もうそういう段階じゃなくなったみたいで……真剣にやろうとしました。でも、吹けば吹くほど、周りの空気を悪くしてる」
言葉を発しようとして、コウキの言葉を思い出した。
「近藤さんにかける言葉は、慎重に選んでください」
ここで間違えたら、綾は、もう戻ってこない気がした。
晴子も梨奈も、黙っている。
深呼吸をして、心を静めた。もう、自分の想いにこだわっている場合ではない。それにこだわり続ける限り、綾は戻ってこない。
「綾ちゃん」
綾と、目が合う。逸らさず、見つめた。
「綾ちゃんには、まだ時間がある。この二ヶ月で、綾ちゃんは上手くなったよ。これから三年間で、きっともっと上手くなる。コンクールは、今回だけじゃない。綾ちゃんにとっては、まだ始まったばかりだよ。私は……高校でクラリネットを辞めるから、今年のコンクールでどうしても上に行きたかった。その目的のためだけに、綾ちゃんに辛い思いをさせてた。でもそれは、他の人に無理をさせてまで叶える夢じゃない。私は、綾ちゃんと一緒に吹けたら良い。綾ちゃんがいない状態で上に行ったって、意味が無いよ」
未来にとって、上位の大会へ行くことは絶対的な目標だった。けれど、それは、後輩を悲しませ、音楽に触れる楽しさを奪ってまで到達したいものではなかった。
「戻ってきて、綾ちゃん。一緒に、もう一度吹こう?」
綾の目から、涙がこぼれ落ちる。
「……でも、私なんか」
「私なんか、じゃないよ。綾ちゃんは、頑張ってくれてた。それを、私が見てなかった。ゆっくりで良い。ゆっくり、進んでいこう」
「……考え、させてください」
静かに頭を下げ、綾は改札の向こうに消えていった。三人で、それを見送った。
「待ってるからっ」
叫んだ。届いたかは、分からない。
ぽつぽつといる駅の利用客が、何事かとこちらを見ている。
晴子が、肩に手を置いてきた。
「やれるだけのことはやったよ、未来は」
「あとは綾ちゃん次第だと思います」
「うちらも、気づいてあげられなくてごめん。未来一人に負担をかけてた」
三人で、その場でうなだれた。
綾は、戻ってきてくれるだろうか。
言葉は、届いただろうか。
濡れた身体から落ちた水滴で、床に、水たまりが出来てしまっていた。




