七 「冬の図書室」
担任の声が、耳を通り抜けていく。
チョークが黒板とすれたり、ぶつかる鋭い音だけが、教室に響いている。
秋の教室は、暑くも寒くもなく、過ごしやすい。午後という事もあり、少しだけあたたかいため、窓が半開きになっているところもあって、そこからは別の教室の話し声や、体育館からの音が届いてくる。
美奈は、周りに気がつかれないように、横を見た。
二つ隣の席に、コウキが座っている。他のクラスメイトが一心にノートに黒板の字を書きこんでいるのに、コウキは教科書を凝視している。
初めのうち、それは熱心に教科書を読みこんでいるのだと思っていた。
仲良くなってからは、教科書に隠して他の本を読んでいるのだという事を教えられた。
授業中によそ事をする子ではなかったのに、そんなところでも、コウキはやはり変わった。
ただ、コウキが読んでいる本は、図書室で借りてくるのだという事を知って、意外な気持ちだった。漫画とか、そんなものだろうと思っていたら、これはと思うようなちゃんとした本も読んでいたりする。
美奈も本が好きで、図書室はよく使っていた。
周りでは誰も読んでいないような本を、コウキも読んでいると知った時は、嬉しかった。
今まで、本の話で友人と盛り上がった事は無い。皆、雑誌や少女漫画程度しか読まない。だから、本の話をしたくても、出来ずにいた。
コウキとは、本の話で盛り上がった。難しい話でも、コウキは分かりやすく話してくれる。読んだことのない本の話を面白おかしく紹介してくれる。それらを聞くのも、楽しい。
明らかに、コウキは美奈より本を読んでいるのだろう、と思えた。そんなに読んでいた様子は無かっただけに、ちょっとコウキの事を見直した。
友人といる時間は好きだ。けれど、美奈は読んだ本の話もしたかった。その話が他人と出来るようになって、学校が、前より楽しくなった。もっと、コウキと話したいと思ってしまう。
ただ、コウキは人気者だ。周りをいつも人で囲まれている。自分から積極的に話しかけるのは、まだできない。
コウキの方からそばに来てくれるから、話せる。
いつのまにか、コウキと話す時間を待ち遠しく感じている自分がいた。
授業が終わって、終わりの会で担任の話を聞いて解散となった後、図書室へ向かった。借りていた本が読み終わった。次の本を借りるのだ。
図書室の本は数が多いとは言えないものの、美奈の好奇心を満たすには十分な量だった。今は、伝記物を読むのが楽しい。
それに、もしかしたらコウキも図書室にいるかもしれない。教室にはいなかった。いつも、すぐに帰る方ではなかったはずだ。
いたら良い、と美奈は思った。
最近、クラスメイトのコウキに対する評価が変わってきた。
いつも通り過ごしているだけであるが、やはり普通の小学生男子に比べて大人びて見えるのだろう。男子からは頼られるようになったし、女子からは好意を示されるようになってきた。
クラスの輪に溶け込み、その輪を広げる努力をしてきた甲斐もあると思う。慕われると、それだけ動きやすくなる。
クラス内での陰口やいじめも減ってきた。
いじめられていた福田喜美子も、原因であった服装の問題を一緒に解決したことで、皆と馴染めるようになっていた。
喜美子は、やや服装がダサかった事と、汚れが目立っていたのだ。
彼女の家庭は親が共働きのため家事をきちんとこなせず、そのため同じ服を着てくるとか、汚れたままとか、そういう事があった。
それで、服の選び方を教えて一緒に買ったり、自分で洗濯できるように洗濯の仕方も教えた。
喜美子自身も変わりたいという気持ちが強かったおかげだろう。
服装や清潔感が変わったことで、喜美子自身も雰囲気が変わった。笑顔も増えて、ほっとしている。
クラスの空気も、大分良くなった気がする。
コウキ一人が張り切っても、こうはならなかっただろう。クラスメイトひとりひとりが良い子だったのも大きいと思う。相手に対する誤解さえ解ければ、自然と仲良くなってくれた。
季節は冬が近くなっている。
この時代に戻ってから、あっという間だった。
授業は相変わらず退屈ではあったが、みんなと仲良くなったり遊んだりしているうちに、毎日はどんどん過ぎていった。
忙しく過ごしているうちに、もう数ヶ月だ。卒業も、そう遠い話ではない。
こんなに遊んでばかりいられるのも、今のうちだけだろう。中学生になれば、部活動が始まって帰りは遅くなる。授業の内容も少しは難しくなるし、勉強の必要も出てくる。
コウキにとっては、今は毎日が休みのようなものだ。考えなくても、授業の内容は全て分かる。ただ友達と過ごして、より良い人間関係の構築に力を注いでいれば良い。
この年齢に戻ってこられたのは、幸運だったと言えるだろう。
意外でもないかもしれないが、こどもの身体になった事で、夜が早くなった。起きていようと頑張っても、十時には眠くなって寝てしまう。
おかげで朝は早起きできて良いが、完全にこどもの身体なんだ、と改めて思わされた。
かつてはゲームのし過ぎで夜更かしも平気でしていたが、戻ってきてからはあえて古いゲームをする気にもならなかったし、テレビもつまらなくて観なくなったからかもしれない。
我ながら健康的な生活だと思う。
そのかわり、面倒なのは、女の子から手紙の交換とか手帳の回答とか、昔流行ったあの類を押し付けられることが増えた事だ。
手帳の一問一答集みたいなやつに答えたり、日常のことを書いた手紙を交換したりする。答えないわけにはいかないから、夜はそれを書く時間としても使っている。
女の子同士でやれば良いのにとも思うが、せっかくだから渡すついでに会話をして、向こうのこともいろいろ聞いたりする。 女の子たちの情報を知っておくと、後々役に立つことがあるかもしれないからだ。
ただ、中には明らかにコウキに好意を持っているのだろうという子もいたりして、そういう子には妙に期待させないように気を付けた。
今誰が好きだとか付き合うだとかをすると、女の子同士の仲が険悪になったりする可能性がある。恋愛が絡むと、人は変わる。それは、二十八年生きてきて強く感じた事だ。
昨日まで親友のようだった二人が、たった一夜で異性を取り合う憎悪の対象になったりする。
そういうのは避けたかったし、本当に好きな子とだけ付き合いたいという気持ちもあった。
それに、相手はいくら同い年とはいえ、実年齢は大人とこどもだ。その感覚が残っているからか、こどもと接している気になってしまって、ほとんどの子を恋愛対象に見る事が出来ないというのもある。
女の子とは、つかず離れずの関係でいたほうが良い。
もう一つの夜の時間の使い方としては、男の子の間で流行っているカードゲームのデッキの構築やコンボの考案だった。
最近は、放課後にカードゲームの塾を開いている。
男の子は遊びに夢中になれば仲良くなる。おかげでちょっと暗い子とか話すのが苦手な子も、カードゲームを通して親しくなっていった。
カードの種類が多いほど、様々なデッキやコンボを用意できて、塾生に多様なパターンの講義が出来る。
そのためにカードそのものを買うのに金がかかるので、塾料を取ろうかとも考えたが、こども相手にそれはさすがにどうだろうと思ってやめた。それよりは男の子がゲームに熱中して、互いに仲良くなることを優先させたかった。
そのうち、ボードゲームのような男子も女子も楽しめるゲームを流行らせて、皆が仲良くなるような感じにもっていけたらと考えている。
皆で遊ぶと、遊びを通して、自然と相手を理解できるようになる。
クラス対抗で大会などを開けば、他クラスの子も打ち解けられるようになるかもしれない。
そういう方向へ変えていきたい。
「何考えてるの?」
授業後、図書室の陽が当たる席で思考に耽っていた。
声をかけられて、そちらを見る。いつのまにか、美奈が隣に座っていた。
「あれ、美奈ちゃん。いつの間におった?」
「さっき来たとこ」
以前に怪しまれてつけられた事件の後から、彼女とは自然と仲良くなっていた。
あれ以来、美奈もコウキを怪しんだりはしていないようで、気を付けた甲斐はあったと思う。
本が好きらしく、図書室で会う事が多かった。洋子と絵本室にいたから、今までは気がつかなかったのだろう。
「で、何考えてたの?」
興味津々といった様子で、椅子ごと身体をこちらに向けてくる。
「ん、いや……男子も女子も一緒に遊べるゲームって何かないかな~って思って。カードゲームはあんまり女子ってやらないし」
「そうだね。カードゲーム、難しそうだもん」
「覚えれば面白いけどね」
「なんで、男子も女子も一緒に?」
「大勢で夢中になれるゲームとかしたら、皆仲良くなれるじゃん。遊びを通してお互いを知るのが、手っ取り早いかなって」
感心したように美奈がうなずいた。
「確かに。すごいね、なんでそういうこと思いつくの?」
「あ、いや、なんでだろ……ははは」
「やるなら、パーティーゲームみたいなやつが良いのかな」
「うん、そうだなあ。ボードゲームとかは皆でやりやすいよね」
「私も、考えとく。思いついたら教えるね」
「ありがと」
美奈が微笑んだ。
そのまま、沈黙になった。彼女とは、よく無言になる。だが、嫌な感じはしない。向こうも、そうなのだろう。
図書室で会うと、二人とも自分の本を読む時もあるし、ぼんやりと外の景色を眺めている時もある。
そういう時間が心地よいと感じられるのが、嬉しかった。
美奈は目立たないが、他の同級生よりもずっと大人びた考えを持っている。本をよく読むからだろうか。二人だけの時は、本の話で盛り上がった。
難しい話でも、分からないで済ませず、興味を持ってくれる。出来るだけ分かりやすく話そうとすると、話す量も増えて、必然的に、美奈との会話は次から次へと溢れ出した。
美奈も、コウキと話す時は、普段より饒舌だった。
そうかと思えば、こうして沈黙になる時もある。そして、それが心地良い。
美奈だけは、こどもと接しているという気が全くしない。
今図書室には、授業後の委員会活動で受付にいる図書委員の子とコウキ達だけで、それは、好都合だった。
静かに思考に集中できるし、最近ではこうして美奈と二人で話す時間も楽しみにしている。
美奈は、静かな子だ。
後をつけられて話した時の、慌てきったような彼女の様子とは打って変わって、普段は落ち着いていて、大人びた雰囲気すらある。
親しくなってから、なぜ家の付近からつけていたのか聞いたが、あの時はたまたま買い物に出かけてコウキを見かけ、つい追いかけてしまったらしい。
探偵になった気分で大胆になってしまったと言っていたが、残念ながら彼女に探偵の才能はないだろう。正体をさらさないのは上手かったが、尾行はお粗末だった。
ただ、そんな珍事件があったおかげで、美奈と仲良くなれたのは良かった事ではある。
いつの間にか、美奈と二人きりで話す時間が、コウキの中で大きなものに育っていた。この歳では、どうしても周りの会話はこどものするそれになる。美奈と居る時だけ、大人びた話でも楽しく出来た。
それが、思いのほか楽しい。もう少し、一緒にいたいと思えてくる。
「今日、一緒に帰ろうよ」
それで、思わず口に出していた。
「えっ?」
驚いた美奈が、ばっと振り向く。
言われた意味を理解したのか、一瞬で顔を真っ赤にして、目を泳がせはじめた。
「嫌ならいいんだけど、たまには一緒に帰りたいし。家の方向同じでしょ」
勢いよく首を横に振られた。
「ううん! 嫌じゃないよ! 帰る」
「そう……よかった」
直球で言い過ぎた気はする。会話の流れで言うつもりだったのに、この雰囲気が心地よくて、ぽろっと呟いてしまった。
この時代に戻ってきてから、人と接する時は両親ですら常に気を遣っていた。怪しまれないためにこどものふりをしたり、こどもにしては聡すぎる事を言わないように気を付けたり。
それは、思ったよりも疲れる。
でもなぜか、美奈の前では自然体でいられた。素の自分を出して、それを美奈が受け入れてくれる。だからかもしれない。
美奈と顔を見合わせて、笑いあった。
「じゃあ、帰ろうか」
「うん!」
美奈のとびきりの笑顔を見て、心臓が跳ねる。
美奈とは、身体の年齢が同じなだけで、実際の歳は十歳以上離れている。それなのに、何故か美奈を見ていると、同い年の女性と接しているような、そんな気がする。
この身体になってすぐの時、小学生時代の記憶が頭の中を駆け抜けた事があった。
あれが、影響していたりもするのだろうか。
心は大人のままのはずだが、時折、自分が本当に周りと同じこどもなのではないかと勘違いする時がある。
それで、困る事があるわけではない。
ただ、美奈と接する時のこの気持ちはなんなのだろう、と思う時はある。相手は、こどもなのにだ。
魅かれ始めている、のだろうか。
美奈の横顔を見ていると、胸の辺りにおかしな感覚が生まれる。
それを悟られないよう、平静を装って、美奈に笑いかけた。
返って来た笑顔に、また、心が動いた。