六ノ二十 「楽しくない」
蜂谷も丘も、考えて吹けと言っていた。丘はもはや口癖だ。
どこまで自分の音と向き合って、妥協せずに吹けるか。それが上達にとって最も重要なことらしい。
無意味に吹いているだけでは、ある程度吹けるようにはなっても、いずれやってくる壁を越えられないまま悩み続けることになるらしい。
だから夕は、出来るだけ考える、ということを意識した。
しかし、考えるということを考えてしまう。考えて考えて、音よりも考えることのほうに頭が行ってしまって、余計にこんがらがっていた。
音の何を考えれば良いのか、分からなくなる。
「鈴木さん、音が乱れていますよ。しっかりと隣の音を聞いて、正確に吹いてください」
「っはい」
合奏だった。
丘に指摘されて、慌てた。
「もう一度、二十五小節目から」
少し戻って、同じところを吹く。また、丘が止めた。
「違いますね。鈴木さん、一人で吹いてください」
丘の合図で、フレーズを吹く。指揮棒を譜面台にトントンと当てて、丘が止めた。
「鈴木さん。あなた一人だけ遅れているのです。テンポに合わせて正確に。外で直してきてください。直ったら戻ってきて」
「……はい」
六月のミニコンサートに向けて、曲の合奏が始まっていた。土日しか合奏をしないから、本番まで合わせられるのは今日を含めてあと五日だけだ。
一人のズレにこだわっていると、全体が合わせられなくなる。だから、丘は容赦なく出来ていない部員を合奏から外して個人練習をさせていた。
練習して、指摘された箇所を直せたら戻る。見てもらい、納得してもらえれば合奏に参加できる。
夕は総合学習室に移り、メトロノームを使って、ゆっくりの速度から、丘に指摘された箇所を正確に吹くことを意識した。
出来たら、少し速度を上げる。その速度でも出来たら、さらに上げる。繰り返して、楽譜の指示速度まで上げていく。
個人練習でも、ペア練習でもこの繰り返しだった。ペアの晴子からは、基礎練習は個人練で行えと言われていた。晴子と練習するときは、とにかく曲を練習した。
夕にはそのほうが良い、と言われていた。
夕は、高校からクラリネットを始めた。楽譜を読めるようになるところからがスタートだった。運指を覚えて、音をしっかり出すことを意識して、姿勢や吹き方に気を付けて。
蜂谷や丘、晴子に指摘されたことは、すべてメモしていた。
気を付けるところが多すぎて、上手く行かないところも多かった。
自分が上達しているのか、はっきりと分からない。最初よりは指も回るようになってきた。音階練習も、全調分、楽譜を観なくても指は動く。
ただ音は、自分でもまだ汚いと感じていた。リードミスという、音が外れる失敗をすることもよくある。
とにかく、教えられたことを全て意識しながら吹く。それくらいしか、夕には考えるということの意味が分からなかった。
楽譜の指示速度で吹く。繰り返して、何とか吹けていると感じた。
音楽室へ戻ると、大分曲は進んでいた。
「遅かったですね。では二十五小節目から」
「はい」
夕も加わって、全員で吹いた。止められた箇所。そこを過ぎても、丘の指揮は止まらなかった。
ミニコンサートの合奏のあとは、コンクールの課題曲の合奏だった。
コンクールでは、指定された曲から一曲を選ぶ課題曲と、各学校が自由に選ぶ自由曲の二曲を演奏する。どちらもそれなりに難易度が高いらしく、初心者の夕でもそれは分かった。
ミニコンサートの曲を練習するようになって、明らかにそちらより難しい箇所が多いことに気づいたのだ。
ミニコンサートの曲で躓いているのに、この調子ではコンクールの足手まといになりはしないか。そう考えると、憂鬱だった。
また、クラリネットが指摘された。
「クラリネットパート。テンポに合っていない。音の粒がはっきりしていない。細かい動きこそ、丁寧に、正確に。外でやってきてください」
「はい」
「では、それ以外の人で五十小節目から」
合奏の邪魔にならないよう、素早く外へ出る。
総合学習準備室で輪になり、指摘された箇所を、メトロノームに合わせて吹いた。
三年の未来が、イライラした様子で止めた。
「もっと、集中して。私たちだけ外された。その間、合奏できないんだよ。一秒でも早く戻らないと」
「……はい」
もう一度、合わせる。
夕は、速度が速すぎると感じていた。もっとゆっくりの速度から、段階的に上げていきたい。
和も綾もついていけてない。
「はー……違う」
「未来先輩」
思い切って、夕は手を挙げた。
「何?」
「もっと、ゆっくりのテンポから、少しずつ上げてほしい、です」
未来が考えるような仕草をした。
「それだと、時間がかかりすぎる。今は、合奏の時間だよ」
「でも……このまま戻っても、また外されちゃうかも……確実に吹ける速度じゃないと、ついていけません」
未来が、晴子と二年の杉田梨奈と顔を見合わせた。晴子が、頷いた。
「できない速度でやってても駄目かも。遅くなって怒られるなら、一緒に怒られよう」
晴子の言葉で、未来も頷いた。
速度を半分に落として、合わせる。夕が一人の時にやったのと同じように、出来たら速度を上げていく、それを繰り返した。
三十分近く、やっていた。
さすがに時間をかけすぎたのか、奏馬が呼びに来た。
「丘先生が入ってって」
「……はい」
未来が悔しそうに眉をゆがめている姿が、胸に刺さった。
迷惑を、かけている。
和と綾も気づいたのか、うつむいていた。
未来は、きっちり吹けている。晴子と梨奈もだ。夕たちが、乱している。三人が原因なのだ。
三人が上手く吹ければ、追い出されることもない。
自分の力不足が、悔しかった。
音楽室に入ると、丘がじっと見てきた。
「音は聞こえていました。やり方は良い。最初のように速度が速いまま練習を続けていたら、私は叱っていたでしょう。フレッシュコンの公開指導でも、講師の先生に言われたでしょう。時間はかかるが、確実だと」
夕も、あの公開指導を後ろで見学して、メモしていた。
だから吹けない箇所は、いつも遅い速度で練習してきた。
「私が吹けない生徒を外に出すのは、確実に吹けるようになってもらうためです。それを合奏で見ていたら、他の生徒の時間まで無くなってしまう。だから、出てもらう。合奏に参加できず、焦りましたか? 気持ちはわかりますが、中途半端で戻ってきても意味はありません。ひとまず、今出来るテンポで聴かせてみなさい」
「八十です」
ハーモニーディレクターから、テンポ八十で音が鳴りだす。
丘の指示で、合わせて吹いた。早い指使い。音が躓いたり転がったりしないよう、指を素早く正確に動かす。
「良いでしょう。指示速度で吹けるように、必ず合奏以外の時間でさらっておきなさい」
「はい」
「……一ノ瀬」
「? はい」
「あまり、三人を責めないように。貴方も皆も、よく頑張っている。最初は出来ないものです」
「……はい」
それからは、進んでいたところから合奏が再開され、部活終了まで続けられた。
部活が終わって、和と綾と三人でいた。
音楽室とは反対の、東端の外の非常階段。鍵は、内側から開けられるようになっている。三人で話すときは、いつもここだった。
梅雨入りして、雨がしとしとと降っている。雨の当たらない三階の階段のところで座っていた。
「私、もう辞める」
綾が、ぽつりと言った。
綾の顔を見ると、冗談で言っているようには見えなかった。和が、目を見開いて綾の腕をがっと掴んだ。
「なんで!?」
「だって、全然ついていけるようにならないんだもん。未来先輩も、ずっとイライラしてて……夕と和はまだ良いけど、私は全然駄目」
「そんなことないよ!」
「ある。あるよ。私、全然上手くなってる気がしない。頑張っても、吹けるようにならない」
「綾ちゃん、諦めないでよ。三人で見返すって、約束したじゃん」
「そうだけど……」
「嫌、辞めちゃやだ」
和が、泣き出した。ぽろぽろと、涙がこぼれ落ちている。
目を合わせず、綾は下を向いていた。
「辞めないでよ……一緒にやろうよ」
「だって……迷惑ばっかりかけてる。未来先輩、いっつも私たちのせいでピリピリしてる。それに、吹いてて……楽しくない」
綾の気持ちは、痛いほどわかった。夕も、今楽しいかと聞かれたら、頷くことは出来ない。
部全体で、クラリネットに対する風当たりがきつくなりだしている感じがしていた。合奏で常に指摘されるのは、クラリネットパートばかりだ。
そのせいで、パートリーダーの未来も精神的にストレスを感じているだろう。
「辞めるなんて言わないで、もう少し、頑張ろうよ。一緒に、乗り越えようよ」
それしか、夕には言えない。
けれど、綾は、うつむいたままだった。




